21.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
21.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
推敲済みです。
この『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
「神学の目標(証明)」(3)
さて、アンセルムスが、「信仰は、(≪先行する神の≫)権威に対する服従」、「知解に先行しなければならない服従」というこの「正しい秩序を解消させようと欲することはできない」から、換言すれば「啓示自身が持っている啓示に固有な証能力」――すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」と主観的な「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした客観的な「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性」という総体的構造(「正しい秩序」)を解消させようと欲することはできないから、「この服従が出来事となって起こらない時」には、確かに「その議論相手の者たちとの間の深淵」の可能性、「説明することのできない可能性」、「対話相手は愚カ者であり、愚カ者であり続けるという」可能性、「対話相手とのすべての議論は意味のないものであり、目的のないものであるという可能性」は残ると思惟し語るのであるが、しかし一方で、アンセルムスが、それらの「可能性の事実を計算に入れなかった」し、「いずれにしても(≪それらの可能性≫)についての考えを全く用いなかったという顕著な事実の前に、われわれは立つ」のである――この事実は、「神証明の高所において」、「愚カ者ダト言ウベキデス。ダカラ、彼ノ言ウコトハ無視スベキデス」と思惟し語ったアンセルムスにおいて、「わたしの知っている限り、二度」起こっている。逆に言えば、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」――すなわち「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と主観的な「認識的な必然性」――すなわち「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に包括された主観的な「認識的なラチオ性」――すなわち聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された<人間の理性>性という総体的構造(「正しい秩序」)において「服従が出来事となって起こる時」には、あの「対話相手とのすべての議論は意味のないものであり、目的のないものであるという可能性が残る」というその「可能性の事実を計算に入れない」ということ、その「可能性についての考えを全く用いない」ということが起こる、というように言うことができる。
このことを人間学的領域に敷衍すれば、例えば人間学の一領域でしかない歴史学を拡大鏡にかけて全体化(絶対化)するのではなく、「神話乃至古代史の研究において、打率三割ならばまったく優秀な研究者である」という認識と自覚を持つことができれば、「対話相手とのすべての議論は意味のないもの」ではないし、「目的のないもの」ではない、というように言うことができるのである。「……<奇蹟>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪詩、文芸批評、思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういうことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです」(吉本隆明『<非知>へ――<信>の構造 対話編』「吉本× 末次 滝沢克己をめぐって」)。「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」(太宰治『正義と微笑』)。
「アンセルムスの書物」は、「まさに論争という点で、顕著な柔和さ」を持っている。その「柔和さ」は、資質的、「人格的・心理学的に評価することができるし、評価しなければならない」。しかし、アンセルムスの「怒り」の「感情にまで高まる」「少数の例外」は、「いろいろな点で特徴的である」――「まさしく感情を害しつつ、ある同時代の唯名的・哲学的な背後関係に反対しつつ語っている。……彼にとって、洗礼と直面して、『キリスト教的』異端の事実……は全く理解できない。自由の問題の詳論において、何故神は人間を、誘惑され得ない姿に関して、ご自分と同じように創造されなかったという問いを立てた」「ボゾは(≪アンセルムスから≫)鋭い仕方で怒りをぶつけられている」。アンセルムスが、「不信者と間違った信仰を持つ者たちに対して、ワレ知解センガタメニ信ジルおよび彼の予定説的な背景(下記の【注】を参照)にもかかわらず、証明しようと欲することに……従事したという事実」は、「彼ラハ信ジナイカラソレヲ求メ」、「私タチハ信ジルカラソレヲ求メ」る「私タチガ求メテイルモノハ一ツ」、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義である「Credoの個々の部分の相互の関連づけ合いの解明を通して示されるべき信仰の認識的なラチオ性ということである」という理解を要求する、すなわち聖霊とは同一ではないが聖霊によって更新された<人間の理性>性というという理解を要求する。このように、アンセルムスは、「不信者たちに対して」、「彼らが欠けていることに気づき、彼らが問うている信仰のラチオ性」は、「アンセルムス自身が尋ね求めている信仰のラチオ性とは別なものでないことを信頼し認める」、すなわち聖霊とは同一ではないが聖霊によって更新された<人間の理性>性ということを信頼し認める。ただ、信者は、「自分が――つまり(≪生来的な自然的な≫)『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、身体的修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する」のである(『福音主義神学入門』)。不信者たちは、「啓示そのもの躓くのではない」、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な「存在的な必然性」と主観的な「認識的な必然性」(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした客観的な「存在的なラチオ性」に包括された主観的な「認識的なラチオ性」という総体的構造、「啓示の問いそのものを未決なものにしておきながら」、それ故に啓示の問いを未決なものにしておくが故に、「啓示のあれやこれやの構成要素に躓くのである」。言い換えれば、その時には、「彼らにとって、啓示のまとまった関連性、啓示の全体性は知られておらず、それであるからまた、啓示の構成要素そのものの中のあれこれのものが(≪啓示の全体性からして≫)理解できるものとなることができない」のである。この「躓きは、……キリスト教の神学者を信ジルコトから知解スルコトへと駆り立てたし、今も駆り立てている躓きと同じである」。
【注】アンセルムスにとって、「啓示の事実の不把握性に、予定の不把握性が対応している」――「『義ナル者ト不義ナル者ノ子供タチガソレゾレ洗礼ノ恵ミニ選バレ、アルイハ退ケラレ』のを見ている」、「そして、この神秘と直面して、説明も忠告も知らない。『ナゼアナタハ最高ノ慈悲ニヨリ、同ジ悪人デモ一方ヨリ他方ヲ救イ、アナタノ最高ノ正義ニヨッテ、一方ヨリ他方ヲ罰スルカハ、タシカニドノヨウナ理由ヲモッテシテモ、全ク理解出来マセン』」。
そのような訳で、アンセルムスは、「不信者との議論」において、「その者の地盤に、……一般的な人間理性の地盤に、その者と共に身をおくことなしに」、「しかしまた、その者に対して、……まず信者へと回心していなければならないという条件を付けることなしに」、証明しようと欲することに従事するのである。アンセルムスは、「彼自身の地盤、すなわち厳格に神学的な(むしろわれわれは今日、こう言うであろう、教義学的な)即事性の地盤を、同様に『不信者』も全くよく話し合いに加わることができ、加わろうと欲することができる地盤であるとみなしている」。したがって、アンセルムスは、「不信者を、この彼自身の地盤へと呼び招く」、啓蒙主義的な地盤・外部注入論的な地盤にではなくて、信と不信を架橋できる地盤へと呼び招く。すなわち、アンセルムスは、「いかなる人間もほかの者に教えることができないことを教えることができ、また繰り返し教えるであろうことを信頼していた客観的な根拠」、すなわち「信仰の対象そのものの客観的根拠」の「力強さを念頭において」、換言すればあの「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の客観的可能性」としての客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事と「啓示の主観的可能性」としてのその啓示の出来事の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした客観的な「存在的なラチオ性」(「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)に包括された主観的な「認識的なラチオ性」(聖霊と同一ではないが聖霊によって更新された人間の<理性>性)という総体的構造を念頭において、「非キリスト者をキリスト者として、不信者を信者として語りかけ」、「信者と不信者の間の深淵を超え」出て、「彼が自分を不信者たちに対して不信者たちと同類の者としておき、不信者たちを自分と同類の者として受けとる」のである。したがって、アンセルムスは、「(私ハ知解スルタメニ信ジマス、および彼の予定説的な背景を否定することなしに)不信者と共に、あたかもその者がボゾやガウニロであるかのように、論じることができるのである」、彼は「不信者の関心事を、実際にそのように受けとめた」のである。アンセルムスにおいては、「『不信者』の関心事が、ただ単に何らかの仕方で取り上げられ、神学的な課題の中に共に編み入れられるだけでなく、終始、『不信者』の関心事は、信仰者の神学的な関心事と同一であるとして取り扱われている」。われわれは、アンセルムスが、「『証明スル』ということを、それ故に外に対して不信者が受けとるようにと向けられた議論を、信仰そのものから得ようと努めつつ努力されている探究とは異なった……箇所……を一つも見出す」ことはできない、換言すればこのようなアンセルムスにとっては、「神学大全とそれに加えて反異教徒大全を書くこと、教義学とそれに加えて宗教哲学あるいはその種のものを書くことは……不可能であった」。「まさに信仰者の知解スルコトの実行こそが、まさに内に向かっての証明こそが、また外に向かっての証明でもある」。信が、信と不信を二元論的に容認し合うことが重要なのではなく、信が、内在的な不信・外在的な不信を含めて、信と不信を架橋することが重要なのである、ちょうどイエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に対立しておらず、律法は福音を内容とする福音の形式であるように、また神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」としてある主観的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)における信は、内在的な不信・外在的な不信を含めて、信と不信を架橋した・架橋する信であるように。
「アンセルムス的な証明」は、「神学者が世の子に対して、その者を自分の前に見出すところで、見出すままに」、換言すれば世の子を啓蒙したり・世の子に対して外部注入するという仕方ではなしに、自らの神学の中にその現にあるがままの世の子の信仰像と信仰的課題を繰り込んでいくところで、「自分と同じ場所に、いずれにしても神学の場所にいる者として語りかけようと決心することによって起こってくる連帯責任性の前提のもとで、生起する」。このように、アンセルムスは、客観的なイエス・キリストにおける神の自己啓示が、その啓示に固有な証明能力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、その客観的な啓示の出来事の中での主観的側面としての「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力を持っているということを念頭において、すなわちキリストの啓示自身が持っている客観的な存在的な必然性に包括された主観的な認識的な必然性(「啓示と信仰の出来事」)を前提条件とした客観的な存在的なラチオ性に包括された主観的な認識的なラチオ性という総体的構造を念頭において、世の子に対して」、「世の子が……いくらか明晰な理解力を持つ時」、「啓示の真理を前もって肯定しているというこなしに」、「どのようにキリスト教信仰の理性性について確信することができるかの教示を与えると約束することができるのである」、「それから、キリスト教の教義の前提のもとで」、「どのようにキリスト教信仰の理性性について確信することができるかの教示を与えると約束することができるのである」、それからまた「世の子は信ジナイカラ求メルとしても、世の子は外から……全く『傍観者の態度』で問うとしても、世の子はただ単に疑うだけでなく・否定し・あざけるとしても」、「どのようにキリスト教信仰の理性性について確信することができるかの教示を与えると約束することができるのである」。バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、次のように述べている――教会の宣教の一つの補助的機能としての「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」。何故ならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には、最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」からである。したがって、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」。教義学者とは「ただ単に教義学を専攻する大学教員や(≪牧師や≫)著述家だけ」のことではなく、「広く一般に、今日および昨日の教義学的問いによって突き当てられ動かされる者たちのことである」、と。