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22.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」

22.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。
この知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明についてさらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります
https://karl-barth-studies.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。

 

 

「神学の目標(証明)」(4)
 「アンセルムスの神学は単純なものである。それが、彼の『証明すること』の全くのありのままの秘密である」。このアンセルムスは、「キリスト教の知解を、密教的な奥義として取り扱うことはできない。世俗の思惟の冷静な光を避けなければならない行為として取り扱うことはできない」。彼は、「信ジナイガ故ニ、探究スル」「(外に立つ者たちに対して、特別に合うように整えることなしに)証明力をもち、確信させる力をもつ」彼の「神学の、ただ一つの問い、ただ一つの言葉、ただ一つの課題を知っているだけである」。彼は、「信仰を、……ただ単に自分自身に対してだけでなく、ただ単に小さな群れに対してだけでなく、むしろすべての者たちに知解できるものとしようとする意図で……探究する」。その時、彼は、「あたかも啓示と教義の否定など存在しないかのように、厳格な神学的な即時性の中で探究し証明するのであって、決してそれ以外の仕方で証明するのではない」。詳しく言えば、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)の、具体的にはそのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)の、そしてその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義の「否定など存在しないかのように」、「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」(客観的な「存在的な必然性」)と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の中での主観的な「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」(主観的な「認識的な必然性」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)としてある客観的な「存在的なラチオ性」という「厳格な神学的な即時性の中で探究し証明するのであって、決してそれ以外の仕方で証明するのではない」。

 

 したがって、アンセルムスは、「不信仰、私タチハ信ジナイガ故ニということ、不信者の疑い、否定、あざけり、不信者自身がそれを真剣に受け取ろうと欲したほど、真剣に受けとられるべきでは全くないという前提をあえて立てたのである」。何故ならば、神の側の真実としてある、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の名の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の~」の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事、「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉)であるイエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)に向かっての人間の用意が存在する」からである、イエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示に固有な証明能力」を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力を、神のその都度の自由な恵みの決断によるあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて啓示認識・啓示信仰を与えることができる授与能力を持っているからである。したがって、アンセルムスが「『証明しつつ』不信者に身を向けた時、不信者の不信仰を信じたのではなく、むしろその者の信仰を信じたのである」、すなわち「彼は、おそらく不信者をただ単に自分自身と一緒に、神学の場の中で見ただけでなく、とりわけ自分自身と一緒に教会の場の中で見たのである」。何故ならば、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、次のことが、現実の事実だからである――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪生来的な自然的な≫)『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、身体的修行力等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、教会の宣教、その一つの補助的機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」が故に、その在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの(≪「祈り」の≫)人間的態度に対し神が応じて下さる(≪「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」(『教会教義学 神の言葉』)。

 

 アンセルムスは、前述した「あの驚くべき前提を、おそらく信仰の対象そのものの……最高ノ真理を通して上から照らし出され、また照らし出す客観的な根拠、(それに対して、アンセルムスは、それが、いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠の力強さを念頭において、あえてなすことができたのである」。言い換えれば、前述したように、客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による「存在的な必然性」と「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした「認識的なラチオ性」を包括した「存在的なラチオ性」という総体的構造に基づいて、われわれ人間に対してわれわれ人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与えることができるであろうことを信頼していた客観的な根拠の力強さを念頭において、あえてなすことができたのである」。「おそらく、神学は、アンセルムスにとって、(≪言葉による≫)説教と全く同じようにキリストの宣教……の行為であった」。アンセルムスにとって、キリストの宣教に際しては、「あの照らし出され、また照らし出す客観的なラチオ(≪客観的な根拠≫)への信頼」は(すなわち、あの総体的構造を持っている主観的な認識的な必然性を包括した客観的な存在的な必然性への信頼は)、「宣教者の第一の、また最後の前提でなければならず」、それ故にキリストの宣教に際しては、「罪を勘定に入れられず、罪人はその罪性において固執されず、むしろその罪性のまま、神のものとして要求されるべきであり」、それ故にキリストの宣教に際しては、「人は、聞き手の悲劇的な私ハ信ジナイを」、「この場合、ただ単に許されているだけでなく」、「まさしく命じられているユーモアをもって通り過ごして、議事日程に移ってゆかなければならないキリストの宣教の行為であった」、それ故に第三の形態の神の言葉に属する教会の「説教は、説教者の自由事項や独占事項ではないのであるから、自分自身の言葉から由来すべきではなく、どのような場合であれ、その形式と内容において、(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、第一の形態の神の言葉そのものであるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書(≪その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」≫)への絶対的信頼に基づく、聖書講解であることの義務を負っている」(『説教の本質と実際』)という「ユーモアをもって通り過ごして、議事日程に移ってゆかなければならないキリストの宣教の行為であった」――「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方である復活に包括された「十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方である」、われわれ人間は、「そのままでは恵みを受け取る状態にはない」し、また「自分でそのような状態にすることもできない」、それ故に「もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が恵みである」、すなわち「私たちの召命・義認・聖化」は、「私たち自身の中に生起するのではなく」、「イエス・キリストの御業として、私たちのために、私たち自身の中に生起する」のである(『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」)、われわれは、「心を頑固にし福音を認めない人間や異教徒に対して、恵みから語り、恵みについて語るという以外のことをなすことはできない」、すなわちわれわれが、「そうした人々に呼びかけることができるのは、私がその人をその中に置くことによってではなく」、「イエス・キリストがすでにその人をその中に置いてい給うことによってである」、それ故にわれわれは、「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」のである(『証人としてのキリスト者』)、「教会は、(≪あの「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」における総体的構造に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関において、純粋な教えとしてのキリストにあっての神、キリストの福音≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」、それ故にそうでない時には、「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)。

 

 このような訳で、「おそらくアンセルムスは、キリスト教のCredoについて」、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義としてのCredoについて、「彼が罪人を罪人でない者として、非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけるという仕方」、「すなわち……結局すべての時代において、信者が不信者に語ることを決定的に可能とすることであった『あたかも……であるかの如く』の中で語りかけるという仕方以外の仕方で語る術を知らなかった」。「おそらく彼は、証明しようと欲しつつ、実際に、信者と不信者の間の……深淵を超えて行った」のである。信と不信、キリスト者と非キリスト者、知と非知の深淵を超え出て両者を架橋することができるのは、『福音と律法』に即して言えば、徹頭徹尾神の側の真実としてある、ローマ書3・22、ガラテヤ書2・16等の主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・完了そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの(『ローマ書新解』)である「神性」を内在的本質とするその外在的な第二の存在の仕方(「啓示ないし和解の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉そのもの)であるイエス・キリストだけである。この場所において、アンセルムスは、「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき(≪何故ならば、教会論的なキリスト教的人間であれ、前で引用した『福音主義神学入門』にあるように、内在的な不信のただ中にあるし、キリストにあっての神から日々瞬間瞬間遠ざかり遠ざかり続けているし、罪を新たな罪を犯し犯し続けているから≫)、不信者たちを同類の者として受け取ること(≪何故ならば、前で引用した『証人としてのキリスト者』にあるように、「イエス・キリストがすでにその人をその中に置いてい給う」から≫)から成り立っている征服者として深淵を超えて行ったのである」――「ソレ故に、私ハ自分ガイカニ多クノ罪ヲ犯シ、イカニ多クノ不義ニヨッテ自分ノアワレナ魂ガ汚サレタカヲ思ウニツケ、自分ガ他ノ罪深イ人々ト同ジデアルトイウバカリデナク、ドノ罪人ニモマサッテ、スベテノ罪人以上ノ罪深イ人間デアルコトヲ知リマス」。「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪神の側の真実としてある主格的属格として理解された≫)神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(≪それ故に、≫)(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。(≪が≫)しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。(≪すなわち、≫)そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。