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23の1.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

23の1.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。

 

「U 神の存在の証明」「A 証明の諸前提」「一 神の名」
 「教義学的な合理主義を明確に否定している」アンセルムスは、「『プロスロギオン』二−四章において、(中略)『神は存在する』という言明が必然的である(換言すれば、『神は存在しない』という言明が不可能である)」「神の一つの名を前提することによって、神の存在を証明する」。言い換えれば、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、すなわち客観的な「存在的な必然性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と主観的な「認識的な必然性」としてのその「啓示の出来事」の中での主観的側面である「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」を前提条件としたそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)としての「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性」(聖霊自身ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)という「厳密に(≪啓示≫)神学的な性格を持っている」「神の一つの名を前提することによって、神の存在を証明する」。彼は、その「神の名」の「理解からして、『神は完全であり、本源的に知恵に富み、力強く、正しくあり給う』等々という言明が必然的である(換言すれば、すべてのそれに反対の言明が不可能である)神の名の前提のもとで」、「『プロスロギオン』五−二六章において、「神の本質を(換言すれば、神の完全性と独一無比な本源性を)証明しようとする」。したがって、この「『プロスロギオン』の二つの部分の探究における共通の論拠は、前提された神の名……である」――「コノ表現ノ意味ニ(すなわち、まさに前提された神の名に)内在シテイル力ハ、ソノ言ワレタコトガ理解サレ、アルイハ考エラレタトイウ事実ヲモッテ、ソレガ実体トシテ存在シまた神的実体ニツイテ信ズベキコトノスベテデアルコトガ、必然的ニ証明サレルホドノモノデアル」。

 

 この「神の名」は、「『プロスロギオン』二章の初めのところで、……はじめて現れる」のであるが、そこでは、「『ソレヨリモ偉大ナモノハ何モ考エラレ得ナイ何カ』という言葉で描写されている」。この「定式は、『プロスロギオン』そのものとガウニロに反対する書物の中で、可動的なものである」が、この「定式の理解のためには、ただ」、「maius〔ヨリ偉大ナ〕の代りにまたmelius〔ヨリ善イ〕と表現されることもできる変形だけが重要である」。この「定式の語義」は、「ドイツ語では、……『それより偉大なものが考えられ得ない何か』」と「書きかえられるべきである」。「その際、『偉大な』は、その変形であるヨリ善イと、定式の用法全体が教えているように、全く一般的に表示されている対象のすべての性質あるいは状態の高度な程度を述べている。したがって、場所と時間との関係におけるその『偉大さ』も、その精神的な諸性質の偉大さも、その力強さの偉大さも、その内的および外的な価値の偉大さも、最後にそのあり得る存在の在り方も表示している」。その何かは、「全く一般的に、その何かに立ちまさったものである」、「確定的な意味として」は、「そのものに対して、より高い存在の仕方の中で存在しているもの」である。この語義を理解するためには、「この名が語っていないところのこと」、すなわち「この名」は、神は、「人間が現実的に考えるところの最高のもの」・「それを超えたその上に、それからもっと高いものを人間が考えることができない最高のものであるということを語っていない」ということが、また神は、「人間が考えることができる最高のものであるということを語っていない」ということが「よく注意されなければならない」(下記の【注】を参照)。したがって、この「神の名」は、「それによって表示されている対象」は、「人間がそれを実際に考えるということに、あるいはまた、ただ考えることができるということだけにも、全く依存していないように見えるといった具合に選ばれている」。「この定式が、対象について語っていることは、徹頭徹尾、一つのこと」、「すなわちその対象よりももっと偉大なものは考えられない」ということである。ここにおいては、アンセルムスが「神の概念として表示している厳格に認識的な内容の一つの概念が問題である」。その「概念は、神は存在するということ……また神はであるかということを語ってはいない」、すなわち「人間によって聞かれた禁止命令の形で、神はであるかということを語っている」。

 

【注】神の完全な自由は、「自己自身である神の自由」、すなわち自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の自由としての「自存性の概念」(神の自由の概念の積極的側面)と「神とは異なるもの(≪具体的には、われわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求や≫)によって為されるすべての条件づけからの神の自由」、すなわちわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(働き・業・行為)におけるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の完全に自由な愛の行為の出来事全体としての「独立性の概念」(神の自由の概念の消極的側面)との全体性・総体性において定義されなければならない。何故ならば、例えば「世界に対する神の関係」としての「神の創造と和解の概念」と「神の全能、遍在、永遠性の概念」は、「神とは異なるもの(≪具体的には、われわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求や≫)によって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念」(自由の概念の消極的側面)に「言及することとなしに、把握し、展開することはできない」からである。しかし、イエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方(働き・業・行為)において三度別様に父、子、聖霊なる神であるから、「神とは異なるもの(≪具体的には、われわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求や≫)によって為されるすべての条件づけからの神の自由」は、「ただ外に向かっての神の行為の本来的な積極性(≪独立性としての神の自由≫)であるばかりでなく」、「また、神ご自身の内的な本質の本来的な積極性(≪自存性としての神の自由≫)である」という「認識の下で起こる時にだけ、正しい仕方で為すことができるし、為す」のである。この「神についての聖書的な証言」は、「神とは異なるすべてのもの(≪天然自然、自然の一部である人間、われわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求や≫)に対して」持つところの神の「優位性」を、「神とは異なるもの(≪具体的には、われわれ人間の自由な自己意識・理性・思惟や人間的欲求や≫)によって為されるすべての条件づけ(≪外的条件づけ≫)からの神の自由(≪独立性としての神の自由≫)として」の「神の相違性そのものの中でだけ見ているだけでなく」、「神がそれらを実証する(≪自己証明する≫)ことによって」、それ故に「外的条件づけからの(≪独立性としての≫)神の自由」に「相対しても自由(≪自存性としての神の自由≫)であり」、この完全な自由を放棄することなく、「創造主、和解主、救済主として」、「神とは異なった実在(≪具体的にはわれわれ人間≫)との交わりへと歩み入り、その交わりの中でその実在に対して忠実であり給うということの中で」、神の「真実を実証し、まさにそのようにしてこそ現実に自由(≪独立性としての神の完全な自由≫)であり、ご自身の中で自由(≪自存性としての神の完全な自由≫)である」ところの「神の自由」(神の自由の全体性・総体性)の中で見ている。もしも神がこのような神ではないとしたら、その神は、神としての神ではないであろう、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下での神としての神ではないであろう、「神の啓示の内容」は、人間的理性や人間的欲求やが対象化し客体化した「存在者レベルでの神」から発生したものに過ぎないであろう、それ故に信仰も「存在者レベルでの神への信仰」でしかないであろう、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない』」であろう、「人間学の後追い知識」以外の何物でもないであろう。

 

 さて、「神は純粋ニタダ概念的ニシカ定義サレナイモノである」という「この概念の中には、そこで表示された対象の存在についてと本質についてのいかなる言明も含まれていない」。したがって、「J・ペックハイ(1292年死去)が、アンセルムスの証明を『モトモト定義カラシテ、主張サレテイル論証』として引用した時、そのことは決定的な誤解であった」。何故ならば、アンセルムスの「啓示神学的な性格」におけるその神学においては、「神ガ存在スルカ否カハ」、「『ソレ自体デ知ラレル』ということはなく」、「信仰の前兆(Vorzeichen)のもとに立っていない洞察はない」からである。したがって、「神の存在も、前もって与えられている信仰命題である。この信じられた神の存在が、今や同じように信じられた神の名の前提のもとで、認識され、証明され、必然的に考えられるべきものとして理解されなければならない」。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を念頭において、「それ以前に語られた神ご自身の言葉……と自分を関わらせている……時、正しい内容を持っている」のであり、「われわれ以前の人々によってなされた教義学的作業の成果」は、「根本的には……真理が来るということのしるしである」、と。したがって、「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)は、イエス・キリスト自身を起源とする「啓示と信仰の出来事」に基づく個体的自己の信仰的成果(「信仰命題」)の世代的総和(深化と豊富化)であり、その時間累積である。したがってまた、「この概念が、神の存在と本質の証明に役立つべきだとしたら、……それから厳密に区別されるべき前提が必要である」。言い換えれば、「神の助けを得て、認識のために、証明のために、唱えられるべき」「神の存在と本質の思想」が、「ほかのところからして、信じるに値する仕方で、あらかじめ与えられているということが必要である」。したがって、「ソレヨリ偉大ナルモノハ考エラレ得ナイ何カ」は、「よかれあしかれ、……神の啓示されたさまざまな名(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とするその外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の完全に自由な愛の行為の出来事全体≫)の間で、この度、この特別な目的のために選ばれた神の一つの名、その際、どうしても、神の認識のためには、その同じ神のほかのところでの啓示」が、すなわち主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」を包括した客観的な「存在的なラチオ性」が、「自明のことながら前提されている神の一つの名である」。「その限り、そしてそれと別様にではなく、この名の理解からして、神の存在と本質についての言明の必然性が生じてくる」。何故ならば、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」において、すなわちわれわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在に仕方における第二の存在の仕方、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間において、その自己自身である神の自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の認識(啓示認識)と信仰(啓示信仰)を要求する啓示であるからである。