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25の3.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

25の3.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。

 

「U 神の存在の証明」「B 証明の遂行 『プロスロギオン』二−四章注釈」「一 神の一般的な存在 『プロスロギオン』二章」
 「シカシ、コノ愚カ者自身(下記の【注1】を参照)ハ、私ガ語ルトコロノ、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カトイウコトヲ聞ク時、モチロンソノ聞イタコトヲ理解スル」。ここで、「人は、まず第一に、……決定的な前提、『神』は、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カと称する……際の形」、「私が語ルトコロノ、……コトヲ聞ク時、ということに注意せよ」。イエス・キリストにおける神の自己啓示(下記の【注2】を参照)からして、アンセルムスは、第二の問題である神の本質の問題を先行させるのではなく、第一の問題としての神の存在の問題を先行させて、「対話している議論の相手(あるいは哲学者としてのその性質の中での自分自身――下記の【注3】を参照)と神認識の共通な最小限度についての了解を得ようなどとは、ましてやかれが対話相手自身の地盤にこちらから出かけて行こうなどとは思っていない」のであって、「彼自身が、前もって、語られるべき『神』は誰であるか」を「語り、ほかの者は聞かなければならない」という討議の基盤(「神のの定義」――すなわち「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」)に立っている」のである。「教義学的な合理主義を明確に否定」し啓示神学に立脚したアンセルムスは、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、第一の問題としての神の存在の問題を先行させて、あの<総体的構造>(下記の【注4】を参照)を明確に提起しようとしているのである。「問題の定式化〔問題を明確に提起すること〕は、その問題の解決である」(マルクス『ユダヤ人問題によせて』)。「教義学的な合理主義を明確に否定」し「啓示神学」に立脚したアンセルムスの「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」は、それを「一般的な(≪知的成果としての≫)思考財と語彙の一要素として受け取る」「十三世紀のあれらのスコラ学者(≪「自然神学」者≫)たちの見解」とは違っていた(下記の【注5】を参照)。「このまさに自明的でないやり方」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、先行させるべき第一の問題としての「神の存在に関するほかの啓示命題を理解しようとする企てが、意味深い仕方で着手されるべき時に」、「討議の基盤」、「神のの定義(≪「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」≫)を、(宣べ伝えられたとして前提されなければならない)信仰命題ないしは啓示命題として把握した時に」、「分明なものとなる」。「この討議の基盤に対する異議申し立ての可能性」は、アンセルムスの「信仰への訴えでもって撃退される」――「モシ、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノガ理解サレズ、アルイハ考エラレナイ……ナラ、実ニ神ハ、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノデハナイ……コトニナル。シカシ、コレガドレホド誤ッタコトカ、ソノ最モ確固トシタ論拠トシテ、私ハ貴君ノ信仰……ニ訴エタイ」。「したがって、既に、この討議の開始が、愚カ者に対して向けられた、信仰への呼び出しである」。「神の名」――すなわち「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」は、「愚カ者にとって新しいものであり得るであろう」。「この名」は、神の側の真実としてあるあの総体的構造を持っているから、「キリストヲ宣ベ伝エル者タチノ言葉として」、「愚カ者」を、「その上では彼は愚カ者として引き続き考えず、それから確かにほかの結果をともなって考え続けるであろう地盤の上に置く力を持つことができるであろう」。しかし、「ワタシハ語ル(dico)の資格づけられた意味と、それに対応して、資格づけられた愚カ者ハ聞ク(audit)の可能性は、潜在的なものであり続ける」(下記の【注6】を参照)。

 

【注1】
 「『プロスロギオン』三章の終りに出てくる……愚鈍デ愚カ者」の「愚かなゆえん」は、「その同じ章によれば、……(≪神とは全く異なる≫)被造物としての自分自身を創造者の上におくことを意に介さない(≪「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持っていない≫)ということから成り立っている」。「愚鈍デ愚カ者」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、第一の問題としての神の存在を問う問い(神の存在の問題)を先行させないところで、第二の問題としての神の本質を問う問い(神の本質の問題)を考える者であるが、しかし彼は、第二の問題としての神の本質を問う問い(神の本質の問題)を「理解シテイル者ではない」――すなわち、「神ガ何デアルカヲ理解シテイル者ではない」。「それだからこそ、彼は、制限、無教養からしてではなく、神は存在シナイと考えることができる」者である。

 

【注2】
 イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある。Tコリント13・8以下)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。

 

【注3】
 何故ならば、生来的な自然的な人間――その「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」からである。したがって、哲学者は、この観念(知識)の自然性としてある自然過程を観念的知的に上昇し、概念構成の高度化を目指す者である。

 

【注4】
 神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造としてのそれである
 「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるし(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」ではなくて、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」≫)である」(それ故に、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない)。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

 

【注5】
 われわれは、自己自身である神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊)における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉であり、「啓示ないし和解の実在」であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「ただイエス・キリストの名だけ」)という「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派、教派、思想傾向、主義等々≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」――この自らの立場において、「啓示神学」に立脚したバルトは、一切の「自然神学」、一切の党派性、党派的思想、党派主義を包括し止揚し超えて行ったのである。人間学的領域においては、詩人であり、文芸批評家であり、思想家である吉本隆明は、『思想の基準をめぐって』で、「対立する双方に真理があるというような俗説(≪多元論、多元主義も党派的思想、党派主義的思想である≫)が、世界史的に流布され、流通している」中で、「自らの立場」において、両者を「包括し止揚しなければならないということが思想的な問題である」と述べている。何故ならば、神学領域におけるそれであれ、人間学的領域のそれであれ、「思想は、物質ではなく外化された(≪表現された≫)観念である」からである。その「観念の運動は観念によってしか埋葬」されないから、「甲の観念は、乙の観念がそれを包括し、止揚することによってしか」、「いいかえれば甲の観念を生かして袋に入れることによってしか」、すなわち乙の観念が甲の観念を否定的に媒介することによってしか、「滅びないからである」(『カール・マルクス』)。「『今日まさにこのマールブルク(≪「自然神学」者としてのブルトマン、ブルトマン学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、≫)『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」(『ハイデッガーの思想』)とハイデッガーが「揶揄」・批判した時、それが、客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的なそれであるが故に、ハイデッガーは、これだけの思惟と語りで、客観的な正当性と妥当性とをもって、根本的包括的に原理的に、「自然神学」者としてのブルトマン(ブルトマン学派)の観念(神学)を埋葬したのである。「教義学的な合理主義を明確に否定」し、啓示神学に立脚したアンセルムスは、総括的に言えば自然神学に立脚する「対話している議論の相手と神認識の共通な最小限度についての了解を得よう」とか、「ましてや彼が対話相手自身の地盤にこちらから出かけて行こうなど」とかは考えないのであって、「教義学的な合理主義を明確に否定」し「啓示神学」に立脚するという「自らの立場」において、客観的な正当性と妥当性とをもって、根本的包括的に原理的に、議論の相手の観念(知識、神学)を包括し止揚して行くことを目指したのである。何故ならば、「教義学的な合理主義を明確に否定」し「啓示神学」に立脚したアンセルムスが「自然神学」に立脚する議論の相手との最小・最低限度の相互承認・相互了解を得るとか、「啓示神学」に立脚したアンセルムスが「自然神学」に立脚する議論の相手の地盤にこちらから出かけて行くということによっては、アンセルムスは、「自然神学」に立脚する議論の相手の観念を包括し止揚することはできないからである、埋葬することはできないからである。

 

【注6】
 イエス・キリストにおける神の自己啓示は、神の側の真実としてあるあの総体的構造を持っているから、われわれは、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない」。すなわち、われわれが、「そうした人々に呼びかけることができるのは、「私がその人をその中に置くことによってではなく」、「イエス・キリストがすでにその人をその中に(≪あの総体的構造の中に≫)置いてい給うことによってである」。したがって、われわれは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」(『証人としてのキリスト者』)。

 

 さて、「ワタシハ語ル」は、「明示的には、ただ私はこの定式的表現(≪「『神』は、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」≫)を語るということ」を、また「愚カ者は聞く」は、「彼はその定式を身体的(≪知覚的に≫)に聞き」、「そして、そのようにアンセルムス自身は後で解釈したのだが」、「愚カ者」が、「その定式を言語的および論理的に理解する(≪その定式の明確な概念構成をなす≫)ということを意味している」――「自分の知ッテイル言語デ語ラレテモ理解シナイ人ハ、明ラカニ知性ヲ欠イテイルカ、極度ニ愚鈍ナ知性シカ持ッテイナイカノドチラカデアル」。したがって、「そのように、アンセルムスは、引き続いて語るのであるが」、「愚カ者」がそのような水準で「聞クが前提されている時」、「彼ハ、ソノ聞イタコトヲ理解スルということが主張されてよい」。「心のうちで神の存在を否定する愚カ者」は、「この定式を聞く時、それについて熟慮し、それをその言葉の意味において」、すなわち「神は、それより偉大なものを考えることを禁じる禁止命令の中でご自分を明示される方であるということを、自分で考えることを回避することはできない」。アンセルムスは、「この定式の本文を繰り返すことができ、またこの定式の語義についての彼の理解の前提のもとで、そのように表示された神の存在を否定することができるということを念頭に置いており、考慮に入れている」。アンセルムスは、「愚カ者に対して」、「愚カ者」が、「神の名(「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」)を否定すること……ができないということについて言質を取るのである」――「誰カガ、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイアルモノガ存在シナイト言ウホド愚カデアッタトシテモ、自分ノ言ッテイルコトヲ理解シマタ考エルコトガ出来ナイト言ウホド恥知ラズデハナカロウ。シカシ、モシソノヨウナ人ガイルナラ、彼ノ言葉ニ信用ヲ置ケナイドコロカ、彼自身モ軽蔑ニ値スル。トイウワケデ、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイアルモノガ存在スルコトヲ否定スル者ハ、誰デモ、ソノ否定ヲ確カニ理解シマタ考エテイル。シカシ、否定ヲ理解シマタ考エルコトハ、コノ否定ヲ構成スル諸要素ヲ除外シテハ不可能デアル。ソシテ、ソノ一要素ガ、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイデアル。ソコデ、コレヲ否定スル者ハ誰デモ、ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイヲ理解シマタ考エテイル」。「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイアルモノガ(≪客観的に≫)存在シナイト言ウホド愚カデアッタトシテモ」、神の存在、「神の名」、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」を、その主観的な思惟において否定する者は、それを主観的な思惟の対象として持っていなければそれを否定することはできないから、すなわちある認識水準においてそれを「理解シマタ考エテイル」のでなければ否定することはできないから、それ故にその時否定されたものは、客観的な神の存在、「神の名」、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイアルモノ」ではなくて、主観的な思惟によって「理解シマタ考エ」られ認識されたそれである。このような訳で、「述べられている神の名」は、「理解できない音声ではなく、理解し得る音声である」。このような訳で、アンセルムスの「神の名(≪「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」≫)の中で語られている禁止命令」は、「神という言葉」を、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カという定式を通して解釈することに同意する」ことを「命じている」それなのである。

 

 アンセルムスは、第一に「語ルコト」、第二に「聞クコト」、第三に「理解スルコト」、第四に「今や全く新しい方向を指し示す……理解ノウチニアルコト」の確定をなす。「……ソシテ、理解シタコトハ、タトエソレガ存在スルコトヲ理解シタノデハナイニシテモ、彼ノ(≪主観的な≫)理解ノウチニアル」。この主観的な「理解ノウチニアル」は、「実在トシテ存在スルと明らかに対立するようになる」のであるが、「ガウニロとの議論における(≪主観的な≫)『思考ノウチニアル』ということと同じ意味のものとして現れてくる」。すなわち「この表現」は、「理解……考えの中にある、考えられたものとしての対象(≪内在化された対象≫)、存在するとして考えられたもの(≪内在化された対象≫)である、ということを語っている」。「あの定式(≪神の存在としての「神の名の定義」――すなわち、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カ」≫)の聞き手」は、その「定式でもって、愚カ者にとっても、(≪神の存在としての≫)何か」が、すなわち「かが表示されているということと結びつける」。その「定式」は、「愚カ者に対して、確かにの定式として、神(Deus)という用語の書き換えたもの……として語られている」。「したがって、愚カ者が、その定式について考える時」、彼は、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノとして表示されたもの」を、「存在するとして、対象として考える」。「逆に言うならば」、その時、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノ」は、「彼によって対象として、存在するとして考えられたものである」。言い換えれば、それは、対象化された彼が思惟したものとしてのそれである――「自分ノ理解ノウチニ何カアルモノガアルトイウコトハ、ソノモノガ私ノ理解ノ働キノ対象ニナッテイルトイウコトニスギナイ」、また「自分ノ理解ノウチニアルモノガ存在シテイルト考エル場合、ソノモノハ自分ノ理解ノウチニ、ソノ存在ヲモツトイウコトデアル」。この「私ノ理解ノウチニアルモノハ、(≪神の側の真実としてあるあの総体的構造を持っているイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、≫)写シデモナケレバ、イメージデモナク、描カレタモノ、アルイハ象徴デモナク、存在シテイルモノソノモノデアル。その時、「『理解ノウチニアル』という言葉ノ意味ハ、理解シヨウトスル意図ノ対象デアルトイウコトデアル。換言スレバ、意図的ナ存在デアルトイウコトデアル」。このことは、神の側の真実としてあるあの総体的構造を持っているイエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「『たとえそれが存在することを理解したのではないにしても』」、「ソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイモノ」の、「ただ単に考えの中だけでない存在の考え」を、「ただ単に遂行しないだけでなく、むしろ愚カ者としてまさに否定する時でも」、「実際のことである」。