25の5(その1).「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
25の5(その1).「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。
この『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
「U 神の存在の証明」「B 証明の遂行 『プロスロギオン』二−四章注釈」「一 神の一般的な存在 『プロスロギオン』二章」
(6)ここにおいて、われわれは、下記の【注6】にもあるように、ガウニロは、アンセルムスの神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」という定式を、アンセルムスが「あたかも……『プロスロギオン』において、(≪存在的な≫)スベテノモノヨリモ偉大ナ何カと記述しているかのように(≪「絶えず」≫)理解し(≪「誤解」し≫)、また数多くの箇所でそのように(≪「誤解」したまま≫)引用し」論じているということを念頭に置いて、次のようなガウニロの異議申し立てを考える必要がある。一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚し、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」を尋ね求める「ガウニロの第二の、……異議申し立て」は、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼し」たあの総体的構造(下記の【注1】参照)、啓示神学、信仰の類比に立脚したアンセルムスにおける神の存在としての「神の名の定義」――すなわち「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノで表示された対象」が、「誰かに向かって語られ、誰かによって聞かれるということに基づいて」、「聞き手の理解のうちで存在を持ち」、聞き手の理解のうちで「対象である(≪聞き手の理解のうちで対象として存在している≫)ということを承認するとして」、アンセルムスの「その対象」は、「結局、ただ」、「その対象」が「そのようなものとして考えられることができないという仕方でだけそのことをなす」という点にある、換言すればその対象は、主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」を持つイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、あの総体的構造を持った先行させるべき第一の問題としての神の存在を問う(尋ね求める)というという仕方でだけそのことをなすという点にある――「モシ、ドノヨウナ実在ノ真理ニ従ッテモ考エルコトサエ不可能ナモノガ、理解ノウチニ存在スルト言ワナケレバナラナイナラ、コノモノモソノヨウニ私ノ理解ノウチニ存在スルコトヲ、私ハ否定しない」。したがって、一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚したガウニロは、アンセルムスにおける神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノで表示された対象」は、「考えること」が、「ただ……考えることにとって確かに存在するとして表示された、しかし存在するとして完全に未知な対象としてのそれに(無駄に)帰そうと骨折っている存在だけしか持っていない」というように異議申し立てをする――「ソモソモ私ハ、アノヨリ偉大トイウモノガ、ドノヨウナ真ノ実在トシテモ、存在スルトハマダ言ッテイナイ、イヤ、ムシロ否定アルイハ疑ッテサエイル。マタ、タダ聞イタ言葉ニ従ッテ、全ク未知ノ実在ヲ心デ想像シヨウト努力シテイル時ニ、ソノ実在ノ在リ方以外ノ存在ヲ――ソレヲ、ヨシ『存在』ト呼ベルナラ――私ハソレヲ認メナイ」。「これらの命題」を、ガウニロは、「次のような仕方で基礎づける」――「われわれは、(≪キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼し」たあの総体的構造、啓示神学、信仰の類比に立脚したアンセルムスの≫)ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カとして表示された対象を、ちょうど神(Deus)でもって表示された対象同様に」、この「特定の見方、あるいは少なくともこの特定の見方に類似した見方に基づいて、われわれに知られた対象として知っていない」という仕方で基礎づける、換言すれば一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚し、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」を尋ね求めるガウニロ(ガウニロに代表される「われわれ」)に「知られた対象として知っていない」という仕方で基礎づける――「私ハ、アノ神ゴ自身以外ノ何モノデモアリ得ナイトイウ考エラレルスベテノモノヨリ偉大ナモノニツイテ聞ク時、私ノ知ッテイル種カ類ノ範疇ニ属スルモノヲ通シテ、ソノモノヲ考エルコトモアルイハ知性ノウチニ持ツコトモ出来ナイ」。アンセルムスの神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カとして表示された対象」は、ガウニロが誤解した存在的な「スベテノモノヨリモ偉大ナ何カ」ではないし、それ故に人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではないし、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍によっても認識できる対象ではないから、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼し」たあの総体的構造、啓示神学、信仰の類比にではなく、一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚したガウニロにとっては、「われわれ(≪ガウニロに代表されるわれわれ≫)にとっては、結局、直接的にも間接的にも知られていないのである」――――「私ハソノモノ自体ヲ知ラナイシ、マタアナタモソレニ似タモノハ何モ存在シ得ナイト言イ切ッテイルヨウニ、私ハホカノモノカラ、ソレニ類似シタモノモ想像スルコトハ出来ナイ」。ちょうど「それは、アンセルムス自身によっても、独一無比なものとして」、「それ故に、間接的にも解明し得ないものとして表示されるように」――このことは、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼し」たあの総体的構造、啓示神学、信仰の類比に立脚したアンセルムスにとっては、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、当然のことであった(下記の【注1】を参照)。キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼し」たあの総体的構造、啓示神学に立脚しないで、一的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚し、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」を尋ね求めるガウニロは、「われわれは、少なくとも一般的に、人間が存在するとは何であるかということを知っているから」、「人が、われわれに対して、偽って存在するとして表示する一人の人間を、われわれは、少なくとも存在するとして考えることができる」が、「神の存在を、そのような具合に考えることはできない」、「むしろ、まさに、ただ聞かれた言葉に基づいて考えることができるだけである」、「しかし、人は、単なる言葉に基づいては、……『おおよそ、あるいは決して』何かをまこととして、ただ考えることだけでも出来『ナイ』」ということを、「いくらか不確かな仕方でつけ加える」――「ソレ故、『神』アルイハ『スベテノモノヨリ偉大ナ何カ』(ガウニロの「誤解」、下記の【注2】を参照)ト言ワレルノヲ聞ク時、私ハコノ虚偽ナルモノ(あの実在しない人間の存在)ヲ思考アルイハ理解ノウチニ持ッタヨウニハ、ソレヲ思考アルイハ理解ノウチニ持ツコトハ出来ナイ。人間ニツイテハ、真ノ、私モ知ッテイル実在ニ従ッテ考エルコトガ出来タガ、『神』トカ『スベテノモノヨリ偉大ナ何カ』ニツイテハ、言葉カラシテ全ク考エラレズ、言葉ノミニヨッテデハ、オオヨソアルイハ決シテドノヨウナ真理モ考エラレ得ナイ」。一的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚し、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」を尋ね求めるガウニロの思惟と語りのベクトルは、低いものの存在と本質から、最高のものの本質へと推論スルコトを目指しているのである、ちょうどアウグスティヌスが、自然神学の段階において、「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」に依拠して(存在の類比に依拠して)、「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」と思惟し語ったように(『教会教義学 神の言葉』)。「詳しく言えば、存在するとして考えられるべきもので、ただ単に聞かれた言葉の文字と綴りの(当然なことがら『存在している』)響きだけでなく、むしろ言葉を通して表示されたものが理解されるべきである」――「ソモソモ、コノヨウニ考エル時、言葉自身――ソレハ確カニ真ナル実在デハアル――スナワチ、文字アルイハ音節の音デハナク、聞イタ言葉ノ意味ガ考エラレテイル」。「神の存在のことを考えること」が、それ故に「神の考えられた存在」が、「ただ聞かれた言葉を持っているだけで、決してほかのところで得られた(≪人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能の成果としての一般的な知的世界で得られた≫)神の存在についての知を持っていない者の考えに対して要求される時」、「『おおよそ、あるいは決して』何かをまこととして、ただ考えることもでき『ナイ』」。
【注1】
イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある。Tコリント13・8以下)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
そのような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)であろう、キリストにあっての「(中略)神の啓示の内容は、(≪キリストにあっての≫)神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものに過ぎないであろう、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」であろう(『キリスト教の本質』)。
「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるし(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」≫)である」(それ故に、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない)。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。
【注2】
アンセルムスの神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノとして神を言い表す表示の仕方」は、「いかなるものの存在と本質をも、神ご自身の存在と本質をも、考えられたもの、あるいは考えられ得るものとしてさえ前提していない」。「この表示の仕方」は、「神は考えられるべきであり、考えられることができるとしたら、……ほかのいかなるものも神より偉大なものとして考えられることはゆるされないであろうということを語っている」。この「神の表示の仕方の前提のもとでなされるべき証明」は、その神の名が「何よりも先に自分自身を証明している」(イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」による神の自己証明である)ということから、「分析的な命題ではなく、総合的な命題である」。このことからして、この「神の表示の仕方は、その対象に対応している」。完全に自由なこの「神の表示の仕方」は、「また(≪その啓示に固有な≫)証明する力を持ち得るのである」。言い換えれば、その「前提された神の名が、(≪その完全に自由な――下記の【注3】を参照≫)神証明においてなすべきであるところのことをなすことができるのである」。神の名、「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノでもって、敵(否定あるいは疑い)は、そのもの自身の本営において探し出され」、「そこから存在的な神概念の前提のもとで」、換言すれば三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、「神の知解が(≪終末論的限界に下での途上性におけるそれとして、絶えず≫)繰り返し問いに付されなければならないと考えることそのものが(≪そういう仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求め続けていかなければならないと考えることそのものが≫)、神の名のしるしのもとに置かれ、それと共に、神の必然的な知解へと呼び出される」。「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイモノ」は、「まさに神の非存在あるいは完全性の、(すべての存在的な神概念(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」概念≫)の背後にひそんでいる)考えられ得ることを排除するのに……適している」、「創造者から被造物に対して発せられる、アナタガタハ神ノヨウデアッテハナラナイという禁止命令が含みをもっている徹底さと重みをもって排除するのに適している」。そして、それは、「まさにそのようにしてこそ、神の存在と完全性の知解あるいは証明を基礎づけるのに適している」。この語義を理解するためには、「この名が語っていないところのこと」、すなわち「この名」は、神は、「人間が現実的に考えるところの最高のもの」・「それを超えたその上に、それからもっと高いものを人間が考えることができない最高のものであるということを語っていない」ということが、また神は、「人間が考えることができる最高のものであるということを語っていない」ということが「よく注意されなければならない」。神の存在としての「神の名の定義」――すなわち「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイ何カ」という「この定式が、対象について語っていることは、徹頭徹尾、一つのこと」、「すなわちその対象よりももっと偉大なものは考えられない」ということである。ここにおいては、アンセルムスが「神の概念として表示している厳格に認識的な内容の一つの概念が問題である」。その「概念は、(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、先行させるべき第一の問題としての≫)神は存在するということ」を語っているのであって、「神は何であるか(≪第二問題としての神の本質≫)ということを語ってはいない」ということ、すなわち「人間によって聞かれた禁止命令の形で、神は誰であるか(≪先行させるべき第一の問題としての神の存在≫)ということを語っている」。したがって、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、このことでもって、「『最高のもの』そのものの存在」は、「また本質も、知解され証明されたのではない」。
しかし、ガウニロは、キリストにあっての特別の啓示、啓示の真理、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼し」たあの総体的構造、啓示神学、信仰の類比に立脚したアンセルムスの「ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイ何カ」を、一般的啓示、一般的真理、自然神学、存在の類比に立脚し、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」としての)「存在的なものへと逆戻りさせしまう」「スベテノモノヨリ偉大ナ何カ」と「無思慮」に「誤解」し「曲解」したのである。したがって、ガウニロにとっては、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノ」は、人間の直観(「該当する対象をながめ見るところの直観」)と言語を介しての「何かある一つの概念」である、あるいは「直観なしに形成されることができるような一つの概念である」。したがってまた、ガウニロは、「アンセルムス的な定式(≪ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノ≫)が知解させる力があることに反対する」、それ故にその「定式が知解させる力があるものとなるために、直観を通しての補充を必要としているということを要請する」。ガウニロにとっては、「言葉それ自体というようなもの」は、「相応する直観が存在する場合にだけ、その空しさから解放されることができる空虚な言葉」、「そこで目指されている内容としての神を念頭においては、いつまでもその空しさの中に留まらなければならない空虚な言葉でしかない」、それ故にガウニロにとっては、アンセルムスの「知解させる力がある」「神の存在の信仰命題」もそれでしかなかった。したがって、「教義学的な合理主義を明確に否定」し啓示神学に立脚したアンセルムスにおけるような、「既に、それ自身で『ただ単に』言葉であるだけでなく」、「人間的な頭脳によって、人間的な論理にしたがって『考えられ』、人間的なラテン語で語られ、表現された概念の衣を身に着けて、神的な啓示されてあるところの言葉」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)が客観的に可視的に「存在し得るであろうという」思惟と語りは、ガウニロにとっては「全く疎遠な考えであった」――「……ムシロ言葉ノ意義ヲ知らず、聴聴取シタ言葉ニ精神ガ動カサレ、聞イタ言葉ノ意味ヲ想像シヨウト努メルコトニヨッテノミ、ソノ思考ガナサレル人トシテ考エラレ得ルモノナラ、ソレコソ不思議デアル。ソレ故、誰カガ、考エラレ得ルスベテノモノヨリ偉大ナ何カガアルト言ウノヲ聞キマタ理解スル時、明ラカニコノ後者ノ意味ニオイテノミ、ソレハ私ノ知性ノウチニアル」。
【注3】
キリストにあっての「神の自由」は、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>と共に、「自己自身である神の自由」(ご自身の中での神の自由、「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内的・内在的な三位一体の神の自由)としての「自存性の概念(≪神の自由の概念の積極的側面≫)」と「神とは異なるもの(≪全被造物≫)によって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪神の自由の概念の消極的側面≫)」との全体性・総体性において定義されなければならない。このように、「神の自由」という概念は、その積極的側面を「強調」しつつ、その積極的側面と消極的側面との全体性・総体性において定義されなければならない。何故ならば、例えば「世界に対する神の関係」としての「神の創造と和解の概念」と「神の全能、遍在、永遠性の概念」は、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪自由の概念の消極的側面≫)」に「言及することとなしに、把握し、展開することはできない」からである。しかし、キリストにあっての神は、「三位相互内在性」における「右沙われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)において三度別様に父、子、聖霊なる神であるから、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけからの神の自由」は、「ただ外に向かっての神の行為の本来的な積極性(≪独立性としての神の自由≫)であるばかりでなく」、「また、神ご自身の内的な本質の本来的な積極性(≪自存性としての神の自由≫)である」という「認識の下で起こる時にだけ、正しい仕方で為すことができるし、為す」のである。キリストにあっての「神についての聖書的な証言」は、「神とは異なるすべてのものに対して」持つところの神の「優位性」を、「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけ(≪外的条件づけ≫)からの神の自由(≪独立性としての神の自由≫)として」の「神の相違性そのものの中でだけ見ているだけでなく」、「神がそれらを実証することによって」、それ故に「外的条件づけからの(≪独立性としての≫)神の自由」に「相対しても自由(≪自存性としての神の自由≫)であり」、この全き自由を放棄することなく、「創造主、和解主、救済主として」、「神とは異なった実在との交わりへと歩み入り、その交わりの中でその実在に対して忠実であり給うということの中で」、神の「真実を実証し、まさにそのようにしてこそ現実に自由(≪独立性としての神の自由≫)であり、ご自身の中で自由(≪自存性としての神の自由≫)である」ところの「神の自由」(神の自由の全体性・総体性)の中で見ている。
先に述べたガウニロの「異議申し立てに対するアンセルムスの立場を理解するためには、彼の解答書の中の三つの要素がよく注意されなければならない」。
(a)
アンセルムスは、「既に何回も引用された箇所で」、「ガウニロのようなキリスト者」が、「あたかも(≪神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、≫)ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カという定式を通して表示されているものについて何も知らないかのように振舞うことがゆるされるということを、不可能なことだと述べた」。何故ならば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会、そのすべての成員、キリスト者は、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの、客観的な「存在的な必然性」)を起源とする「神言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)と、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という連続性に連続して行くことに基づいているからである。第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会のルターやカルヴァンは、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とすべきことを、再度、認識し自覚したのである。したがって、このような「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性に連続することを目指さないキリスト教は、終末論的限界の下での途上性において(コリント13・8以下)絶えず繰り返し、聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求め続けるキリスト教(すべての成員、キリスト者)ではなく、すなわちイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指し続けるキリスト教(すべての成員、キリスト者)ではなく、人間的な余りに人間的な自然的な信仰・神学・教会の宣教を目指すキリスト教(キリスト者)であり、人間的な余りに人間的な誰々あるいは何々を主・頭とする<新興宗教>化されたキリスト教(キリスト者)であるだろう。「彼に神の名が宣べ伝えられた後でも愚カ者であり続ける」「愚カ者がではないが」、「少なくとも愚カ者(下記の【注4】を参照)の代表者としてのガウニロ」は、「理解ノウチニアル神ノ存在について、アンセルムスと共に知っている者である」。ガウニロは、「キリスト者として、知解のあの出来事にあずかっており、知解スルコトのあの行為主体であり」、それ故に「あの出来事そのものの中で、神ノ存在が実在であるということに対して言質がとられ、そのことの証人として呼び出されることができる」――「私ハ答エル。(≪神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、≫)ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノガ理解サレズ、アルイハ考エラレズ、マタ理解ノウチニモナイナラ、実ニ神ハ……理解ノウチニモ考エノウチニモ存在シナイコトニナル。シカシ、コレガドレホド誤ッタコトカ、ソノ最モ確固トシタ論拠トシテ、私ハ貴君ノ……良心ニ訴エタイ。ソレ故、(≪神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、≫)ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノハマコトニ理解サレ、考エラレ、マタ理解ノウチニモ思考ノウチニモ存在スル」。「神は、少なくとも(≪あの総体的構造における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした≫)アル理解ノウチでは、単に無駄に志された対象ではなく、知られた対象である」。
【注4】
「詩篇をウルガタ訳で読んだ」アンセルムスの言う「愚カ者nabal」が「欠けている点」は、「知的な才能や学識」ではない。「彼は利口な人間である」。学業的な優等生であるかもしれない。「しかし、(≪人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍を第一義とする≫)彼は、根本からして転倒した、破滅的な原則に従っている」利口な人間である。「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」者、それに類似した人間である(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。何故ならば、アンセルムスの言う「愚カ者」は、「主を恐れること」は「知識のはじめである」というあの総体的構造への「必然的な(≪知識の≫)方向転換」の重要さを理解しないからである、もっと言えばその「愚カ者」は、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>(『ローマ書』)の一貫性を持たないからである。「『プロスロギオン』三章の終りに出てくる……愚鈍デ愚カ者」の「愚かなゆえん」は、「その同じ章によれば、……(≪神とは全く異なる≫)被造物としての自分自身を創造者の上におくことを意に介さないということから成り立っている」。「愚鈍デ愚カ者」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、第一の問題としての神の存在を問う問い(神の存在の問題)を先行させないところで、第二の問題としての神の本質を問う問い(神の本質の問題)を考える者であるが、しかし彼は、第二の問題としての神の本質を問う問い(神の本質の問題)を「理解シテイル者ではない」――すなわち、「神ガ何デアルカ(≪神の本質の問題≫)ヲ理解シテイル者ではない」。「それだからこそ、彼は、制限、無教養からしてではなく、神は存在シナイと考えることができる」者である。
(b)
キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、啓示神学、信仰の類比に立脚したあの総体的構造における客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」(客観的な「存在的な必然性」)とその啓示の出来事に中での主観的側面としてのキリストの霊である「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な」必然性」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識として神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「神の不把握性の理解」を持っている。「神の不把握性の理解」は、「神の存在における神の具象性を、…徹底的に排除する」。キリストにあっての「神の存在」は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――「啓示者」・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――「啓示」・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体としてのそれであるから、「ドノヨウナ実在ノ真理ニ従ッテノ神の存在の理解も」、それ故に「例えば、われわれがひとりの人間の存在について持つことができる理解に相応しつつの神の存在の理解(≪存在の類比による神の存在の理解――下記の【注5】を参照≫)も」、「ここでそもそも問題とならないということ」、それ故に「そのような理解の不可能性が、この存在の理解に反対する議論として舞台にひき出されてはならないということ」を、「もしもガウニロがその異議の申し立てにおいて、実際に(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神としての≫)神ノ不把握性について考えていたのであれば」、「彼は……知らなければならなかったはずである」。ガウニロの「専門的知識におけるこの宿命的な空隙」は、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」は、彼にとって「多くのそのほかの言葉の中の一つの知覚された言葉であって」、「啓示する力の言葉ではなく、啓示され、信じられた神の名ではないということ」と「関連している」のである。聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「三位相互内在」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神としての「神ノ不把握性に対するガウニロの無理解」は、「それが、特定の資格づけられた言葉」、「それだからこそ、文字と綴りの単なる響き以上のものである言葉を通して」、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として、それ故に自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)を通して、「確認されると共に」、「また取り除かれるということを見てとらないということの中で、暴露される」。ガウニロは、「キリスト者として、(a)のところで示されたように、これらの言葉と、そして具体的には『ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ』という言葉とかかわることはゆるされないであろう」。何故ならば、ガウニロは、アンセルムスの神の存在としての神の名の定義――すなわち、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」を、アンセルムスが「あたかも……『プロスロギオン』において、(≪存在的な≫)スベテノモノヨリモ偉大ナ何カと記述しているかのように(≪「絶えず」≫)理解し(≪「誤解」し≫)、また数多くの箇所でそのように(≪「誤解」したまま≫)引用し」論じたからである(下記の【注6】参照)。
【注5】
アウグスティヌスは、「存在するものそのもの」、「その純然たる造られた存在」を通して(「信仰の類比」を通してではなく、「存在の類比」を通して)、すなわち「造ラレタモノヲトオシテ、知解サレタ創造主ヲ認識シテ、私タチハ三位一体ナル神ヲ知解スルヨウニシナケレバナラナイ、ソノ跡ハフサワシイカタチデ被造物ノウチニ顕レテイルノデアル」という思惟と語りを行った。それに対して、バルトは、そのような三位一体の跡は、「世界に対して超越する創造神の跡として理解することはできない」、それは、ただ単なる人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的機能によって対象化され客体化された「人間自身の内在的に理解された宇宙の諸規定、人間的な現実存在の諸規定、単なる宇宙論や人間論でしかない」、それ故にそのような三位一体論は、「人間自身に基づく人間の世界理解の、最後的には人間の自己理解」、「神話である」と根本的包括的な原理的な批判を行った(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、バルトは、『カント』では、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」と述べている。何故ならば、アウグスティヌスは、「三位一体の痕跡」である「想起(記憶)、知解、愛」としての「人間の中での神の像」を、「最も身近な最も高貴な認識根拠」とし、「聖書的・教会的・教義的前提」としたからである。アンセルムスにとってもそうであったが、しかし、アンセルムスは、アウグスティヌスとは違って、第一に、「存在的なラチオ性」としての第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに「教えられつつ語るのであって、われわれの理性に内在している神概念の再想起において創造しつつ神について語ろうとはしなかった」、それ故にアンセルムスは、第二に、主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」は、「啓示、恵み、信仰(≪主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」≫)を前提条件としていた」。「教義学的な合理主義を明確に否定している」アンセルムスは、キリストにあっての特別啓示、啓示の真理、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼し」たあの総体的構造、啓示神学、信仰の類比に立脚して、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」のである。
【注6】
ガウニロは、アンセルムスの神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ」という定式を、アンセルムスが「あたかも……『プロスロギオン』において、(≪存在的な≫)スベテノモノヨリモ偉大ナ何カと記述しているかのように(≪「絶えず」≫)理解し(≪「誤解」し≫)、また数多くの箇所でそのように(≪「誤解」したまま≫)引用し」論じた――(アンセルムス)「私ノ語ッタ言葉ノドコニモソノヨウナ論証ハ見イダセナイ。……私ガ言ッテイナイコトヲ言ッタトシテ非難スルノハ誤リデアル」(その非難は、根本的包括的な原理的な誤解・誤謬である)。したがって、ガウニロは、「この不注意さをもって」、「『プロスロギオン』の中で用いられているアンセルムスの定式(≪ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイモノ≫)」が、「『モノロギオン』においてアウグスティヌスに組みしつつ用いた定義と比べて」、「明確な内容を持っている」と同時に「別の内容を持っているということを見損なったのである」。ガウニロにとって、「『モノロギオン』の神概念は、最大、あるいは最高、あるいは最善のものと呼ばれた、『最大ニシテ最善ナアルモノ……、ソレハ存在スルスベテノモノノウチデ最高デナケレバナラナイ』、『最高ノ本性ノ実体ハ、……ソレガ何デアロウト、必然的ニ、ソレデナイヨリモソレデアルホウガ絶対的ニ善イモノデアル』、『神ハ、神デナイスベテノ本性ヲ超越シ、……人間ニ崇メラレ……ルベキ、アル実体』である」――「それは、文字通りにではないが、内容的には、ガウニロの(≪存在的な≫)スベテノモノヨリ偉大ナモノデアル」。アウグスティヌスも、次のように述べている――「アノ思惟ガ、ソレヨリヨキモノ、マタソレヨリ高貴ナモノガナイ何カヲ得ヨウトスル時ニ、神ニツイテ考エラレテイルノデアル」、それ故に「神は、考えられ得る最大のものである」。この時には、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、それ故にこの時には、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの」≫)神から発生した」ものである、それ故にまたこの時には、「この対象に即しても……『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」ものである。