6.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
6.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
再推敲・再整理版です。
この『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
(2)バルトは、次のように述べている。「神学者」(下記の【注1】を参照)は、「どの程度まで、キリスト者が事情はそうだと信じているその通りの事情であるのかということを問う」、すなわち彼は、「特定の限界(下記の【注2】を参照)を超えてしまって」、それ故に「神学」的にではなく「非神学」的に、換言すれば人間学的に、宗教的に、総括的に言えば自然神学的に、人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「存在者レベルでの神への信仰」における「『事実』を問う問いへと急変」させる。しかし、アンセルムスは、そのことに対して「見誤ることはなかった」。言い換えれば、アンセルムスは、バルトと同じように、「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰である」とした「カントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)ということについてよく認識していたし自覚していた。このアンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、キリストの贖罪死の必然性を理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」、そのことを「人は合理主義だと批判した」が、前述したようにアンセルムスは、「教義学的な合理主義を明確に否定」している。すなわち、アンセルムスは、神学を「一般的真理」としてではなく、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉である「啓示から得られた認識」としてのイエス・キリストの「実在」から、換言すれば<客観的>に存在している預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書的啓示証言(第二の形態の神の言葉、その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)から、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の可能性について考えたのである。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義から、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の可能性について考えたのである。
【注1】「あらゆるキリスト者の生が、意識するにせよ、しないにせよ、やはりひとつの証しである」限り、「教会とその信仰を基礎づけている神の言葉から、提起される」「真理問題はあらゆるキリスト者に向けられている。この証しにおいてこの真理問題に対する責任を負う限り、いかなるキリスト者も彼自身がまた、神学者としても召されている」(『福音主義神学入門』)、「教授でないものも、牧師でないものも、彼らの教授や牧師の神学が悪しき神学でなく、良き神学であるということに対して、共同の責任を負っている」(『啓示・教会・神学』)、「教義学は、決して信仰と、その認識のより高い段階を意味しない」、何故ならば、「最も単純な福音の宣教も、それが神のみ心である時には」、すなわちそれが神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)における証しである時には、「最も制限されない意味で、真理の宣べ伝えであることができるし、最も単純な聞き手に対しても、この真理を完全な効力をもって、伝えてゆくことができる」。したがって、「教義学者は、信仰者としても、知識を持つ者としても、神がここでなし給うことに関しては、教会の誰か一人の会員よりも、よりよい状況にあるわけではない」(『教会教義学 神の言葉』)。
【注2】「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての神は、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする内在的な三位一体の神として、われわれは、ここで、神の不把握性を認識させられ自覚させられるのである。したがって、われわれは、ここで、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてのみ初めて、終末論的限界の下で、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)を与えられるということを認識させられ自覚させられるのである。したがってまた、われわれは、ここで、教会の宣教(説教と聖礼典)、その一つの機能としての神学、その思惟と語りと行動が、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」ということを認識させられ自覚させられるのである。したがってまた、われわれは、ここで、教会の宣教、教会の一つの機能としての神学(教義学)は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」ということを認識させられ自覚させられるのである。したがってまた、われわれは、先ず以て、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請)という連関において「神への愛」を目指すことが求められているのである。
このような訳で、「ドノ程度マデ根拠ガ尋ネ求メラレルベキデアルカという点で、デキル限リ謙遜デアル」神学者は、「特定の限界を超えてしまうことはないであろう」。言い換えれば、前述したような仕方で、客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に固執し連帯するであろう。したがって、すべての教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語り、「すべての思索」は、「ただ、……肯定されたCredoの言い換えであることができるだけである」、すなわちそれは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語り、その「すべての思索」における原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義の「言い換えであることができるだけである」。したがってまた、すべての教会の宣教、その一つの機能としての神学、その思惟と語り、「すべての思索」は、「われわれの肯定を、あるいは肯定されたCredoを基礎づけること」ではないのである。第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会に宣教を義務づけている第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである」(『啓示・教会・神学』)。何故ならば、「基礎づけ」は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に依拠した「Credoとcredo の事実の中に、神的な啓示の事実の中にある」からである。すなわち、それは、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした、それぞれの世代あるいはそれぞれの世紀における個体的自己の信仰的成果の世代的総和、すなわちキリスト教に固有な類、その類の時間性、すなわちキリスト教に固有な歴史性としてある教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)と<主観的>なキリスト者としての個体的自己の信仰的成果、キリスト教に固有なキリスト者としての個、その個の時間性、すなわちキリスト教に固有なキリスト者としての個の現存性、個体史≫)の事実の中に、神的な啓示の事実の中にある」からである。このような訳で、「知解スルintelligereことは、Credoの諸命題の内的な必然性を確かめること」を、それらの諸命題に相応している「信仰にとっての必然的な存在を確かめること」を「超えてゆくことはないであろう」。
「あの特定の限界のところでの神学の課題」は、「ドノヨウニシテカトイウコトガ理解ヲ超エテイルコトヲ理性的ニ明示スルという課題……であるであろう」、換言すれば「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」等を「理性的ニ明示スルという課題……であるであろう」(下記の【注1】を参照)、換言すれば「われわれが哲学的用語をつかうという事実にもかかわらず、神学は哲学的試みが終わるところから始まる」ということ、すなわち神学も人間的理性を用いての理性的な知的営為ではあるが、それ故に「合理的」な論理的な知的営為ではあるが、「神学は方法論的には、ほかの学問のもとで何も学ぶことはない」(『バルトとの対話』)ということである。したがって、「あの特別の限界のところでさらに引き続いて問おうとする者」は、「再びただ愚か者……でしかあり得ないであろう」、換言すればその者たちは、恣意的独断的にあの「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)を排除・除外してしまって、それ故に自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階の中で停滞と循環を繰り返すという仕方で、すなわち人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「存在者レベルでの神への信仰」(人間が造った偶像神への信仰)、その啓示について「『どのように』を問う愚か者でしかあり得ないであろう」(下記の【注2】を参照)。その者たちは、まさに客観的な正当性と妥当性とをもって為したフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーによる根本的包括的な原理的なキリスト教批判の対象そのものとしての対象を対象としているだけの者たちであるだろう。したがって、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)には、その最初から連帯できない者であるだろう。その者たちは、自らその道を選んだ者、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の道を選んだ者である。
【注1】「三位一体について、『ソノヨウナ崇高ナ事象ノ神秘(≪ご自身の中での神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれの神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方≫)ハ、私ニハ人間ノ知性ノ全能力ヲモ超エタモノト思エ、コレガドノヨウナモノカ説明シヨウトシテモ、ソノ努力ハ放棄サレナケレバナラナイト考エル。ソモソモ、私ノ判断カラスルト、理解ヲ超越シタモノゴトヲ探求シテイル者ハ、推理ニヨッテソノ存在ヲ最モ確実ニ認メルニ至ッタナラ、タトエソレガドウシテソノヨウデアルノカヲ知性ニヨッテ究明出来ナイトシテモ、ソレデ満足スベキデアル。ソコデ、必然的証明ニヨッテ確認サレ、ドノヨウナ矛盾スル理由モホカニナイモノゴトニツイテハ、タトエソレラガソノ本性的崇高サノタメニ理解ヲ超エ、説明ヲ受ケ付ケナイトシテモ、ソレユエニソレラニ対シテ示ス信仰ノ確実性ガ低クナルコトガアッテハナラナイ(≪何故ならば、信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事は、先行する神の側から、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられるものであるから≫)』」。「受肉について、『一方、神ノ知恵ガドノヨウナ理由カラソウナサレタカヲ理解出来ナイトシテモ、ソレハ驚クベキデナク、ムシロソノヨウニ偉大な事柄ニハ、私タチノ知ラナイ神秘(≪神の側の真実としてある神の秘義性、出来事性≫)が潜ンデイルコトヲ敬意ヲモッテ認メルベキデアル』」(何故ならば、三位一体の神の第二の存在の仕方、受肉、「神が人間となる」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、その存在の本質である「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」、「覆い隠し」を意味しているからである)。
【注2】ご自身の中での神としての「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示ないし和解・語り手の言葉・和解主、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・<客観的>に存在する「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体、このように認識する信仰にとって「必然的ニ存在スルコトヲ、ソレガドノヨウニシテ存在スルカヲ知ラナイトイウ理由カラ、不可能デアルト断定スル者ガイルナラ、ソノヨウナ人」は、「愚カ者ダト言ウベキデス」。何故ならば、その者たちは、前述した信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事)が、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に基づいて、先行する神の側の方からやって来ることを認識し自覚していないからである。「一ツノ必然的立証ニヨッテ、マコトニ存在スルコトガ証明サレタコトニツイテハ、タトエドノヨウニシテソレガ存在スルノカガワカラナクテモ、イササカモ疑問視シテハナラナイカラデアル」。