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8の1.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(260-338頁)

8の1.『教会教義学 神の言葉U/1 神の啓示<中>言葉の受肉』(260-338頁)
再推敲・再整理版です。
この教会教義学 神の言葉U1 神の啓示 言葉の受肉』についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies4.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

8の1.「啓示の秘義――二 まことの神にしてまことの人間」(260-338頁)
 この、イエス・キリストは「まことの神にしてまことの人間であるという新約聖書的――キリスト論的命題」は、「ひっくり返すことのできない」「ひとつの等置」である。「つねに等しくないものが等置されることとして理解されなければならない」。何故ならば、まことの神にしてまことの人間「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」は、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)であるからである。したがって、イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現は、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」(その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方)において、聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「三位一体の神」の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示なのである。したがってまた、『神の人間性』においては、そのことは、「神の神性において」、「また神の神性と共に、ただちに」、「神の人間性もわれわれに出会う」と表現されている。「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)、イエス・キリストは「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」。この命題について、バルトは、次のように述べている。

 

(1)この命題は、「イエス・キリストは誰であるかのか」という問いに対する答えである。また、この命題は、「ヨハネ1・14の『言葉は肉(体)となった』(前述したように、その内在的な神性の受肉ではなく、その外在的な第二の存在の仕方である言葉の受肉である)という、新約聖書の中心的な命題の言い換えである」。

 

(2)「人々は人の子(あるいはわたし)は誰であると言っているか」(マタイ16・13)と聞かれ、「ペテロ(教会の信仰告白)は、あなたは生ける神の子キリストです」と答えた。この「メシヤの名」に対する「『人の子』というイエスの自己称号」は、隠蔽性として「(覆いをとるのではなくて)覆い隠す働きをする要素として、理解する方がよい」。「逆に使徒行伝一〇・三六でケリグマが直ちに、すべての者の主なるイエス・キリストという主張で始められている時、それは」、神の顕現性、すなわち「メシヤの秘義を解き明かしつつ述べている」というように理解する方がいい。「神の子あるいは神の言葉が肉となり給うたという受肉」、「神が人間となる」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している。

 

(3)第一に、「まことの人間」として、「神の子あるいは神の言葉が、人間、ナザレのイエスである」。第二に、「まことの神」として、「人間ナザレのイエスが、神の子あるいは神の言葉である」。この「イエス・キリストの名で語るべき最初にして最後のこと」・「イエス・キリストは誰であるか」という問いに対する答えは、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)であるということである。したがって、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「神であり給う言葉(≪外在的な第二の存在の仕方≫)が人間となったのであって、決して(≪内在的本質としての≫)神性それ自体が人間となったのではない」、それ故に「神性の放棄」や「神性の減少」を意味しない。あの問いに対するその答えは、「肉をとった言葉と、言葉によってとられた肉とを区別して……ひとつ」という「単一性と区別」(区別を包括した単一性)、すなわち「マコトノ神」と「マコトノ人間」が「一つ」であるというイエス・キリストにおける「両性の単一性」(「単一性と区別」、区別を包括した単一性)についての規定にある。すなわち、ヨハネ1・14の「言葉は肉となった」という新約聖書の中心的命題としてのそのヨハネの「言葉」は、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方として、「神的な創造主、和解主、救済主なる言葉、神の永遠のみ子」(何故ならば、その内在的な本質からして、その起源・根源としての父は、「子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」のであるが、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるからである)、「まことの神にしてまことの人間」イエス・キリストのことである。これは、「三位一体論的――キリスト論的」表現である。「福音主義神学になるためには、つねに静的な原理」――「存在的な原理」と、「動的な原理」――「認識的な原理」が、相互規定的に「両立」していなければならない。すなわち、「均衡状態の中でではなく」、「相互的な呼びかけおよび問いかけとして並んで存在」していなければならない、ちょうど終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事が、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての「存在的な必然性」と「啓示の主観的可能性」としての「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした客観的な存在的なラチオ性に包括された主観的な認識的なラチオ性という総体的構造において成立しているように。

 

 「最も単純な形において神の啓示の実在を問う問いに対する新約聖書の答え」は、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)の答えは、「永遠なる神性を本質とするイエス・キリストの名」だけである。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストは、その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「啓示の出来事においてはじめて神の子」、「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」、そして「われわれを父と和解させるもの」として、「啓示ないし和解の実在」そのものとして、「イエス・キリストは神の子」である、その「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の起源・根源である父が自分を自分から区別した子として、父を起源・根源とする神の子である。その「キリストの神性」は、「啓示および和解におけるキリストの行為(≪子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)の中で認識」することができる(イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「三位一体の神」の啓示認識と啓示信仰を要求する啓示である)。したがって、その啓示と和解の働き・業・行為が「キリストの神性」の根拠ではなくて、その「キリストの神性」が「啓示と和解を生じさせる」のである、それ故に「人々を神の子とならせる力を持っている」のである。言い換えれば、「赦す神」はたとえその人がまことの人間であったとしてもその人間性、その人間存在に内在することは決してないのである。このイエス・キリストが、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)が、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義における「一切の思惟、洞察、解釈、省察の前提」である。したがって、教会の宣教、その一つの機能としての神学は、具体的には聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、他律的服従と自律的服従との全体性において、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」(そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関)において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指さなければならないのである。

 

 第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書またその聖書を自らの思惟と語りのける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教において神は、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とするイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、父と子の霊である聖霊――啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者であり、そのような三位一体の神として自己啓示する。したがって、この啓示が教会の宣教の<客観的>な信仰告白および教義である三位一体論の根拠である。この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」である。したがって、「教会の宣教の批判と訂正」は、常に、この三位一体論に即して行わなければならないのである。何故ならば、この三位一体論を啓示認識の原理にしない場合、すぐに神性否定のキリスト論や半神・半人キリスト論や三神論という誤謬に陥ってしまうからである。

 

(4)第一に、三位一体論を「静的な原理」――「存在的な原理」で言えば、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」であるということである。また、キリスト論を「静的な原理」――「存在的な原理」で言えば、キリストは、先ず以てその「神の神性において」存在するということである。

 

 第二に、三位一体論を「動的な原理」――「認識的な原理」で言えば、聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での「三つの存在の仕方」(働き・業・行為)、すなわちイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体ということである。また、キリスト論を「動的な原理」――「認識的な原理」で言えば、神性を本質とするキリストは、人間に向かって語れた神の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)、神の子、「啓示ないし和解の実在」そのもの、唯一の一回性・独一無比性の啓示の客観的現実性であるということである。

 

(5)聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」ではなく、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における父、子、聖霊という「三つの存在の仕方」の、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」である。したがって、ご自身の中での神としての内在的な神の完全さ・自由さは、われわれのための神としてのその外在的な「失われない差異性」における父、子、聖霊という「三つの存在の仕方」の完全さ・自由さなのである。われわれのための神としての「われわれに出会う神」である父、子、聖霊という「三つの存在の仕方」は、「啓示者、啓示、啓示されてあること」、「神の聖(≪隠蔽≫)、あわれみ(≪顕現≫)、愛(≪父――隠蔽と子――顕現の愛に基づく交わり≫)」、「聖金曜日、復活日、聖霊降誕日」、「創造者なる神(≪創造主≫)、和解者なる神(≪和解主≫)、救済者なる神(≪救済主≫)」ということに対応している。この神は、「隠蔽」性と「顕現」性において、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「人間に対して自己を伝達する」。

 

(6)「啓示の秘義」――「言葉は肉となった」という命題、すなわち先に述べたように神性を本質とする第二の存在の仕方である「神の子あるいは神の言葉が肉となり給うた」という命題における神の「言葉」は、その起源的な第一の形態の神の言葉自身の「出来事」の自己運動、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての「存在的な必然性」と「啓示の主観的可能性」としての「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした客観的なラチオ性に包括された主観的な認識的なラチオ性という総体的構造において「聞く啓示、和解」、換言すれば「インマヌエル、神われらと共にいます」という「新約聖書において聞く啓示、和解」)ということを意味している。このことを、バルトは、「神の言葉が、言葉について語られているなるということ(Werden)の中で行動する」と述べている。「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」に基づいて、「聖書は神の言葉となるところで聖書は神の言葉なのである」。したがって、イエス・キリストが、われわれ人間に対して、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入ることを承認し確認する」のである。その時、われわれは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」のである。すなわち、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」のである。したがって、神の言葉(「われわれのための神の時間」、啓示)は、われわれ人間の時間である「人間の歴史の内部から出ているもの」、「人間の歴史から由来するものとして、理解することはできない」のである。その神の言葉(「われわれのための神の時間」、啓示)は、常に、人間の歴史(われわれ人間の時間)の<彼岸>・<外>にある、<彼岸>・<外>にあり続けるのである。したがってまた、それは、「創造と関連づけられることはゆるされない」、「被造物のもろもろの発展可能性のうちのひとつとして理解されることはできない」のである。したがってまた、「神によって造られた世界が段々高く(≪進歩≫)発展していって、ついに神ご自身の言葉を、世自体の実体のもろもろの要素のうちのひとつの要素として生じさせようになるということは、万一堕罪が起こらなかったとしても、全く不可能な考え方」なのである、「人間と人間の歴史が堕罪を通して刻印され、特徴づけられている時には、なおさらそうである」。したがってまた、経済社会構成を資本制に置き<自由>を原理とした西欧近代を人類史の頂点とする進歩史観を展開したヘーゲルの歴史哲学に依拠して(絶対化して)、「律法・父の国・奴隷状態」――世界史的段階で言えば原始未開の段階、「恩寵・子の国・神の子供状態」――世界史的段階で言えばアジア的段階、「自由・霊の国・神の友の状態」――世界史的段階で言えば西欧近代の段階というモルトマンの神学的な三段階的進歩史観は、その最初から「誤謬は必然」のものなのである。先にも述べたように「言葉が肉となったということ」は、「決して被造物そのものの運動ではない」、「創造そのものがそうであるように、あくまでも主の主権的な行為(≪「神性」を内在的本質とする起源的な第一の存在の仕方、働き・業・行為、父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事≫)であり、しかもそのことは、創造とは、異なった主の(≪「神性」を内在的本質とする第二の存在の仕方、働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事における≫)新的な支配の行為である」。

 

 「創造された世界における神の愛」(「神性」を内在的本質とする外在的な起源的な第一の存在の仕方における神の愛、父なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)と「われわれの世界におけるイエス・キリストの事実の中における神の愛」(「神性」を内在的本質とする外在的な第二の存在の仕方における神の愛、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。この意味は、「和解ないし啓示」は、ご自身の中での神としての「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「新しい神の業」(働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるということである。それは、「神的な愛の力」であり「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、その第二の存在の仕方において「第二の神的行為を遂行」したのである。この存在の仕方の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、創造主としての父に先行することはできないのである。しかし、父と子は共に、ご自身の中での神として「失われない単一性」・「神性」・永遠性を内在的本質としているから、その存在の仕方における従属的な関係は、その内在的な「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、その外在的な「存在の仕方」の差異性を意味しているのである。「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦りである」、「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。

 

 「二世紀に多く存在していたグノーシス主義者の先例」、「またJ・スコトゥス・エリウゲナおよびドゥンス・スコトゥスの先例に従ったシュライエルマッヘルのキリスト論」に対するバルトの「主要な異論」は、彼が、第一に、「キリストを、単に、人間の創造とともに始まった発展の、神意識を強める方向に向かってすすむ発展の継続と完成とみなしている点にある」、それ故に第二に、「イエス・キリストを通しての救済を、(聖書にしたがって)神の自由な主権的行為」として、「神の言葉を救済の行為の中での主体として真剣に受けとらずに、世界の過程の諸要素の中の一つとして理解している点にある」。言い換えれば、シュライエルマッハーは、まことの神にしてまことの人間「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」――すなわち「イエス・キリストの名」が、ご自身の中での神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉)としての「肉をとった言葉(≪「神性」を内在的本質とする第二の存在の仕方、「神性」性≫)と、言葉によってとられた肉(≪内在的本質としての「神性」の受肉ではなく、外在的な第二の存在の仕方である「言葉」の受肉、「人間」性≫)とを区別して……ひとつ」という「単一性と区別」(区別を包括した単一性)、すなわち「マコトノ神」と「マコトノ人間」が「一つ」であるというイエス・キリストにおける「両性の単一性」(「単一性と区別」、区別を包括した単一性)について理解していないという点にある。すなわち、イエス・キリストは「まことの神にしてまことの人間であるという新約聖書的――キリスト論的命題」は、「ひっくり返すことのできない」「ひとつの等置」であるから、「つねに等しくないものが等置されることとして理解されなければならない」ということを理解していない点にある。

 

(7)「神性」を内在的本質とする「神の言葉が肉となる」(内在的本質としての「神性」の受肉ではなく、外在的な第二の存在の仕方である「言葉」の受肉、「人間」となる≫)ということは、「神の奇跡の行為、憐れみの行為」・「神の愛の業が問題」(子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事が問題)であって、それは、「神的な自由の中で起こる」出来事である。神が「意志シ給ウコトハ、確カニ必然的ニソノママ成ルノデアル」。したがって、その出来事は、われわれ人間の自由事項ではない。キリストにあっての「神の自由」は、「自己自身である神の自由」(ご自身の中での神の自由、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の自由)としての「自存性の概念(≪神の自由の概念の積極的側面≫)」と「神とは異なるもの(≪具体的には人間≫)によってなされるすべての条件づけ(≪規定性≫)からの神の自由」としての「独立性の概念(≪神の自由の概念の消極的側面≫)」との全体性・総体性において存在している「神ご自身においてのみ実在であり真理である」「完全な自由」、「全き自由」である。

 

(8)言葉(「神性」を内在的本質とする第二の存在の仕方、「神性」性)が肉(≪内在的本質としての「神性」の受肉ではなく、外在的な第二の存在の仕方である「言葉」の受肉、「人間」性≫)となった、神の言葉が<となる>ことができる自らの力の故」に、内在的本質としての「神性」の受肉ではなく、外在的な第二の存在の仕方である「言葉」の受肉として、「肉は言葉となったのである」。神の自由な恵みの決断において、「神性」を内在的本質とする第二の存在の仕方、「神性」性としての「言葉が語り、言葉が行動し、言葉が勝利をおさめ、言葉が啓示し、言葉が和解させる」のである。「しかし、あくまでも言葉(≪「神性」を内在的本質とする外在的な第二の存在の仕方、「神性」性≫)がそのようにするのであって、肉(≪内在的本質としての「神性」の受肉ではなく、外在的な第二の存在の仕方である「言葉」の受肉、「人間」性≫)がするのではない」。したがって、「神性」を内在的な本質とする外在的な第二の存在の仕方における「神性」性としての「言葉は、それが肉であるという以前においても、それが肉であることなしにも、それが現にあるところのものである」。すなわち、それは、「肉」において持っているのではなく、ご自身の中での神としての「父および自分自身」において持っているのである。また、「われわれのための神の時間」としての「啓示は歴史(≪人間の時間≫)の賓辞ではない」、「歴史が啓示の賓辞である」。すなわち、キリストにあっての「神が歴史の中で行動されるということに基づいてのみ、歴史(≪人間の時間≫)は啓示」(「われわれのための神の時間」)、イエス・キリストの啓示の出来事の「場所」なのであり、それ故に「啓示」が「信仰の対象なのである」。したがって、「イエスの人間的な性質そのもの、イエスの歴史的――心理的現象そのものを、崇拝の対象としようとするところのすべてのキリスト論、あるいはキリスト論的教えと実践は必然的に拒否されなければならない」のである。

 

 神の「言葉」は、先に述べたように、「神性」を内在的本質とする外在的な第二の存在の仕方――イエス・キリストのことである。したがって、「イエズス会……のもとで起こり、ひろがった」「言葉の神性を回避する」「聖心の信心」だけでなく、近代主義的プロテスタント主義のキリストの神性を回避してなされた「史的イエス」も、「問題とならないもの」である。無味乾燥なものである。何故ならば、歴史的な<事実>の研究における「史的イエス」は、「人間的な判断と体験の形で一般的に理解された」、「イエス・キリストの神性を回避しつつイエス・キリストに接近してゆく方法で理解された」ものに過ぎないからである。したがって、イエス・キリストの<人間存在>・<人間性>の一面だけを抽象し固定し全体化して、それ故に「キリストの人間性そのもの」、人間イエスを「抽象的に、直接、信仰と崇拝の対象とすること」は、人間自身よる「被造物の神化として拒否されなければならない」ことなのである。この歴史的な<事実>としての「史的イエス」の研究における偏向性の馬鹿さ加減は、人間学的領域でも揶揄され批判されている――「神話にはいろいろな解釈の仕方があります。比較神話学のように、他の周辺地域の神話との共通点や相違点をくらべていく考え方もありますし、神話なるものはすべて古代における祭式祭儀というものの物語化であるという考え方もあります。また神話のこの部分は歴史的<事実>であり、この部分はでっち上げであるというより分け方というやり方もあります。そのどの方法をとっている場合でも、この説がいいということは、いまのところ残念ながら断定できません。プロ野球で三割の打率があれば相当の打者だということになるのと同じように、神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者であるとわたしはおもっています。じぶんでそれ以上の打率があるとおもっている(≪自惚れている≫)やつはバカだとかんがえたほうがいいとおもいます」(吉本隆明『敗北の構造』「南島論」)、「(中略)ぼくは、マタイ伝の象徴している思想内容にくらべたら、史実性はあまり問題にならない……。(中略)日本でいえば荒井献さんでもいいし、田川健三さんでもいいんですが、歴史的イエスをどこまで限定できるかとか、できないとか、そういう立証のしかたや歴史観があるわけでしょう。ぼくはいまでもそれほどの重要性があるとはおもってないんです。それからそれがほんとうに、そういうふうに実証できているともおもえないところがあります(吉本隆明『信の構造2――全キリスト教論集成』)、「<奇蹟>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪詩、文芸批評、思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです」(吉本隆明『<非知>へ――<信>の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」)。因みに、バルトは、歴史的<事実>等を決して無視してはいないのである――「(中略)確かに受肉は中心的にして重要なものではあるが……新約聖書の本来的内容であるというふうには言ってはならないのである。(中略)それはおよそすべての他の宗教世界の神話や思弁の中にも見出されるものである。(中略)人は、聖書が語っている受肉を、ただ聖書からのみ、換言すればイエス・キリストの名からのみ……理解することができる。……神人性それ自体もまた新約聖書の内容ではない(≪経済的基盤を農耕に置き自然を原理としていた人類史のアジア的段階における日本において非農耕民は天皇を含めて神人と呼ばれていた≫)。新約聖書の内容とは、ただイエス・キリストの名だけであり、そのイエス・キリストの名がたしかにまた、そしてとりわけ、彼の神人性の真理をその名に含んでいるのである。ただまったくこの名だけが、啓示の客観的現実を言いあらわしている」(『教会教義学 神の言葉』)。

 

(9)「言葉の受肉についての教説の正しい理解」のためには、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞しているローマ・カトリックのマリヤの「神の母」論の根本的包括的な原理的な批判が必要である、換言すれば「神の母」論の問題を明確に提起することが必要である。

 

(ア)「福音書は徹頭徹尾イエスの神性を前提としており、証言している」のであるから、「主の母として記述されているすべての箇所のマリヤ」について、その「前提」・「証言」によって、すなわち「聖書的に基礎づけられ、キリスト論的関連」に基づいて、考察され認識されなければ誤謬を犯すことになる。すなわち、「神の母」という呼称は「意味があること」であるが、その場合、あくまでも「キリスト論的な補助命題として許されると同時に、必然的なもの」であるという認識と自覚を必要とするのである。このキリスト論的な補助命題は、二つのことを指示している――すなわち、「神の永遠のみ子自身である」「神性」を内在的本質とする外在的な第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、第一に、マリヤという「母を通して実際に人間」、「マコトノ人間」、歴史的な人間存在(「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」)となったということを、第二には、「マリヤが生んだところの方は、実に(≪「神性」を内在的本質とする≫)神の子であった」、「マコトノ神」であったということを指示している。「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において「時間の中で生まれた方は、(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の起源・根源としての父が自分を自分から区別した子として、すなわち父を起源・根源とする子として≫)永遠に父から生まれた方と同一である。ここでは人間存在が、永遠の神の子の現実存在と同一であるということの中で現実存在を持っている。したがって、この面からしてこの命題は、マコトノ人間との単一性の中でのマコトノ神を明らかにし、強めている」。「ルターは言う、(中略)『永遠カラシテ神カラ生マレ給ウタソノ同ジ方ヲ彼女(≪マリヤ≫)ハ時間ノ中デ生ンダノデアル』」。したがって、「啓示」、「神の言葉」、「神ご自身」は、「処女マリヤから生まれた方以外のところで尋ね求められるべきではなく」、それ故に「処女マリヤから生まれた方」(「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」)においてのみ「尋ね求められ」るべきである。

 

(イ)「聖書的に基礎づけられ、キリスト論的関連」に基づいて考察され認識されることのない、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階における「ローマ・カトリック教会のひとつの特徴的なくわだて」――すなわち「独立したひとつの教説」である「マリヤ論」は、「その形式的な勝手さ」や「事柄からみての内容的な疑わしさからいっても、……福音主義の立場から」、「神学的思惟の贅肉」・「病的な形式物」として、「断乎として」「取り除」いてしまう必要がある。

 

 何故ならば、第一に、新約聖書は、「エペソおよびカルケドン会議がそうであったように、マリヤの人格に対してただひたすらキリスト論的な興味を示している」だけだからである。すなわち、前述した(ア)のような興味を示しているだけだからである。

 

 何故ならば、第二には、前述した(ア)の意味において、「マリヤは洗礼者ヨハネとともに、旧約聖書の中に突出してくる人格的な尖端であると同時に、また最初の新約聖書的な人間である」からである――「天にいますわたしの父のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」(マタイ12・48以下)・「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1・38)。使徒としての「パウロ、ペテロ、あるいはヨハネ」のその役職は、「キリストの役職との関係において、ひとつの教説の対象となることができる」のであるが、その場合「彼らの人格が教説の対象となるではない」。したがって、「旧約聖書的であると同時に新約聖書的である人間自身を代表することができるだけであるマリヤの人格は、なおさら教説の対象となることはない」。したがってまた、人間自身のマリヤの<人格>に対して相対的にしても独立した救済史的「役割」を与えることは、「啓示の奇蹟に対する侵害行為である」。「エペソ会議での神ノ母も決してマリヤに対して、『神的救済の業の中でのどういう協力的な働き』をも帰していない」、神人協力説を採用していない。すなわち、「神の母」は、本来的には、「キリスト論への付属物」――「キリスト論的な補助命題として許されると同時に、必然的なもの」なのである。

 

 何故ならば、第三には、ローマ・カトリックにおける、マリヤの「無原罪の受胎についての教説」、また「救い主の母としてのマリヤ」は、「われわれの救いの女仲保者」――「キリストご自身が私たちのために、『義ヲモッテ』立てた功績を、……私たちが『フサワシク』受けることができるようにした女仲保者」・「神とわれわれの間の和解の女仲保者」――であり、そのような者として「自ら恵ミノ母」であり、「ワレワレハキリストノミモトニアッテノソノ女仲保者ノトリナシを頼リトシテイル」のであり、「マリヤが崇拝されないところ、そこには教会は存在しない」という「マリヤ論」・「神の母」論は、神の側の真実としてある神性を内在的本質とするイエス・キリストにおける唯一の一回的独一無比な「救イノミ業」を捨て去ってしてしまって、「救イノミ業ニオケル」神と人間との「協力」、神人協力を目指すものであって、それは、「新約聖書の証言」の恣意的独断的組織的な「曲解」・「贋造」でしかないものであり、「キリスト論的に事柄にかなった伝統」の恣意的独断的組織的な「曲解」・「贋造」でしかないものだからである。

 

 何故ならば、第四には、「マリヤが『崇拝される』ところ、……教説全体とそれに対する帰依がまかり通るところ、そこではキリストの教会は存在しない」からである。「ローマ・カトリックのマリヤ論的教義が述べている『神の母』」は、神性を内在的本質とするイエス・キリストにおける唯一無比な救いに対して、その「先行する恵みに基づいて奉仕しつつ協力して働く人間的被造物」の「原理、原型、総内容であり、……そのようなものとしてまた教会の原理、原型、総内容」であるからである。総括的に言えば、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の「原理、原型、総内容」だからである――「カトリックの見解によれば、『マリヤは、新しく生まれ変わらせる恵みに対する生ける、受動的および能動的な受容能力を代表している』」。カトリックの「存在ノ類比」は、生来的な自然的な「理性的被造物をその存在の無力さという無限のへだたりから、また罪の深淵的な失われた状態から神的生命の充実にまで高め、まさにそのことを通して……本質的に被造物としての被制約性を保持しつつ……救いの業に協働する能力(≪神人協力の能力≫)を与えるということが、救いの最も深い意味であり、また最大の富である」、「世界に内在する神的知恵」、「神的救いの活動の主体」としての人間的被造物という認識・原理に基づいている。この時、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの(≪生来的な自然的な人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した「存在者レベルでの神」≫)以外の何物でもない」のである(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものであり、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」のである(L・フォイエルバッハ『キリスト教の本質』)。

 

 何故ならば、第五には、カトリックの教義学が「マリヤに対して与えている尊称の一つである」「教会の母という称号」は、マリヤが「すべての信者の母」である、「すべての救われた者に相対してマリヤが母である」ということを意味しているだけでなく、「聖体の秘蹟のキリストを念頭においてまた、キリストに相対して、教会が母である」ということを意味しているからである。その時、「マリヤが教会の母である」ことと「教会が母である」ことは「相互内在性」・「内的結び付きと類似性」における関係にあり、人間自身のマリヤに対してだけでなく、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会に対しても、相対的にしても独立した救済史的「役割」を与えられることになるからである――このことは、「啓示の奇蹟に対する侵害行為である」からである。このようなカトリックの教義学においては、教会は「キリストから生まれるだけでなく」、「教会の生命活動の秘蹟的な中心のところ」で、「キリストも教会から生まれる」、「教会がキリストを必要としているだけでなくまた全く真剣な意味でキリストも教会を必要としている」、「ちょうどマリヤが『取りなしをなす全能』の力をもつものとして、人間の救いのために、……働くように、そのように秘蹟の遂行を通して教会はともに働くのである」。言い換えれば、カトリックの教義学は、「神人協力」という自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教を目指しているのである。「ピウス九世の生涯の働きの中での関連性」――すなわち1854年の「無原罪ノ受胎の宣言」と1870年の「教皇無謬性の宣言に至るまでの」、「そしてその同じヴァチカン公会議においてなされたトーマスの意味での自然神学を正式の教義とするという宣言に至るまでの」「関連性」は、「全く首尾一貫したものであった」。

 

 このような「マリヤの教義に反対して唱えられるべき福音主義的信仰命題」は、神と人間との「相互的な互恵主義とか相互作用というようなもの」、「神人協力説」というようなものを否定的に媒介して、徹頭徹尾、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの(『福音と律法』)、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和の概念は、この救済概念に包括されている)そのものである「ただイエス・キリストの名だけ」に感謝をもって信頼し固執し固着するという点に、このイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して行くという点にあるのである、総括的に言えば<非>自然神学の構成あるいは<非>自然的な信仰・神学・教会の宣教の構成にあるのである。