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25の9.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

25の9.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。
この知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

「U 神の存在の証明」「B 証明の遂行 『プロスロギオン』二−四章注釈」「一 神の一般的な存在 『プロスロギオン』二章」
 「『愚カ者ノタメニ』という書物にとって」、「ガウニロが、本質的にはただ」、「多くの後継者たちと共に」、『プロスロギオン』二章(「一 神の一般的な存在」)が「神は理解ノウチニモマタ実在トシテモ存在する」という「『プロスロギオン』三章(≪「二 神の特別な存在」≫)でなされるべき本来的な証明への途上における前段階でしかない」にも拘らず、「『プロスロギオン』二章(≪「一 神の一般的な存在」≫)の思考の歩みの中に、アンセルムス的な神証明を見てとったという事実」、「そして、自余の『プロスロギオン』の神についての教説を通して」、「神は理解ノウチニモマタ実在トシテモ存在する」という「事柄の重要さに注意を向けさせられることなしに」、「アンセルムスにとって決定的な『プロスロギオン』三章(≪「二 神の特別な存在」≫)の指示の傍らを……通り過ぎることができたという事実」――これらの「事実ほどその特徴をよく表しているものはない」。「まことの、また精神の外でも存在する神の存在(概念の一般的意味での存在)についての積極的な命題」は、「証明から由来して来ず、どのような仕方ででも導き出されず」、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造(下記の【注1】を参照)に基づいた「証明を通してだけ証明されたのである」、キリストにあっての「神は、理解ノウチニモマタ実在トシテモ存在する」という「命題に対立している……(≪人間の≫)精神の中だけ(≪タダ理解ノウチニダケ≫)に存在する神の存在(≪換言すれば、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」にしか過ぎない、タダ理解ノウチニダケある神の存在の仮定された実在≫)が馬鹿げたこととして証明される限りにおいてだけ、証明されたのである」。「そして、ただその命題に対立している命題の愚かさを証明する証明に基づいて、ただそれだけが有効なものとして舞台に残るのである」。このことが、「『証明』である時、それは、まさに、とりわけ、どんな証明もなしに確立している信仰命題の証明である」――「このことが、アンセルムスの考えであるということは、……われわれの命題に並行的な箇所で、決定的な『ソシテ、コレコソ主、私タチノ神ヨ、アナタデス』が現れている『プロスロギオン』三章(≪「二 神の特別な存在」≫)において明らかになる……」。キリストにあっての特別な「啓示から由来している積極的な命題は、ほかの何らかから導き出されることはできない」。したがって、「その積極的な命題に対立している命題」も、キリストにあっての特別「啓示から由来している命題(神は、ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノと呼ばれるという命題)を手がかりにしてだけ、その不合理サが証明され得るのである」。「教義学的な合理主義を明確に否定」し、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚したアンセルムスの神の存在としての「神の名」――すなわち、「『ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ』でもって表示されているもの」が、「ただ単に理解のうちだけでなく、また実在としても存在する(そして、その限り、まことの存在をもつ)」のである。このような訳で、一般的啓示、一般的真理、自然神学、「存在の類比」に立脚し、人間の「精神の中だけ(≪タダ理解ノウチニダケ≫)に存在する神の存在」(換言すれば、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」にしか過ぎない、「タダ理解ノウチニダケある神の存在の仮定された実在」)を主張したガウニロは、先ず以て「教義学的な合理主義を明確に否定」し、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚したアンセルムスの神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」という定式を、存在的な「スベテノモノヨリモ偉大ナ何カ」と「絶えず」理解し(「誤解」し)、「また数多くの箇所でそのように(≪「誤解」したまま≫)引用し」論じていたことを否定できる客観的な証拠を示さなければならない。このガウニロは、キリストにあっての「神は、理解ノウチニモマタ実在トシテモ存在する」という主張をなした「アンセルムスにとって最後的に興味のある唯一の問題、すなわち徹頭徹尾(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示からして≫)神に特有な神の存在の問題に対して何の興味も持たず」、それ故にこのガウニロは、「わがまま勝手な仕方で(≪恣意的独断的な仕方で≫)、また事柄から言ってまことに近視眼的に」(換言すれば、形而上学的にその一面だけを抽象し固定し全体化して、その一面だけを拡大鏡にかけて全体化して)、アンセルムスが、「神は、ただ創造された事物が存在するような仕方でだけ存在するという……証明」をなしたと主張したのである。

 

【注1】
 イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方としてのイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方としての神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・キリスト教に固有な客観的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
 そのような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的な「死と復活の出来事」におけるイエス・キリストの「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者。標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、神は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化され第一義化・価値化・絶対化された人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質に過ぎないものであるであろう、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下でのキリストにあっての神としての神ではないであろう。
 「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」である。したがって、それは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者・標準とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

 

 われわれは、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、すなわちあの総体的構造を持っているイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「教義学的な合理主義を明確に否定」し、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚した「アンセルムスが、そのこと(≪キリストにあっての≫)〔神は、創造された事物が存在するような仕方でも存在するということ〕を否定せず、むしろそのことを、アンセルムスは、……(≪ガウニロのように一面だけを拡大鏡にかけて全体化するという仕方でではなく、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、すなわちあの総体的構造を持っているイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、キリストにあっての「神は、理解ノウチニモマタ実在トシテモ存在する」という仕方で、≫)『プロスロギオン』二章において証明しようとしていることを見た」。「このところで、マコトニ存在スルということ」は、キリストにあっての「神は、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的必然性」を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づいて≫)ただ単に考えの中で存在するだけでなく」、「考えに相対しても存在するということを意味している」。「どうして(≪キリストにあっての≫)神にとって、まことの存在のこの特色が、神によって創造されたすべての対象にとってと同様、固有でないはずがあろうか。しかし、神として、それは明らかにまた、全く別な仕方でも固有なのである」――このことが、「『プロスロギオン』二章では、まだ触れられていない点である」。キリストにあっての「神は、またすべての任意のそのほかの対象が存在するような仕方ででも存在するだけでなく」、換言すればあの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としたわれわれの人間の考え、理解のうちにもまた存在するだけでなく、われわれ人間の考え、理解の「外に」、換言すれば自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な――下記の【注2】を参照)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における起源的な第一の存在の仕方である「創造者が(≪神とは全く異なる≫)被造物の考えることに相対して存在する際の独一無比な仕方で存在する」――「このこと」が、「神の存在についての信仰命題の特徴的な内容である」、「『プロスロギオン』三章において証明されなければならないであろうところのことである」。

 

【注2】
キリストにあっての「神の自由」は、「自己自身である神の自由」(自己自身である神としての「失われない単一性」を内在的本質とする「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の自由)としての「自存性の概念(≪神の自由の概念の積極的側面≫)」と「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」(われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における自由、父――啓示者・創造者、子――啓示・和解者、聖霊――啓示されてあること・救済者なる神の存在としての神の自由な神的愛の行為の出来事全体における自由)としての「独立性の概念(≪神の自由の概念の消極的側面≫)」との全体性において定義されなければならない。何故ならば、例えば「世界に対する神の関係としての神の創造と和解の概念」と「神の全能、遍在、永遠性の概念」は、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由としての独立性の概念(≪自由の概念の消極的側面≫)に言及することとなしに、把握し、展開することはできない」からである。キリストにあっての神は、自己自身である神として、それからまたわれわれのための神として「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)において三度別様に起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な神的愛の行為の出来事全体において存在しているから、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」は、「ただ外に向かっての神の行為の本来的な積極性(≪独立性としての神の自由≫)であるばかりでなく」、「また、神ご自身の内的な本質の本来的な積極性(≪自存性としての神の自由≫)である」という「認識の下で起こる時にだけ、正しい仕方で為すことができるし、為す」のである。キリストにあっての「神についての聖書的な証言」は、「神とは異なるすべてのものに対して持つところの神の優位性」を、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけ(≪外的条件づけ≫)からの神の自由(≪独立性としての神の自由≫)としての神の相違性(≪差異性≫)そのものの中でだけ見ているだけでなく」、「神がそれらを実証することによって」、それ故に「外的条件づけからの(≪独立性としての≫)神の自由に相対しても自由(≪自存性としての神の自由≫)であり」、この完全な自由を放棄することなく、「創造主、和解主、救済主として」、「神とは異なった実在との交わりへと歩み入り、その交わりの中でその実在に対して忠実であり給うということの中で」、「神の真実を実証し、まさにそのようにしてこそ現実に自由(≪独立性としての神の自由≫)であり、ご自身の中で自由(≪自存性としての神の自由≫)である」その神の自由の全体性の中で見ている。

 

 「教義学的な合理主義を明確に否定」し、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚したアンセルムスとは違って、一般的啓示、一般的真理、自然神学、「存在の類比」に立脚したガウニロは、アンセルムスの論述を恣意的独断的な仕方で、形而上学的にその一面だけを抽象し固定し全体化して、その一面だけを拡大鏡にかけて全体化して、(≪その世紀、その時代、その世代に生きた≫)「アンセルムスによって記述された、それらの結論の前提が存在することに対して、それ故にまた、それらの結論を手がかりにして得られた(≪そのキリスト教に固有な類の≫)成果に対して異議を唱えた」のである。アンセルムスの神の存在としての「神の名」――すなわち、「『ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ』でもって表示されているもの」が、「ただ単に理解のうちだけでなく、また実在としても存在する(そして、その限り、まことの存在をもつ)」としても、「誰が、あるいは何が、あの言葉を通して表示されているかということ」は、「われわれにとって、完全に知られていない」。したがって、「そのことは、われわれに対して、何らかの仕方で(しかし、いずれにしてもただ単にあの言葉を通してとは違う仕方で)、啓示されなければならない」、「それから、この(≪啓示され≫)、それの知られた実在の中で、ただ単に理解ノウチにだけ存在するものに相対して、そのもの自身の存在に対する証人であるために」、それは啓示されなければならない――「マズ第一ニ、コノヨリ偉大ナモノガドコカニ実在トシテ存在スルコトガ、私ニ確実ニ立証サレナケレバナラナイ。ソウシタラ、ソレガスベテノモノヨリ偉大デアルトイウ事実カラ、ソレ自体ノウチニ存在スルコトニ疑イハナクナルデアロウ」。アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡である想起(記憶)、知解、愛としての人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠とした」。それは、アウグスティヌスにとって、「聖書的・教会的・教義的前提」であった。そして、アンセルムスにとってもそうであったが、「教義学的な合理主義を明確に否定」し、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚したアンセルムスは、アウグスティヌスとは違って、第一に、あの総体的構造における三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)の連続性に連続するという仕方で、徹頭徹尾「教えられつつ語る」のであって、「われわれの理性に内在している神概念の再想起において創造しつつ神について語ろうとはしなかった」、それ故に第二に、アンセルムスは、あの総体的構造における客観的な「存在的なラチオ性」(それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)に包括された主観的な「認識的なラチオ性〔理性性〕」は、「啓示、恵み、信仰を前提条件としていた」、換言すれば神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」とそれに包括された主観的な「認識的な必然性」を、すなわち「啓示と信仰の出来事」を前提条件としていた(前述した【注1】を参照)。

 

 「アンセルムスの前提は、もちろん、言葉である」。「しかし、ガウニロが考えているような、単なる言葉ではない」――すなわち、「自分の類・自分の本質に対する関係」としての「人間の内的生活」において「孤立した仕方で与えられ理解されるべき言葉ではない」。アンセルムスのそれは、キリストにあっての特別「啓示(それにまた、神の存在の啓示が含まれている啓示)との関連性における神の言葉である」。アンセルムスの「それは、(≪神の存在としての≫)神の名」は、「神が存在しないことの不可能性が(その啓示された独一無比の創造者としての存在の前提のもとで)見てとられることができる神の名」を、「神の信じられた存在を考えつつ理解することができる可能性を与える神の名を語る」。一般的啓示、一般的真理、自然神学、「存在の類比」に立脚したガウニロは、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、啓示神学、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)に立脚したアンセルムスの神の存在としての「神の名の定義」、すなわち「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」という定式を、アンセルムスが「あたかも……『プロスロギオン』において、(≪存在的な≫)スベテノモノヨリモ偉大ナ何カと記述しているかのように(≪「絶えず」≫)理解し(≪「誤解」し≫)、また数多くの箇所でそのように(≪「誤解」したまま≫)引用した」のであるが、「まさにそこでこそ、(≪ガウニロは≫)アンセルムスのところを素通りして語ったのである」。