カール・バルト(その生涯と神学の総体像)を理解するためのサイト

23の2.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

23の2.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。

 

「U 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「一 神の名」
 われわれは、先ず以て、この「神の名の前提は、(≪「教義学的な合理主義を明確に否定している」アンセルムスにおいては、≫)疑いもなく、厳密に(≪啓示≫)神学的な性格を持っているということ」を、「確認しなければならない」。したがって、「ソレヨリ偉大ナモノハ何モ考エ得ラレナイ何カ」(この「ヨリ偉大ナ」は、「ヨリ善イと表現されることもできる」し、「ドイツ語ではそれより偉大なものが考えられ得ない何かと書きかえられるべきである」)という「この定式が導入される際の導入のされ方」に、すなわちこの定式が導入される際の「ソシテ、実際、アナタガソレヨリ偉大ナモノガ何モ考エラレ得ナイ何カデアルコトヲ、私タチハ信ジテイマス」という導入のされ方に、「人はよく注意せよ」。

 

 「ガウニロは、信じるキリスト者として、大変よく、誰が、ソレヨリ偉大ナモノハ考エラレ得ナイものであるかを知っている」。「それとまた、アンセルムスが、『プロスロギオン』の序文で、この概念の発見に関してなした顕著な報告」、すなわち彼は「シバシバ真剣ニそれを探し求めた」が「遂には彼はそれを尋ね求めての探究を、不可能な企てとして放棄した」し、「もはやそのようなことを考えまいと決心した」が、「しかし、まさにそれと共に、考え」(その概念の思惟・探究)が、「彼にいよいよ頻りに迫ってきはじめた」という報告のことが「比較されるべきである」。言い換えれば、向こう側から、あの「存在的な必然性」と「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とする「存在的なラチオ性」と「認識的なラチオ性」という総体的構造の側から「彼にいよいよ頻りに迫ってきはじめた」ということが「比較されるべきである」――「ソノヨウナアル日ノコト、コノ執拗サニ激シク抵抗シ、疲労困憊ノ極ニアッタ私ノ心ニ、群ラガル思念ノ交錯ノウチカラ、ソノ発見ヲ絶望シテイタアノ論証ガ現ワレタノデアル。努メテシリゾケルヨウニシテキタ思惟デアッタガ、ソレヲ私ハ熱心ニ迎エ入レタ」。この出来事は、「学問的な研究報告なのか、それともむしろ……おそらくはまさに典型的な……預言者的な照明の経験についての報告ではないのか」。何故ならば、その時、アンセルムスは、「神のこの表示を拘束力のない神学問題とは考えなかった」し、「神についての一般的な人間的な知識の構成要素とはみなさなかった」からである、すなわち「むしろ彼は、それを信仰命題とみなした」からである。アンセルムスが、「神に対して一つの名を帰す時」、「彼は、そのことを、……何かある一つの別な存在について一つの概念を形成するある一つの存在としてしているのではなく」(自己意識・理性・思惟の類的機能によって「存在者レベルでの神」を客体化することができる人間存在を先行させてしているのではなくて)、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下にあるキリスト者として、自分に先行する「自分の創造者の前に立っている被造物(≪神としての神とは全く異なる被造物≫)としてしている」のである。「この神の啓示によれば、現実の神(≪イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された現実の神≫)との関係の中で思惟しつつ、彼は、自分が、あの禁止命令の下に置かれているのを認識し」、それ故にアンセルムスにおいては、「信仰によって排除されている愚かしいことに陥ることなしには」、すなわち「あのより偉大なものを考えようと欲することによって、自分を神の上におくという愚かしいことに陥ることなしには」、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された現実の「神の上方にあるより偉大のものを、つまりもっと善ものを考えることはできないのである」――「ナゼナラ、アル精神ガアナタヨリヨイ何カヲ考エ得ルナラ、被造物ガ創造者ヨリモ優位ニ立チ、創造者ヲ審クコトニナリ、コレハ甚ダ愚カシイコトダカラデス」(「アンセルムスがまさにこのところで、例外的に『ヨリ大キイmaius』の代りに『ヨリ善イmelius』を用いていることは、おそらく偶然ではないであろう」)。

 

 「ただ見かけだけ、彼によって形造られた概念が、すなわちソレヨリ偉大ナモノハ考エ得ラレナイモノが、彼にとって、実際に、啓示された神の名である」。「ローマのエギディウスのところで」、「神ガ存在スルコトヲ証明スルトハ神トイウコノ名ニヨッテ提示サレルモノガ何デアルノカヲ説キ示スコトデアル」という「アンセルムスの意図を最も正確に描写しているであろう命題が見出される」。しかし、エギディウスが、「ソレハ、コノコトヲ証明スルアラユル論証カラ明ラカデアル」と述べた時、その命題は、「あれら『すべての』証明の意味での名ということで、神ノ神格ノ名ではなく」、すなわちイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたところの、その外在的な「失われない差異性」の中での三度別様の三つの存在の仕方(性質・業・働き・行為・行動)である父――啓示者・言葉の語り手・創造者、子――啓示・語り手の言葉(起源的な第一の形態の神の言葉)・和解者、聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体ではなく、「神の本質のことを言おうとしていたことが明らかでなってくる」から、すなわちその内在的本質である「失われない単一性」・神性・永遠性のことを「言おうとしていたことが明らかでなってくる」から、その命題は、神の本質の単一性と区別(差異)を明確に提起でき得ていない水準のものなのである。「ボナヴィェントゥとトマスにおいても事情はそうである」。しかし、「アンセルムス自身においては、神格ノ名(≪前述した前者の神格ノ名≫)の意味を持っており、またそのような役割を果たしているのである」。イエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現は、その外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方である「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、その現実存在において、その聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示である。言い換えれば、客観的な「存在的な必然性」と主観的な「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」という総体的構造は、そのような認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求するのである。

 

 そのような訳で、われわれは、アンセルムスにおいては、「神の存在の証明に足を踏み入れる時にこそ、終始、そして正確に、その(≪啓示≫)神学的なプログラムの遂行に従事しているということを見る」。アンセルムスにとっては、「自明のことながら、神の存在も、前もって与えられている信仰命題である。この信じられた神の存在が、今や、同じように、信じられた神の名の前提のもとで(下記の【注1】を参照)、認識され、証明され、必然的に考えられるべきものとして理解されなければならない」。「その際、神の名は、今度は」、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義としての「Credoからとられたa……を手段として、xとしておかれた神の存在が、今や、未知なもの(信じられていないのではないが、しかし理解されていないもの)から知られたものに変えられるべきであるaである」(下記の【注2】を参照)。

 

【注1】神の存在の証明を、「特にトマス・アクィナスがふんだんになしたように、『神ガ存在スルカ否カハ、ソレ自体デ知ラレルノカ』に対する答えとして把握するならば、人は、アンセルムスの証明の決定的な前提の啓示神学的な性格へのアンセルムスの指し示しを看過したことになる」。啓示神学的な性格を持つアンセルムスの「神学においては、『ソレ自体デ知ラレ』はなく、信仰の前兆(Vorzeichen)のもとに立っていない洞察はない」。言い換えれば、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、客観的な「存在的な必然性」とその主観的側面としての主観的な「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわちそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)という総体的構造のもとに立っていない洞察はない。

 

【注2】「既に神の存在の概念を定義するのに欠くことができない信じられた神の本質は(≪その単一性と区別・差異は≫)、確かにbとして考察の中に入ってき、Credoのさらに引き続いての点は、c、d、e……として、多かれ少なかれ、明らかにその背後に立つことができる」。このことは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会における個体的自己の信仰的神学的成果(終末論的限界の下での、それ故に途上的な深化と豊富化)の世代的総和、その時間累積(歴史性)を意味している。『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、そのことは、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っているということであり、われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるしである」ということである。したがって、バルトは、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を、それ故に具体的にはそのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする立場において(啓示神学的立場において)、「聖書釈義と絶えず接触を保ちつつ、また(≪第三の形態の神の言葉である全く人間的な≫)教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を批判的に比較しつつ、その時時の現在における教会の表現・概念・命題・思惟行程の包括的研究において(≪教会の古今の注解者・説教家・教師の発言を否定的にあるいは肯定的に媒介・反復するという仕方で≫)『教義そのもの』を尋ね求めた」のである(『啓示・教会・神学』)。人間の類の時間性としての「歴史とは個々の世代(≪個体的自己の成果の世代的総和≫)の継起にほかならず、これら世代のいずれもがこれに先行するすべての世代からゆずられた(≪経済的範疇としての≫)材料、資本、生産力(≪あるいは、言語および性・夫婦・家族≫)を利用(≪媒介・反復≫)する」(マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』)。キリスト教に固有な類と歴史性の関係もそうである。ただ、キリスト教に固有なそれは、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)として現存している。

 

 「神ガ何デアルカヲ理解シテイル者ナラ、神ハ存在シナイト考エ得ナイ」。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の<客観的>な信仰告白および教義としての「Credoのこの点からして、もう一つの別な点が信じるに値するものとされるのではないが……洞察しうるものとされなければならない。まさにこの点の選択、まさにこの神の名の発見が、アンセルムスによって証明をなしてゆくために進み行かれるべき道の上での最初の一歩であった」。われわれは、「この最初の一歩」が、われわれを、「いずれにしても、特別に(≪啓示≫)神学的な思惟に結びつけられている拘束性……の中へと導き入れる」ということを「確認する」。したがって、われわれは、「この問いにおいて認識を可能にしているように見えたあの具体的な拘束を選びとるという選択をなす」。啓示神学的な性格を持つ「この最初の一歩」は、客観的な「存在的な必然性」とその主観的側面としての主観的な「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を選びとるという選択をなす。何故ならば、もしもそういう選択をしないならば、その時、その「神の名」は、その最初から恣意的独断的なそれであって(すなわち、人間的理性や人間的欲求やが恣意的独断的に対象化し客体化したに過ぎない「存在者レベルでの神」の名)であって、その最初から「誤謬は必然」であるからである。