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8の2.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(260-338頁)

8の2.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(260-338頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U1 神の啓示 言葉の受肉』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies4.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

8の2.「啓示の秘義――二 まことの神にしてまことの人間」(260-338頁)
(10)ご自身の中での神(自己自身であるの神)としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)である「神の言葉が肉(≪その内在的本質としての「神性」の受肉ではなく、その外在的な第二の存在の仕方である言葉の受肉≫)となった」とは、「われわれのための神の時間」として、「真に罪なき、従順なお方」(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」において、「まことの実在の人間となった」、「まことの実在の人間であった」、われわれと「同じ人間的本質と存在」、「人間的性質と形態」、「歴史性にあずかるようになったということ」である。こういう仕方で、「われわれに対する神の啓示は出来事として起こった」。したがって、こういう仕方においてのみ、われわれは、啓示・和解を理解することができる。「福音記者と使徒」は、「その地上における全生涯にわたって」「真に罪なき、従順なお方」「まことの人間イエス・キリスト」において、「成就された時間」(「まことの現在」)としての「啓示そのものの本来的な行為」・「四十日ノ福音」・「甦えり」・復活・「神の国」(使徒行伝1・3)を宣べ伝えた――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、(≪主格的属格として理解されたギリシャ語原典「神の御子の信じる信仰」として、すなわち神の御子が信じる信仰として、≫)<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。

 

 その現にあるがままの人間の「子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである」、「確かに、彼は天使たちを助けることはしないで、アブラハムの子孫を助けられた。そこで、イエスは、罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねば成らなかった」(ヘブル2・14以下)。使徒信条において、「聖霊ニヨッテ宿リと三日目ニ甦エリの間にある告白の言葉、オトメヨリ生マレ、ポンテオ・ピラトノモトニ苦シミヲ受ケ、十字架ニツケラレ、死ニテ葬ラレは、それがそのほか意味していることと並んで、……マコトの人間を強調するということを意味している」。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)における啓示は、この「『肉をとって来る』ということ共にたちもすれば倒れもする」のである。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現は、「神性」を内在的本質とする外在的な第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、その「三位相互内在性」における内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示だからである。生来的な自然的な人間の「精神ハ近ヅキ難イゴ威光ノ輝キノ中ニイマス神ヲソノママ見テトルコトガデキナイノデ、人間ノ姿デ現ワレ給ウタ神ヲ見、見ツツ認識シ、認識シツツ愛シ、愛シツツ最大ノ努力ヲ払ッテソノ栄光ニ到達シヨウト努メル(カンタベリーのアンセルムス)」。

 

(11)バルトは、「神の言葉が肉となった」・「人間となった」という時、その「肉となった」・「人間となった」ということにおいて、その現にあるがままのわれわれ「人間そのもの」が語られているのではなくて、「真に罪なき、(≪まことの神に≫)従順な」、本来的な、「マコトノ」「人間的な本質と存在(Dasein)、人間的なあり方と性質、人間性……たらしめる」ということが語られている、と述べている。「イエス・キリストの名」においては、まことの人間としての「人間的な本質と存在がそのまま(≪まことの神としての≫)言葉の本質と存在となった」のである(「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方である子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事となったのである)。その「一回性」において「個人的な、特定の」「マリヤの最初の息子」――「この具体的な実在(≪その内在的本質である「神性」の受肉ではなく、その外在的な第二の存在の仕方である言葉の受肉≫)こそが、それ自体、(≪「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方である≫)言葉の業(≪働き・行為≫)であって、それは決して言葉の業の前提ではない」。したがって、その「人間性は決して言葉と並んでの独立した現実存在をもってはいない」のである、「すなわち、言葉が造ったもの(≪言葉の受肉≫)として、自分自身言葉であるそういう人間の中で……だけ存在する」。『神の人間性』に即して言えば、「三位相互内在性」におけるその内在的本質としての「神の神性において」、「また神の神性と共に、ただちに……神の人間性(≪その外在的な第二の存在の仕方≫)もわれわれに出会う」と表現される。キリストが「人間トナッタ最初ノ瞬間カラ……彼ハ神ノミ子以外のホカノ方デハアリ給ワナカッタ(アウグスティヌス)」。したがって、キリストの内在的本質としての「神性」性が「啓示と和解を生じさせる」のである。すなわち、「和解主としてのイエス・キリスト」は、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「神ご自身である」が故に、その外在的な第二の存在の仕方における「人間的『性質』」、「人間であること」、「神との和解者として、われわれに出会うところの人間であること」は、「啓示および和解として現実に有効なのである」。

 

 イエス・キリストの客観的実在とは、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、「神ご自身が自ら人格(≪第二の存在の仕方≫)をとって行動しつつ肉(≪その内在的本質である「神性」の受肉ではなく、第二の存在の仕方である言葉の受肉≫)の中に現臨されるということである」、「神ご自身が自ら個人的に、実在の人間的存在と人間的行動の主体であり給う」ということである、したがって、「神性」を内在的本質とする「まことの神にしてまことの人間」イエス・キリストのその「まことの人間」としての「その存在と行動は、純粋にまことに人間的存在であり、まことに人間的行動である」。したがってまた、イエス・キリストは、「決して半神ではあり給わない」、「天使ではない」、「理想的人間でもあり給わない」。したがってまた、八木誠一が『イエス』で述べているような、「ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」人間ではない。「まことの神にしてまことの人間」であるイエス・キリストは、「われわれのもとで神のために仲裁され、神のもとでわれわれのために仲裁し給う。そのようにして彼は、われわれに対する神の啓示であり、神とわれわれとの和解であり給う」、「啓示ないし和解の実在」そのものであり給う。「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方である「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。

 

(12)新約聖書における「『肉』という語」は、「一般的な人間」を意味しているだけでなく、それは、「神の判決と裁きのもとに立って」いる、「神を認識し愛することができなくなった」、「神に対して罪を犯した死すべき現実存在となった人間」ということを意味している。「肉」は、「アダムの堕落の徴」、「人間的性質の具体的形態」であり、復活に包括されたキリストの十字架の死の出来事に基づいて言えば「古き世(≪・時間≫)全体の具体的形態」であり、それ故に「あらためて神と和解させられなければならない」その現にあるがままの「人間の本質と人間存在の形態」、「断罪され、失われた罪人」、「それ自体よい人間的性質ではない」人間、「堕落した性質」の人間のことである。したがって、「真に罪なき、従順なお方」、すなわち「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方であるイエス・キリスト自身としての「言葉は肉となった」というこの神の言葉は、「自分自身の敵対者……の味方となり給うたということを意味している」――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリストの信仰は、明らかに(≪神の側の真実としてある≫)主格的属格として理解されるべきものである)」(『福音と律法』)。このように、イエス・キリストは、「われわれに対する神の啓示であり、神とわれわれとの和解」である。しかし、「闇、世」は、「啓示の光としての理解を絶した神の現臨」を、「受け入れようと欲しなかった」。ここに、「古い世(≪・時間≫)全体の具体的形態」、その現にあるがままの「人間的性質の具体的形態」、「人間の本質と人間存在の形態」がある。

 

 イエスが「聖霊の特別な働きとして約束」したものは、「慰め主としての霊」と「真理の御霊」であるが、聖霊は、聖書の中の「キリスト教原理を、覆いをとって明らかにする」、「キリストについて語ることができる能力(ヨハネ一四・二六)」授与であり、「上からのよき賜物」である。この「聖霊の注ぎ」により「聖霊を持つ」ということは、「キリストにおいて起こった和解にあずかること」であり、「キリストと共に、死から生命への方向転換におかれること」である。この二つの方向転換において「イエス・キリストにあっての神の啓示の要素としての霊の本質」は、「キリストにある自由」を意味している。この「キリストにある自由」とは、他律的服従と自律的服従との全体性において「キリストの奴隷」となることである。したがって、他律的服従と自律的服従との全体性において「キリストの奴隷」となることは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事)と「啓示の主観的可能性」としての「認識的な必然性」(「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事)を前提条件とした存在的なラチオ性(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)に包括された認識的なラチオ性(聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性)という総体的構造において、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は、通俗的な意味での「隣人愛」ではなくて、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容と福音の形式としての律法のこと、すなわちすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えのことである)という連関において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して行くという点にある。「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊が、教会を「み言葉の奉仕」へと向かわせるのである。また、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」「聖霊はみ子の霊であり、それ故、子たる身分を授ける霊である」から、われわれは、神のその都度の自由な恵みの決断により「聖霊を受けることによって」、「イエス・キリストが神の子であるという概念」を根拠として、私たちは「神の子供」・「世つぎ」・「神の家族」であり、「『アバ、父よ』と呼ぶ(ローマ八・一五、ガラテヤ四・五)」ことができる。また、「和解者が神の子であるがゆえに、……和解、啓示」の受領者たちは、受領者と授与者との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において、「神の子供」なのである。

 

 「万一(≪「三位相互内在性」における「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方である神の≫)言葉が人間でないならば、(≪神の≫)言葉は啓示ではないであろう。またもしも(≪神の≫)言葉がこの正確な意味で「真に罪なき、従順なお方」としてではあるが『肉』(≪第二の存在の仕方である言葉の受肉≫)でないならば、(≪神の≫)言葉は人間ではないであろう」。「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストは、「神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり給うた(ピリピ2・7)」、「彼はわれわれのために呪いとなり給うた。彼はいかなる意味でも罪人であり給わなかった。しかし彼の状況は内的にも外的にも、罪深い人間の状況であった。(中略)彼はアダムが、そしてアダムの中でわれわれすべてが、しでかしてしまったことを、罪なくして身に受け給うた。彼は自由の中で、われわれの失われた現実存在との連帯責任性の中に、困窮をともにわかち合う交わりの中に、入り給うた。……ただそのようにしてだけ、……彼の中で、彼を通して、われわれに対する神の啓示が、神とのわれわれの和解が、出来事となった起こることが『できた』」、「主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にある者たちを助けることができるのである(ヘブル2・18)」。「カレハ、神ノ子ガワタシタチノタメニ、ソノ天ノ栄光ノ高ミカラ、ドンナニイヤシク低劣ナ状況ニマデクダッテ来タカヲ、明示シヨウトシタノデアル。聖書デハ、人間ノコトガ軽蔑シテ語ラレル時ニハ、肉トヨバレテイル。ダカラ、神ノ言葉ノ霊的ナ栄光トワタシタチノ肉ノ腐臭ニミチタ汚穢トノアイダニ、カクモハナハダシイヘダタリガアルニモカカワラズ、神ノ子ハ、カクモ多クノミジメサニヒタサレテイルコノ肉体ヲマトウマデニ、ソノ身ヲイヤシイモノトサレタ」・「キリストハカギリナイ恩寵ニヨッテ、汚レタ、イヤシイモノノ仲間トナリ給ウタ(カルヴァン)」。

 

(13)「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方である「神の子」の「人間存在の中では……神ご自身が主体」である。また、その第二の存在の仕方である神の言葉は「真に罪なき、従順なお方」としてではあるが「われわれの人間存在をとる」、「肉をとる」。言い換えれば、その言葉は、「罪深い人間のもろもろの条件、呪い、刑罰のもとでの状態と状況の中で存在する」。何故ならば、もしもそうでないならば、その言葉の業は、「啓示する」、「和解させる」、「新しいものをもたらすものではない」ことになってしまうからである。「われわれのきよくない汚れた人間存在」は、「罪深い人間のもろもろの条件、呪い、刑罰のもとでの状態と状況の中で存在する」「神の言葉」、神の子、神の第二の存在の仕方(「啓示ないし和解の実在」そのもの)であるイエス・キリストによって「受けとられ、取り上げられることによってのみ、聖化された、したがって罪のない人間存在である」。われわれの人間の「浄化・召命・義認・聖化・更新の原理」は、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うたイエス・キリストにある復活の力のみである」(『福音と律法』)。

 

 「受肉」・「マコトノ人間」の意味は、次の点にある――すなわち、それは、「神はわたしたちのために彼を罪とされた(Uコリント5・21)」は、神は「罪を知らなかった方」(「真に罪なき、従順なお方」)を、「罪人の立場に置き給うた」ということである、「われわれのために神的犠牲をささげるという行為、罪に対する裁き、罪を取り除くことを意味している」。罪なき「彼ハ罪トサレ、ワレワレハ義トサレル。シカモソノ義ハワレワレノ義デハナク神ノ義デアリ、ソレハワレワレノ中ニアルノデハナク彼ノの中ニアル。ソレハチョウド彼ゴ自身ガ罪トサレタソノ罪ハ彼ノ罪デハナク、ワレワレノ罪デアルノト同様デアル(アウグスティヌス)」。「キリストノ中デハ(人間ノ中デハ罪ナシデハアリエナイ)肉ガ罪ノナイ仕方デ存在シテイル。ソコデ罪ガ取リ去ラレタコトヲワレワレハ確信スルノデアル」。

 

 それでは、われわれは、キリストの「無罪性」・「服従」を、どこに見出すことができるのか。先ず以て、新約聖書は、イエス・キリストを、「道徳的な理想的人間」として描いてはいない。すなわち、それは、「肉をとった神、罪人としての人間が担わなければならない重荷の神的担い手の在り方」に、「おのれを低くして(≪下記の【注】を参照≫)、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であった(ピリピ2・7-8)」という服従に見出している。

 

【注】「身をかがめること」、「身を屈するとか身分を落として卑下するという形で遂行される身を向けること」、「より高い者が、より低い者に向かって身を向けること」は、「ギリシャ語の恵みの意味の中に、またラテン語の恵みの意味の中に、……ドイツ語の恵みの意味の中に含まれている」。この「身を向けることの中に」、「特に(その中でこの言葉が現れている)旧約聖書的な脈絡がそのことを明らかにしているように」、「神がよき業として人間に対してなし給うすべてのこと、神のまこと、神の忠実さ、神の義、神のあわれみ、神の契約(ダニエル九・四)、あるいはあの使徒の挨拶の言葉によれば、神の平和が含まれている」。「それらすべては、まず第一に、基本的に、神の恵みである」。恵み(「神的な賜物……の総内容」――すなわち「啓示者である父に関わる創造、啓示そのものである子に関わる和解、啓示されてあるものである聖霊に関わる救済」、父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)は、「確かにきわめて『超自然的な賜物』でもあるが」、それを「与える方自身が」、すなわちご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の」「神ご自身が、(≪神の側の真実として≫)自分自身を賜物とすることによって、自分自身、(≪われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて、神とは全く異なる≫)他者との交わりの中に赴き」、それ故に「自分自身を他者に相対して愛する者として示し給う限り」、常に先行して「ご自身と……被造物の間に直接交わりを造り出し、保ってゆくこと」であるから、「そのような賜物なのである」。「神が恵みを与え給うことの原型は、神の言葉の受肉(その内在的本質である「神性」の受肉ではなく、その外在的な第二の存在の仕方である言葉の受肉である。それ故に神と人間との「混淆」・「混合」ではない、神と人間との「共働」・「協働」ではない、神人協力ではない)、神と人間がイエス・キリストにあって一つであることである」。この常に先行する神の「恵みの秘義と本質」は、「二つのものが、(徹頭徹尾第一のものの意志と力を通して)直接一つのものとなり、神と人間の間のあの直接的な『平和』、パウロが『恵み』という言葉と関連させて、……その内容的な定義として、……しばしば名指すのを常としている『平和』が樹立されるという」点にある。したがって、ご自身の中での神として「恵み深い神」と、われわれのための神として「恵み深くあり給う」神との間には、中間的な領域としての恵みについてのグノーシス主義的に受け取られた考え方が介在することは許されない」。「ここでは(≪内在的な三位一体の神の側の真実として≫)すべてのことは直接性に」、それ故に「神の存在と行為が実際に神の本質的ナ独自ノ性質として、換言すれば神ご自身として、すなわち神ご自身(≪ご自身の中での神、自己自身である神≫)であり、自分自身を確証(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)することによって恵み深くあり給う方として、理解されるということによってもってかかっている」、すなわちわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方、父――啓示者・言葉の語り手・創造者、子――啓示・語り手の言葉・和解者、聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において恵み深くあり給う方として、理解されるということによってもってかかっている。したがって、「旧約聖書と新約聖書の中で、……力を込めて神を指し示しつつ、『わたしの』、『あなたの』、あるいは『彼の』恵みについて語られているのである」。したがってまた、「聖書的な人間は、ただ単に『あなたの恵みにしたがって、わたしをお救いください』(詩篇一〇九・二六)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを覚えてください』(詩篇一〇六・四)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを生かしてください』(詩篇一一九・八八)、『あなたの恵みを聞かせてください』(詩篇一四三・八)等々について語られているだけでなく、ほとんどのところで直接、単純に、『わたしに対し恵み深くあってください』と言われている」。「それに対して、わたしの知る限り、わたしに恵みを与えてくださいという言い方はどこにも出てこない」。

 

 「イエスの無罪性」については、「倫理的な英雄であるということから成り立っているのではない」。それについては、「彼が受肉の意味を告白すること、……アダムとは違って『第二のアダム』として、神のようであろうとは欲し給わないこと、神の前にあっての堕落した人間の状態と状況に対して告白し」、「それに対する神の裁きを正しいそれとして自ら身に負い……ご自分のものにし給う」という点にある。「アダムの子供として、回復の秩序に服そうとしない」人間は、「自分が肉であること、裁きの下に立っており、ただ恵みによってのみ生きることができるということを理解し認めようとはしない」が故に、「神がなし給う際、その傍にいて共に働きながら自分の生命を救おう(マルコ8・35)」とする、すなわち神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという仕方で、神との「混淆」・「混合」、神との「共働」・「協働」、「神人協力」という仕方で、「自分の生命を救おう」とする。「イエスはそれと別様である」。イエスは、神の側の真実としてある主格的属格としての理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括しているそれである)そのものである「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方において、「アダムが転倒させたことを、償い、修復し給うた」。イエスは、「和解の秩序を承認し給うことによって、すなわち罪なきご自分を罪人の場所におき、神の裁きのもとに服し、ただ恵みにのみ身をゆだね給うことによって、肉にあって罪を裁き給うた」。このことが、「イエスの聖化であり、服従であり、無罪性である」。

 

(14)神の言葉が、少しも「自分の神性を放棄」・「減少」しないで、「言葉がなった」ということは、「啓示の秘義」であり、「奇蹟の行為」、神の側の真実としてある「神のあわれみの行為」である。

 

 「言葉があった、初めにあった、言葉は神と共にあった、しかも彼自身が神である(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の起源・根源としての父が自分を自分から区別した子として、父を起源・根源とする子なる神である≫)という具合に神と共にあった(ヨハネ1・1-2)」。「万物は言葉によって成った」、「彼によってすべてのものが成った、なったもののうち彼によらないでなったものはなかった(ヨハネ1・3)」(何故ならば、彼は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の起源・根源としての父が自分を自分から区別した子として、父を起源・根源とする子なる神であるから)。したがって、洗礼者ヨハネは、「言葉」・「光」・「啓示」ではなく、「啓示の証人」となるところの「『神からつかわされた人』である」。したがってまた、「彼の名を信じたものたち、そのようにして彼を受け入れたものたち」も、「生まれながらにして」「神の子供」ではなく、「ただ神の恵みによってのみ神の子供となるべき力を与えられたものたち」である。「言葉」について、「肉となった」と言われている(ヨハネ1・14)。「言葉は肉(≪その内在的本質としての「神性」の受肉ではなく、その外在的な第二の存在の仕方である言葉の受肉である≫)となった」は、「同一の主体の規定」――すなわち「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「同一の主体の規定」である。すなわち、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書がわれわれに要請していることは、「聖書を通してわれわれにあらかじめ与えられている」「証言」・「証し」における、「三位相互内在性」における「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方(「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉)であるイエス・キリストに対する「応答」と、「言葉は肉となった」とを、「厳格に……同時に」「一緒に考え合わせる」という点にある。

 

 この神の言葉が、少しも「自分の神性を放棄」・「減少」しないで、起源的な第一の形態の神の「言葉となった」は、「啓示の秘義」であり・「奇蹟の行為」であるとは、次のことを意味する。
(ア)まことの神にしてまことの人間におけるその「人間存在」・「人間性」は、「そのまま」で、「自分自身から……言葉の人間性となる能力、力、威厳を持ってはいない」。すなわち、この「言葉となった」には、「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方である「言葉自身の意志」・「業」・「働きかけ」、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事が介在している。言い換えれば、この「言葉は、低くされたのではなく、(≪神の側の真実としてある、「言葉自身の意志」・「業」・「働きかけ」により≫)自分自身を低くし給うたのである」。

 

 したがって、受肉(内在的本質としての「神性」の受肉ではなくその外在的な第二の存在の仕方である言葉の受肉である)の出来事は、「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方である「神の言葉」が、「被造物である人間存在を、それ自身の存在に加えた」という限りにおいて、「人間存在として神の言葉の存在となる」ということである。すなわち「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方である「永遠の言葉は、人間を自分のものとしたのではなく」、神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において、「人間の性質、人間の存在を自分のものとした」・「受け入れた」・「取り上げた」という限りにおいて、「人間存在として神の言葉の存在となる」ということである。

 

(イ)受肉は、「言葉は肉となった」ということであって、「言葉は肉をとった」のではない。すなわち、それは、「神的存在および本質と人間存在および本質」が結合して神でも人間でもない第三の存在が発生したことを意味しない、第三の存在に「変化」したことを意味しない、神と人間との「混淆」・「混合」を意味しない。イエス・キリストは、「仲保者」であり、神性を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方である「彼が(≪「肉をとった言葉と、言葉によってとられた肉とを区別して……ひとつ」という単一性と区別、区別を包括した単一性、すなわち「まことの神とまことの人間が一つ」であるという「両性の単一性」において≫)神でありまた人間であるという仕方で神人である。……それは、人間的存在と本質の行為ではない」、それは子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事である、「その神的性質の行為の中で、三位一体の神が行動されるのである」。したがって、イエス・キリストの「人間性」は、「ただ彼の神性の賓辞である」。すなわち、その「人間性」は、人間性への「変化」・「変革」ではなく、その内在的本質としての「神性」における「人間性」の「受け入れ」・「取り上げ」であって、それ故に神の言葉が「われわれと等しくある……等しさを受けとられたということ」、「神の言葉がいまやわれわれのために」、「その人間存在の中で、尋ねて見出されることができるということ」である。

 

(ウ)改革派キリスト論の「一様性」(両性の分離)でもルター派キリスト論の「肉ノナイ言葉とならんで肉ノ中デノ言葉を認める」「二重性」でもない、「肉をとった言葉と、言葉によってとられた肉とを区別して……ひとつ」という単一性と区別、区別を包括した単一性、すなわち「神と人間が一つ」であるという「両性の単一性」におけるイエス・キリストが、個体的自己としての全人間・全世界・全人類の「主であり、その避け所でありその城であり、その神である」ということにおいてのみ、われわれ人間「それ自身」の人間的存在を持つことができる――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。したがって、そのような仕方においてのみ、「説教の言葉および聖礼典……の中での恵みの現臨……信仰を通して選ばれ、召されたものたちの心の中での神の恵みの現臨(≪あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)を人間的に持つことができる」。「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいては、「人間的な語り(≪説教≫)が、水・パン・葡萄酒(≪聖礼典≫)が、ただ単に神を通してだけでなく」、「切り放しがたい仕方で」、「神とともに実際に結び合わされているということを意味している」。

 

(エ)新約聖書は、われわれに対して、「啓示の客観的実在」としてのイエス・キリストを、「疑いもなく、完了した事実についての報告として」、「聞かれることを欲している」、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括している)そのもの、「啓示ないし和解の実在」そのものとして、「成就された時間」(キリスト復活40日――「まことの現在」)として、「聞かれることを欲している」。

 

 「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」。すなわち、「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)への(≪復活に包括された≫)キリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、復活へと向かっている」。このキリストの復活・「成就された時間」・「まことの現在」・「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」は、「新しい世」・時間のはじまりである。この「新しい世」・時間においては、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」・世は、キリストの復活における神の「勝利の行為」によって包括され止揚され克服されて「そこにある」それであるが、その「勝利の行為」は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」である――このことは、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての「存在的な必然性」と「啓示の主観的可能性」としての「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした「存在的なラチオ性」に包括された「認識的なラチオ性」という総体的構造において与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比・関係の類比を通して認識し理解し規定することができる。

 

 このように、「『神はご自身を啓示し給う』という命題」は、「『神はわれわれのための時間を持ち給う』という命題」と同じ意味である。このイエス・キリストの現臨の出来事、「われわれのための神の時間」は、イエス・キリストの受難と死(まことの過去)およびキリストの復活・「成就された時間」(「まことの現在」)であり、「待望の旧約聖書的時間」(まことの過去)、復活のキリストを想起する「想起の新約聖書的時間」(まことの未来)であり、その「成就(≪「キリスト復活四〇日」、「まことの現在」≫)の待望(≪まことの過去≫)」と「成就(≪「キリスト復活四〇日」、「まことの現在」≫)の想起(≪まことの未来≫)」を持った時間であり、「この出来事についての証しの時間」である。言い換えれば、「キリストの死」と共に終わる「まことの過去」は、「成就された時間」(「キリスト復活四〇日」、「まことの現在」)を待望する形においてある。また、「まことの未来」は、「成就された時間」(「キリスト復活四〇日」、「まことの現在」)と共に初まり、ただキリストの復活を想起する形においてのみある。「新約聖書の証人たち」は、このキリスト復活の40日(「成就された時間」、「まことの現在」)をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである。

 

 新訳聖書は、イエス・キリストについて、「その最後の言葉にいたるまで」、「永遠の言葉」と「人間存在がひとつに結び合わされた」「復活日と昇天から」、すなわち受肉・「実体的結合」・「低さ」・僕の姿・「謙虚」・受難・十字架・死を「その低さの中でのキリストの高さ」・「甦えり」・復活・高挙・「その人間存在の中での言葉の勝利から、語っている」。「パウロ的――ヨハネ的問い」に対して、キリスト教の使信は、「神性」を内在的本質とする「キリスト、神の子は、まことにナザレのイエス」(「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」)である、と答えている。

 

(オ)前述したことに対して、ルターのキリスト論的立場は、神の「言葉はキリストの人間性の中にのみ存在する」という点にある。神の恵みは、「飼い葉おけの中で、十字架上」で、「神ご自身によってまさにこの人間存在」――イエス・キリストの「人間存在の中でだけ現われ」、「すべてのことがわれわれのためになされ、なしとげられ、……われわれの義認は遂行され、そのことは信仰の中でただそのまま受けとられるべきであるというパウロ的――ヨハネ的キリスト論の答えを……全心をかたむけてつかもうとした」ルターは、「言葉を肉に制限して」、「肉の中にのみ存在している」言葉という命題において、「わたしは処女マリヤより生まれ、苦しみをうけた方以外には、神について何も知ろうとは思わない」と思惟し語った――この人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した「存在者レベルでの神」は、「……独立的に現われ活動する神的実体として(中略)(≪それには≫)あらゆることが可能であり、(中略)(≪またそれは≫)、人を義とする……、……愛と善き業を生み出す…、罪や死にも打ち勝ち、人を救う。(≪その≫)信仰と神とは『一団』をなし、信仰は(心の信頼として!)神と偽神の両方を作り、ときには(ただ「われわれ自身の内部において」だけであるが)『神性の創造者』と呼ばれるということもあり得る。さらに重要なのは、……受肉説とそれに関連した事柄である。フォイエルバッハは、このキリスト教の教説を『神は人となり、人は神となる』という定式で簡明に表現し(≪たが、それは≫)……とくにルター的なキリスト論および聖餐論を前提とする場合には、まったく不可能とか無意味とかいうことはできない。……、神性を天上に求めず地上に求め人間の中に――人間イエスの中に求めることを教え、またかれにとっては聖餐式のパンは高く挙げられたイエスの栄光化されたからだであらねばならなかった(中略)。(中略)これらすべてのことは、……、……天と地・神と人間を?倒する可能性を意味しており、終末論的限界を忘れる可能性を意味している。(中略)ルターと初期ルター派の人々が、天を襲うようなキリスト論を説いて、その後継者たちを、たえず出現する思弁的・人間学的帰結に対しての一種の危険状態・無防備状態の中に置き去りにしたことは疑いない。神に対する関係があらゆる点で、原理的に?倒不可能な関係だということ――そのこと(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を堅持すること≫)について、人々は、フォイエルバッハ(≪フォイエルバッハの客観的な正当性と妥当性とを持った根本的包括的な原理的なキリスト教批判、換言すれば人間の神化あるいは神の人間化の原理を発見したヘーゲル哲学≫)を有効に防御するためには確信を持っていなければならない……」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。

 

(カ)新約聖書は、「われわれに対して『なった』」啓示の客観的実在を、神の側の真実としてある「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける「完成された出来事」・「完了した行為的事実」によって、強調的に指し示している。それは、「神が人間となった」ことによって、その「聖書の証言の中で」、「神の言葉」が、「人間の目と耳の前で可視的・可聞的になった」、「約束から成就への、十字架から甦えりへの歩みの中で」「われわれが神と和解せしめられた」ということを、客観的実在として強調的に指し示している。したがって、われわれは、「この進行(≪先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところのイエス・キリスト≫)のあとに続いてゆく」ことによって、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とすることによって、その客観的実在を「認識」することができる。「キリスト論の関心」は、ここから「認識的な性格を得てくる」。

 

 新約聖書は、「徹頭徹尾復活日および昇天から」語られているが、「区別」されながら「関連し合っている」イエス・キリストにおける卑下・「謙虚の中での人間」と高挙・「高揚の中での神」、隠蔽性における「神人」と顕現性における「神人」(イエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」)――この「神と人間の出会い」の中で、「マコトノ神ニシテマコトノ人間、が出来事として起こる」。したがって、復活に包括された「十字架につけられた方の甦えり」は、「この出来事の啓示として」、「その人間存在の中での(≪「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方である≫)言葉の勝利として、重要なのである」。何故ならば、キリストの内在的本質としての「神性」性が「啓示と和解を生じさせる」からである。キリスト教使信の「言葉は肉となった」は、このことを語っている。人間の歴史的形態としての「ナザレのイエスはまことにキリスト、神の子である」――これが、共観福音書記者たちのその問いに対するキリスト教使信の答えである。肉は、言葉・啓示の隠蔽性の形態であり、秘義性の形態である(「使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それはメシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」が、「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」、受肉・「神が人間となる」・「僕の姿」・「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している)。すなわち、言葉・啓示は、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいて、そのように「把握され、信じられ、理解されることを欲している」。したがって、人間の歴史的形態としての「ナザレのイエスはまことにキリスト、神の子である」という啓示の「発見」・認識は、「信仰」である、換言すればあの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられた信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事である。