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25の4.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

25の4.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。

 

「U 神の存在の証明」「B 証明の遂行 『プロスロギオン』二−四章注釈」「一 神の一般的な存在 『プロスロギオン』二章」
 このことは、あの総体的構造(下記の【注】を参照)を念頭に置いて語られていることであるが、ここで、「理解シタトイウコトハ、タトエソレガ存在スルコトヲ理解シタノデハナイニシテモ、彼ノ(≪主観的な≫)理解ノウチニアル」。この主観的な「理解ノウチニアル」は、「実在トシテ存在スルと明らかに対立するようになる」のであるが、「この表現」は、「理解……考えの中にある、考えられたものとしての対象(≪内在化された対象≫)、存在するとして考えられたもの(≪内在化された対象≫)である、ということを語っている」。「あの定式(≪神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」≫)の聞き手」は、その「定式でもって、愚カ者にとっても、(≪神の存在としての≫)何か」が、「誰かが、表示されているということと結びつける」。「したがって、愚カ者が、その定式について考える時」、彼は、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノとして表示されたもの」を、「存在するとして、対象として考える」。「逆に言うならば」、その時、その表示された「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノ」は、「彼によって対象として、存在するとして考えられたものである」。言い換えれば、それは、対象化された彼が思惟したものとしてのそれである。

 

【注】
 神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という<総体的構造>としてのそれである。
 「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるし(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」ではなくて、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」≫)である」(それ故に、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない)。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

 

(1)ガウニロが、アンセルムスの「あの定式(≪神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」≫)をただ単に理解することに基づいて、既に理解ノウチでの神の存在が生起するということであるというように明確に表現した時、アンセルムスを正しく理解していた」――「言ワレタコトヲ私ガ理解スルトイウダケノ理由カラ、ソレガ私ノ理解ノウチニスデニ存在スル(≪主観的な「理解ノウチニアルコト」、主観的な理解のうちに存在する≫)ト言ワレル」、「それに加えて、アンセルムス自身の再述、『私ハ、モシソレガ理解サレタナラ、ソレハ理解ノウチニアル(≪主観的な理解のうちに存在する≫)ト言ッタ』」。

 

(2)また、ガウニロが、アンセルムスが言おうとしたことは、……「神の存在を否定したり疑ったりする者も、いやそのような者こそが、(≪たとえそれが主観的な理解のうちに存在するということであるとしても、それ故に「実在トシテ存在スルと明らかに対立するようになる」としても≫)神を存在するとして理解ノウチニ『持つ』ということである解釈した時」、「正しくアンセルムスを解釈していた」――「……人がソレニツイテ語ルノヲ聞ク時、コノ本性ヲ否定スル者モ疑ウ者モ、ソノ言ワレタコトヲ理解スルカラ、スデニソレヲ彼ハ(≪対象化された彼が思惟したものとしてのそれを≫)理解ノウチニ持ッテイル」。

 

(3)アンセルムスは、「彼の命題」(神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」)を、(≪あの総体的構造を念頭に置いて≫)「ある人たちの理解が、神が存在を持っている(ある人たちの理解)があるという確認でもって十分である」と解釈した、換言すればあの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「啓示の真理」としての「啓示ないし和解の実在」そのものであり・第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)を念頭に置いて、「……ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノガ、モシ誰カノ理解ノウチニアルナラ……」「という確認でもって十分である」と解釈した(バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、あの総体的構造に基づいた「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」ということであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるし」であると述べている)。「教義学的な合理主義を明確に否定」し啓示神学に立脚したアンセルムスは、「この確認を、……(≪神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいて≫)必然的に、まことに存在するとして証明されたことが、もしかして誰の理解のうちにも存在しないのであろうかという問いでもって基礎づける」。何故ならば、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、その現にあるがままの現実的な人間は、「神に敵対し神に服従しない」し、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」し、生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした禅的修行等々≫)によっては』全く信じることができない」し、生来的な自然的な人間の身体・肉体と精神・意識を介した、普遍的で実践的な全自然(自己身体、性としての他者身体、人間化された自然としての人間的自然を含めた宇宙・天然自然としての外界)との相互規定的な対象的活動によっては、その自然史的成果とそこから疎外された観念諸形態によっては、「全く信じることができない」からである。したがって、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストが「人間によって信じられる……出来事」(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)は、徹頭徹尾われわれ「人間自身の業」ではなく、「神の言葉自身の業」(起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動の業)――すなわちあの総体的構造における客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」(客観的な「存在的な必然性」)とその啓示の出来事の中での主観的側面としてのキリストの霊である「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な必然性」)に基づいている。このような訳で、アンセルムスは、「実在ノ真理ノウチニ必然的ニ存在スルト立証サレタモノモ、ドノヨウナ理解ノウチニモナイノダロウカ」と問う。

 

 しかし、そこで「前提されているところのもの」は、ここではまだあの総体的構造が明確に提起されているわけではないので、「当然のことながら、ただ存在証明が企てられることであって、存在証明が首尾よく成功するということではない」。「ある人たちにとって、ただその(まことの)存在の証明の対象でだけでもあり得るところのもの」は、「その人たちの理解のうちに、既に(問題となる)存在を持っていなければならない。しかし、そのような人たちは、……比喩が示しているように……存在する。ソレユエ、神ハ(≪まだ明確に提起されているわけではないが、神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいて≫)誰カノ理解ノウチニアル」。この命題は、次のことを喚起させる――教会の宣教における思惟と語り、その一つの補助的機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」の態度≫)に対し神が応じて下さる(≪「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」ということを喚起させる。この「神ハ誰カノ理解ノウチニアル」という「命題は、アンセルムスがそれでもって言おうとしていることにとって、十分なものである」。

 

(4)前述した(3)における「問いと直接関連」させつつ、アンセルムスは、「対話の相手が、(≪主観的な≫)理解ノウチデ神ガ存在スルコトを確かにある意味で承認するが、しかし、この神ガ(≪客観的に≫)存在スルコトを理解スルコトを疑うということ」を、「想定する」――「シカシ、貴君ハタトエソレガ(≪主観的な≫)理解ノウチニアッタトシテモ、(≪客観的に存在する≫)ソレガ理解サレタトイウ結論ニナラナイト言ウ」。ここで、アンセルムスは、「この理解スルコトの問いに立ち入らない」で、彼の「神の名(≪「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」≫)の中で語られている禁止命令」に同意するという意味での「聞クトコロノコト」を「理解スルコトから理解ノウチデの存在を推論することの首尾一貫性を示す」――「理解サレタという事実カラ、ソレガ理解ニウチニアルトイウ結論ガ出ルコトヲ貴君ハ学ブベキダ」。

 

 アンセルムスは、「次のことを既知であり、承認されているとして前提する」。それは、第一に、「考えの出来事の中で、考エルコトのおかげで、考えられたことの表出(≪心的過程≫)が生起する」、換言すれば言語を介在させたところの、対象に対する自己関係づけの意識、対象を空間化する意識、その空間化の度合いと、「対象に対する自己抽象づけの意識」、対象を時間化する(了解する)意識、その時間化(了解化)の度合いとの構造としての表出(心的過程)が生起する。「それであるから、この出来事の中で、この行為のおかげで、考えられたものについて」は、「この出来事の中で、この出来事と共に、そこにある(est in cogitatione考エノウチアル)ということが言われるべきである」――「チョウド考エラレタモノハ思考ニヨッテ考エラレタヨウニ、マタ思考ニヨッテ考エラレタモノハ考エラレタモノトシテ思考ノウチニアルヨウニ、理解サレタモノハ理解ニヨッテ理解サレ、理解ニヨッテ理解サレタモノハ理解サレタモノトシテ理解ノウチニアル。コレ以上ノ明確ナコトガアロウカ」。また、それは、第二に、「理解は考エの特別な形式である。そして、理解スルコトは考エルコトの特別な形式である」。したがって、ここでも、アンセルムスの「神の名(≪「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」≫)の中で語られている禁止命令」に同意するという意味での「聞クトコロノコト」を「理解スルコトから理解ノウチデの存在を推論する」という「規則が、……適用されるべきである」。「これらの前提から」、「何かが理解されるところ」、「例えば、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノによって表示された対象が理解されるところ」、「そこでは理解スルコトの力によって、理解の出来事の中で」、「その対象の表現が生起する」、換言すればその対象についての言語を介在させた自己意識における対自的意識と対他的意識との構造としてある「理解ノウチニアル対象」の意識(現実の意識)の外化である「表現」(心的過程としての「表出」の外化、外化された「表出」)が生起する。「それであるから、この対象について、それは、この出来事の中で、この出来事と共に、そこにある(est in intellectu理解ノウチニアル)ということが言われるべきである」。

 

 「人は、まさにこのところで、われわれの『プロスロギオン』の箇所そのものの中でなされている」、「タトエソレガ(≪徹頭徹尾あの総体的構造に基づいたものではない限り、≫)存在スルコトヲ理解シタノデナイニシテモという留保をはっきりと念頭に置いていなければならない」。何故ならば、前述した第一と第二の出来事は、あの総体的構造に基づいていないが故に、それが、「表現された対象の精神の外での存在についての欺瞞の出来事でないかどうかについて決定されていない」からである。したがって、この出来事の中においては、その「対象そのものの表現が生起しており」、換言すればその対象についての言語を介在させた自己意識における対自的意識と対他的意識との構造としてある「理解ノウチニアル対象」の現実の意識の外化である「表現」が生起しており、それ故に「そのものの心のうちでの存在(≪その心的な表出過程における存在≫)が主張されるべきである」。

 

(5)啓示神学に立脚しない、それ故にあの総体的構造を念頭に置くことをしない、それ故にまたあの総体的構造における三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としないガウニロの「最初の異議の申し立て」は、「アンセルムスによって意図された意味において」、「まことに存在する対象とまことに存在するわけではない対象に対して、同じ権利をもって存在が帰せられている」という点にある――「トナルト、ドノヨウニ虚偽ナ、シカモソレ自身デハドノヨウナ形デモ存在シテイナイモノモ、人ガソレニツイテ語タリ、私ガソノ人ノ言ウコトヲ何デモ理解スルナラ、同ジク私ノ理解ノウチニアルト言エルノデハナイカ」、「この『理解ノウチニアル』は、『虚偽ナアルイハ疑ワシイモノサエモ思考ノウチニ存在シ得ルヨウナ場合ト同ジ仕方デ』遂行される」という異議申し立てにある。「それに対する(≪あの総体的構造を念頭に置いた≫)アンセルムスの答え」は、「証明されるべき命題、神は、(理解ノウチニモマタ)実在トシテモ存在スルという命題は、まさに先ず第一に、一般的な解明されていない多義的な形式、神ハ理解ノウチニ存在スルということの中で保証されるべきあった」という点にある。「その命題が、この形式の中で制限的に(タダ理解ノウチデダケ)解釈されるべきか、それとも包括的に(理解ノウチニモマタ実在トシテモというように)解釈されるべきであるか」、それ故に「疑ワシイモノは実際にはイツワリノモノかそれともマコトノモノかということは、(≪あの総体的構造を明確に提起することによって≫)これからはじめて示されなければならなかった」という点にある。

 

 ガウニロの異議申し立て――「疑ワシイ点ヲ論証スルコトヲ望ンデイタ私ニ対シ、何ヲココデ貴君ハ考エテイルノカ私ニハ分カラナイ。私ニハ、マズアノモノガ何ラカノ形デ理解サレマタ理解ノウチニアルコトヲ立証スルダケデ充分デアッタ。ソノ結果、誤謬トシテ、理解ノウチニノミ存在スルノカ、アルイハ真ナルモノトシテ、実在トシテモ存在スルノカガ推察サレルカラデアル」、「モシ誤謬アルイハ疑ワシイコトガ、ソレラガ語ラレルノヲ聞イタ人ガ話シ手ノ言オウトスルコトヲ理解スルトイウ意味デ、理解サレマタ理解ノウチニアルトイウナラ、私ノ言ッタコトガ理解サレ、マタ理解ノウチニアッテイケイナイ理由ハナイ」。この一般的啓示、自然神学に立脚したガウニロに対して、キリストにあっての特別啓示、啓示神学に立脚したアンセルムスの「定式(≪神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」≫)でもって表示されたもののまことの存在の理解」は、「当然のことながら、……一般的な理解ではなく、特別な理解である」。「その定式が、『まこと』の対象を表示しているのか、それとも『いつわり』の対象を表示しているかということ」は、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として「決定されなければならない」が、しかし、ガウニロの「『ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノ』トイウコトヲ聞イテ理解スル者ノ理解ノウチニ存在スルという前提に対する異議申し立て」は、「われわれの『プロスロギオン』の箇所で、アンセルムス自身によって提示されている留保を通してあらかじめ片づけられていると言わなければならない」――「タトエ誤謬モ何ラカノ形デ理解サレ、マタコノ定義ハ、スベテノ理解ニハ当タラズ、アル種ノ理解ニノミ該当スルトシテモ、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノハ、ソレガ実在トシテ存在スルコトガ確実トナル以前モ理解サレ、マタ理解ノウチニアルト私ガ言ッタコトニツイテ、私ガ非難ヲ受ケ得ル理由ハナカッタノデアル」。