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25の5(その2).「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

25の5(その2).「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。

 

「U 神の存在の証明」「B 証明の遂行 『プロスロギオン』二−四章注釈」「一 神の一般的な存在 『プロスロギオン』二章」
(6)の続き
 ガウニロは、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」という神の存在としての神の「名を聞き理解することと共に、存在をアル程度理解スルコト」が、「この名を聞き理解する者が、決してただ単にその言葉の前に置かれているだけでなく」、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その啓示自身が持っているあの総体的構造からして、「確かに神の存在について何も含んでおらず、何も語られてはいないが、しかし、それが神についての考えに対して、特定の限界をひき、理解ノウチデノ存在を記述している禁止命令」(下記の【注7】を参照)、「そこからして、ほかのところで得られた、ここで問題になっている神の存在についての信仰命題の内容が、……明らかになってくる禁止命令」、「人が自分に向かって、同時にあの同じ禁止する神の存在のことを思い出すことなしに語らせることができない禁止命令の前に置かれている限り」、「既に始っていることを見てとらなければならない必然性から身をひいており、あるいはそのことを見てとる可能性を断念しているのである」。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その啓示自身が持っているあの総体的構造からして、「神の不把握性の命題でもって」、聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」(それ故に、「三神」・「三つの対象」・「三つの神的我」ではない)ということについて考えられる得ることが語られている、キリストにあっての「神が、「考えられ得るものとなることなしに……ある特定の仕方で表示されるように」、「神の名は、名が神であるところの方を、アル程度、認識的な領域において、単に考えの規則の形式においてであるが、表示する」――「『表現ヲ超エタタ』ト言ワレルモノガ何デアルカハ表現サレ得ナイトシテモ、『表現ヲ超エタ』ト表現スルコトニ何ノ問題モナイヨウニ、マタ『考エ得ナイ』ト言ワレルモノニ該当スルモノヲ考エルコトハ不可能デアッテモ、『考エ得ナイ』ハ考エ得ルヨウニ、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイト言ウ時、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノノ実体ソノモノヲ考エアルイハ理解スルコトハ出来ナイトシテモ、耳デ聞イタコトハ疑イモナク考エマタ理解シ得ル」。

 

【注7】
 イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その啓示自身が持っているあの総体的構造からして、アンセルムスの神の存在としての「神の名(≪「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」≫)の中で語られている禁止命令」は、「神という言葉」を、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カという定式を通して解釈することに同意する」ことを「命じている」それである。何故ならば、「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノ」は、「まさに神の非存在あるいは完全性の、(すべての存在的な神概念(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」概念≫)の背後にひそんでいる)<考えられ得ること>を排除するのに……適している」からである、「創造者から被造物に対して発せられる、アナタガタハ神ノヨウデアッテハ<ナラナイ>という禁止命令が含みをもっている徹底さと重みをもって排除するのに適している」からである。そして、それは、「まさにそのようにしてこそ、神の存在と完全性の知解あるいは証明を基礎づけるのに適している」からである。この語義を理解するためには、「この名が語ってい<ない>ところのこと」――すなわち、「この名」は、神は、「人間が現実的に考えるところの最高のもの」・「それを超えたその上に、それからもっと高いものを人間が考えることができない最高のものであるということを語っていない」ということが、また神は、「人間が<考えることができる>最高のものであるということを語っていない」ということが「よく注意されなければならない」。神の存在としての「神の名の定義」――すなわち「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイ何カ」という「この定式が、対象について語っていることは、徹頭徹尾、一つのこと」、「すなわちその対象よりももっと偉大なものは考えられない」ということである。ここにおいては、アンセルムスが「神の概念として表示している厳格に認識的な内容の一つの概念が問題である」。その「概念は、(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、先行させるべき第一の問題としての≫)神は存在するということ」を語っているのであって、「神はであるか(≪第二問題としての神の本質≫)ということを語ってはいない」ということ、すなわち「人間によって聞かれた禁止命令の形で、神はであるか(≪先行させるべき第一の問題としての神の存在≫)ということを語っている」。したがって、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、このことでもって、「『最高のもの』そのものの存在」は、「また本質も、知解され証明されたのではない」。

 

(c)
 「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」という「神の名を聞くことに基づいてのわれわれの理解にとっての神の存在」に対する、それは、「結局われわれに徹頭徹尾知られていないものの存在でしかないという異議申し立てに対する防衛の仕方」において、「神の名と共に、そしてここで証明されるべき神の存在と共に」、「神の本質が啓示されているということを考慮」されていなかったが、このことは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その啓示自身が持っているあの総体的構造からして、「正当であるように」、「考慮に入れられるならば、その時には、その異議申し立ては、完全に不可能となる」。「人はよく注意せよ。アンセルムスによって、この観点のもとでなされた防衛においては、決して……(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その啓示自身が持っているあの総体的構造からして、先行させるべき第一の問題である≫)神の存在についての命題を、(≪第二の問題としての≫)神の本質についての命題からして基礎づけることが問題ではないのである」。ただ神の存在としての「神の名(≪ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ≫)を聞くところの者」は、「彼がそのことを実際になすかどうかは、それ自体一つの問題であるが、しかし、『そこで何かを考える』ことができる。何故ならば、彼にとって、もしも彼がまことに聞く時には」、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その啓示自身が持っているあの総体的構造からして、「神の本質が啓示されてあること……が欠けることはあり得ないからである」。「そして、彼の理解のうちでの神の存在」を、「彼にとって神の名は空虚な概念であるという基礎づけでもって否定することはできない」。アンセルムスは、「二つの違った観点のもとで、……そのことについて語っている」

 

 神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼し」たあの総体的構造、啓示神学、信仰の類比に立脚したアンセルムスは、「一つには、……(≪神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、≫)ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カという定式に基づいて」、「いかに……(≪「単一性と区別」、区別を包括した単一性における≫)神の分割されない永遠性(≪神の内在的本質としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性≫)と遍在(≪その神の「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体≫)についての理解が可能であるかということ」、それ故に「永遠的でない者と遍在しない者だけ」が、それ故にまた「有限な者だけ」が、「存在しないと考えられることができるということを示した」。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「神は、……事実存在すると前提して……、存在しないとして考えられることはできない」。したがって、「存在しないと考えられるものは、よしんばそれが存在するとしても」、それは、「とにかく神、(≪神の存在としての「神の名」――すなわち、≫)ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カではないであろう」。このような訳で、神は、「神の自由の様々な完全性」における「神の単一性と遍在」(『教会教義学 神論』)としての「分割されない(≪すなわち「単一性と区別」、区別を包括した単一性における≫)永遠的なものおよび遍在するものでなければならない」。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「これらの概念でもって否定されず、むしろ主張されている(神の本質)の不把握性全体を認めるとして」、聖性・秘義性・隠蔽性(それ故に、われわれは神の不把握性の下にある)において存在している「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神としての「神が、まさにその顕わすことの中で、(≪「単一性と区別」、区別を包括した単一性における≫)永遠的なものおよび遍在するものとして概念的に把握できるものとなる隠れ全体を認めるとして」、「単一性と区別」、区別を包括した単一性における「神の永遠性と遍在が、われわれに対して啓示されることによって」、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノという定式に基づいて(≪「単一性と区別」、区別を包括した単一性における≫)神の永遠性と遍在の必要性が見てとることのできるものとされることによって」、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノでもって表示されたものの一つの(たとえ認識的には制限されており、対象そのものにはただ外から触れることができるだけであるにしても)(≪あの総体的構造に基づいて≫)理解が出来事なって起こり」、それ故に「単一性と区別」、区別を包括した単一性における「永遠的および遍在するとして理解された主体がわれわれの理解のうちで存在を持つ」のである――「ソレ故、ドノヨウナモノデモ、ドコカニ、アルイハイツカ全体トシテ存在シテイナイモノハ、タトエ存在シテイルトシテモ、存在シナイト考エラレ得ル。シカシ、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノハ、モシ存在シテイルナラ、存在シナイト考エラレ得ナイ。ソウデナイナラ、モシ存在シテイルトシテモ、ソレハ、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノデハナイ。コレハ矛盾デアル。ソレ故、ソレガドコカニアルイハイツカ全体トシテ存在シテイナイコトハ決シテナク、常ニソシテドコニモ全体トシテ存在シテイル。サテ、コレラノコトガ、ソレニツイテ理解サレルガ、貴君ハソレガアル程度考エラレ、理解サレ、アルイハ思考ノウチニマタ理解ノウチニ存在シ得ルト考エナイノダロウカ。……疑イモナク、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノハ、少ナクトモコレラノコトガ理解サレテイル分ダケ理解サレ、マタ理解ノウチニ存在シテイル」。

 

 アンセルムスは、二つには、「私ハソノモノ自体ヲ知ラナイシ、マタ……私ハホカノモノカラ、ソレニ類似シタモノヲ想像スルコトハデキナイ」という「絶対的な使い方の中」での「ガウニロの命題」に妥当性を見出さない。あの総体的構造における「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である「教会の外に立っている者、啓示と信仰を欠いている者は、(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、≫)確かに事実、……ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノという名(≪神の存在としての「神の名」≫)を持っており、教会がホカノドノヨウナモノヲモ必要トシナイガ、スベテノモノガ……必要トシテイル至高ノ善として告白するところの本質について知っていない」。「教会の外では、事実、いかなる神ヲ推量スルコトも存在しない」。「世界には、人間的な理性そのものにとって、ソレ自体デ似テイルモノ、……そのまま直ちに神認識の乗り物であるような事物は存在しない」。信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事には、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、啓示自身が持っているあの総体的構造における「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連続する「教会の中での存在を、啓示と信仰(≪啓示と信仰の出来事≫)を必要としている」。「その限り、(≪人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、誰であれ、生来的な自然的な≫)人間それ自身を見たのでは、……教会の外での人間を見たのでは、(≪キリストにあっての≫)神は人間にとって、事実、直接的にも間接的にも知られていない対象である」。「しかし、そのことは、人間にとって、この世の事物は、神に類似スルモノとなることができないということを意味していない」、ちょうど例えばそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)が客観的に存在しているように。「われわれは、……既に教会の知解、信仰の知解こそが、比喩ニヨル知解であることを見た」(【注1】参照)。「ここで、相対的な有限な善から『上に上って行きつつ』、……到達されるべき洞察と言明の不適当さを意識しつつ、あの至高ノ善が、事実、開示される」。このことは、あの総体的構造における三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在そのもの」)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、第三の形態の神の言葉である教会の宣教(その思惟と語り)における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下での途上性において絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とその決断と態度としての自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(この隣人愛は通俗的な意味での隣人愛ではなくて、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法のことである、すなわちすべての人々が純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるためになす純粋な教えとしてのキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えのことである)という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指して行くということを意味している。したがって、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚し、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」を尋ね求めることによっては、キリストにあっての「神は、人間にとって、事実、直接的にも間接的にも」認識(信仰)され得ない対象である。言い換えれば、神の側の真実としてあるただイエス・キリストにける神の自己啓示だけが、われわれ人間の、その個と現存性――類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所である、また自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所である、またキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法が、「自然法」や「理念」や「民族法」や「大規模な世界改良の偉大な計画」や「ある種の正義」や「道徳的な諸原理」やある「特定の人種や民族」への配慮や人間自身によって恣意的独断的に考え出された「救いの計画と救いの方法」・「平和の計画と平和の方法」やある主義・体制やある社会構成・支配構成や政治的近代国家の法的政策的言語等々へと転倒されて行くことが見渡せる場所である。すなわち、それらは、余りに人間的であるにもかかわらず、例えば観念の共同性を本質とする国家の無化を伴う個体的自己としての全人間の社会的な現実的な究極的総体的永続的解放という革命の究極像を持たない水準のものである、またそれらは、戦争全廃――すなわち平和の実現を標榜しながら、戦争の元凶である民族国家の死滅を明確に提起でき得ていない水準のものである。宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農業芸術概論綱要』)、全体(個体的自己としての全人間)が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという『よだかの星』の課題に対する唯一の解決の方途は、マタイ26・6-13、マルコ14・3-9のまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの言葉にあるだろう。

 

 「啓示は、(≪神の側の真実としてある、その「啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、あの総体的構造を持っている」イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、≫)言うまでもなく、その世界の中での神の啓示、すなわち、……そのように造られているので、神の本質は、その中で、鏡ニウツルヨウニ比喩ヲ通シテ、類比ヲ通シテ」、「神が、ご自身を、世界の中で啓示しようと欲せられ、事実、それがいかなる人間に対しても啓示されていないとしても、……(≪あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性としてある≫)啓示されてあることができる世界の中での啓示である」。その「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした「教会は、その神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)でもって、(≪終末論的限界の下でのその途上性において≫)……人間自身は、堕罪の結果、実際には決して用いることはできないが、しかし、どうしても、(それが実現されることができる場所を指し示しつつ)可能性として主張されなければならない可能性を実現する」――「それは、もちろん、造られた自然そのものの中にはなく、むしろ神のかたちにかたどって造られてあることの中に、……父を永遠から知り給うみ子の被造物的な適合(下記の【注8】を参照)の中にある」。したがって、「神の存在を、自分は『神』という言葉でもって何も考えることができないという理由で否定する愚カ者に対して、彼は人間として、もしも彼がまさに愚カナ人間でないならば、そのことを至極よくなし得るであろうと答えられなければならないであろう」。「カトリック信徒は、(≪自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の陥穽に陥らないために≫)ローマ一・二〇をよく考慮し」、「この点でも愚カ者をかばうべきではないであろう」。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その啓示自身が持っているあの総体的構造からして、「『神』という言葉でもって何かを考えようとする試み」は、「また、理解ノウチデノ神ノ存在」は、「神は隠れた神である(≪それ故に、われわれ人間は神の不把握性の下にある≫)ということでもって、挫折してしまってはならない」のである。何故ならば、キリストにあっての「神は、それとして、啓示された、また愚カ者の世界でもある現実の世界において、ご自身を啓示される神である」からである。したがって、「神ヲ推量スルコトがあるのである」――「ドノヨウナ、ヨリ小サイ善モ、善デアルカギリ、ヨリ大キイ善ト類似シテイルノダカラ、ドノヨウナ理性的精神ニモ、ヨリ小サイ善カラヨリ大キイ善ヘト進ミ、ヨリ偉大ナ何カガ考エラレ得ルモノカラ、明ラカニ、ソレヨリ偉大ナモノガ全ク考エラレ得ナイモノニツイテ、多クノコトヲ推察出来ル。……ソレ故、モシ聖ナル権能ヲ受ケ容レナイ愚カ者ガ、ホカノモノカラ、ソレヨリ偉大ナモノガ考エラレ得ナイモノニツイテ、推察ガ可能ナコトヲ否定シタナラ、コウシテ容易ニ反駁出来ル。シカシ、コノコトヲ公教信徒ガ否定スルナラ、『神ノ見エナイ本性ハ、スナワチ神ノ永遠ノ力ト神性トハ、天地創造コノカタ、被造物ヲ通シテ知ラレテイテ、明ラカニ認メラッル』コトヲ想起すべきである」。この言葉は、一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」を容認する言葉ではないのである。
 信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、あの総体的構造における神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられるものであるから、そのことがどこで、いつ出来事となって起こるかということは、確かに別な問題である」。

 

【注8】
 何故ならば、自己自身である神としての自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の根源・起源としての父は、「子として自分を自分から区別する」し、「自己啓示する神として自分自身が根源」・起源であり、その区別された子は「父が根源」・起源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は「父と子が根源」・起源であるが、この神は、「子の中で創造主として、われわれの父」として自己啓示するから、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるからである(神の永遠性)。それからまた、この神は、われわれのための神として、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である「父なる神と子なる神の愛の霊」としての聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体であるからである(神の遍在)。神の側の真実としてある常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」からである。われわれは、「心を頑固にし福音を認めない人間や異教徒に対して、恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない」。すなわち、われわれが、「そうした人々に呼びかけることができるのは、私がその人をその中に置くことによってではなく、イエス・キリストがすでにその人をその中に置いてい給うことによってである」、イエス・キリストがすでにその人を、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括している)の中に置いてい給うことによってである。したがって、われわれは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」のである(『証人としてのキリスト者』)。「神の言葉が人間によって信じられる……出来事」、信仰の出来事、信仰の認識としての神認識の出来事、啓示認識・啓示信仰の出来事は、徹頭徹尾「人間自身の業ではなく、神の言葉自身の業」(起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動)、あの総体的構造における客観的な「啓示の出来事」(客観的な「存在的な必然性」)とその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な必然性」)を前提条件として可能となる(『教会教義学 神の言葉』)。「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、(≪主格的属格理解としての≫)<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。