5.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
5.「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」
再推敲・再整理版です。
この『知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明』について、さらに推敲し整理した論稿が下記のJimdofreeホームページにあります。
https://karl-barth-studies.jimdofree.com/
このJimdoホームページの論稿は、現在のホームページにある論稿よりも文章構成に関しても内容に関しても、さらに推敲され整理されており断然読み易く・分かり易くなっていますから、最初からをこのJimdoホームページの論稿を読んだ方が大切な時間を有効に使えます。
(1)「アンセルムスの主観的なcredo〔ワレ信ズ〕」は、具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とする「教会の客観的なCredoを(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義を≫)、換言すれば「人間的な言葉で定式的に表現された諸命題の総和」を、すなわち具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としたそれぞれの個体的自己の信仰的成果の世代的総和あるいは世紀的総和――キリスト教に固有な教会の<客観的>な信仰告白および教義(類)、そのキリスト教に固有な類の時間性、すなわちキリスト教に固有な教会の<客観的>な信仰告白および教義の歴史性を、「関係点として持っている」。したがって、それは、その主観性を包括した客観性を持っているから、教会の客観的なCredo(教会の<客観的>な信仰告白および教義)を信じる信仰自身が、「既に知解スルこと」となるのである。この時、「キリストの言葉」は、「『キリストを宣べ伝える者たちの言葉』と同一であるといった具合に、そしてそのこと中で」、「(信仰が信じる)『正しいこと』である」。第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教の「人間的な言葉Credoに対する関係の中」で、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義であるCredoに対する関係の中で、「信ジル(≪主観的なcredoワレ信ズ≫)ことは、知解スル(intelligere)ことの前提である」。終末論的限界の下で「知解スル(intelligere)」ことが、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的なイエス・キリストにおける啓示の出来事とその啓示の出来事の主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による信仰の出来事に基づいて与えられる「信仰fides」によって「要求されており、可能とされるということから」、「今や、神学的作業の特別な課題を問う……前に……語らなければならない神学的作業の諸条件の一連の系列が結果として生じてくる」。言い換えれば、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊」――このキリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身(イエス・キリスト自身)の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」(「言葉を与える主は、同時に信仰を与える主である」)、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)に基づいて、そして第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源する第二の形態の神の言葉であるその最初の直接的な第一の聖書的啓示証言(「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で「知解スルintelligere」ことが、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰fides」によって「要求されており、可能とされるということから」、「今や、神学的作業の特別な課題を問う……前に……語らなければならない神学的作業の諸条件の一連の系列が結果として生じてくる」。
教会の一つの機能としての「神学的学問」は、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉に属する教会の<客観的>な信仰告白および教義としての「Credoについての学問として」、具体的には<客観的>に存在しているそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(ここで「隣人愛」は、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである)という連関における「Credo(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)との関連において、ただ積極的な性格しか持つことはできない」。何故ならば、「私ハ、(≪そのように≫)『信ジナイナラバ、知解シナイデアロウ』トイウコトヲ信ジテイルカラデス」。「徳ヲ建テル謙虚ナ知識ヲ、アナタハ常ニ与エテ下サイマシタ」、このような訳で「神学は愚昧ナ傲慢とは正反対に、謙虚ナ知恵である」。したがって、「求められた知解」は、「いずれにしても、教会のCredo」――すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義の「継続(≪キリスト教に固有な類の時間性≫)と説明(≪キリスト教に固有な類の説明、深化・豊富化≫)以外の何ものでもないのである」。「キリスト教信仰ノ奥義ヲアエテ理性ニヨッテ討議スル前ニ、マズソレヲ信ジルコトヲ、正当ナ秩序ガ要求シテイル……」、すなわち「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)が、それ故に具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言(「啓示ないし和解」の「概念の実在」)が、それからまたその聖書によって宣教が義務づけられた、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義が、「要求シテイル……」。それ故に「知解するintelligereことは、前もって語られ……前もって肯定されたCredo」を、すなわち第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした教会の<客観的>な信仰告白および教義であるCredo を、「後から考えることを通して生じる」。前述したような仕方で、「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に連帯した「黙想ハ知ヲ(≪認識・信仰を≫)生ム」。何故ならば、『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、「啓示は例証されようとせず、解釈されることを欲する」からであり、「解釈するとは、別の言葉で同一のことを言うことである」からである。
このような訳で、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「信仰を否定したり」、「教会のCredoを否定したり……あるいは疑う信仰の学問」は、「オノズカラ、ただ単に信仰的であることをやめるだけでなく、また学問的であることもやめる」のである、教会の一つの機能としての「教義学としては非学問的」となるのである、神学的にはもちろんのこと人間学的にも無用なただ「単なる知識」(「混合神学」)となるのである、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)としかならないのである、総括的に言えばたとえそれが近代主義的・自由主義的な装いをしていたとしても、近代的人間学との混合を目指す「混合神学」であったとしても、自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返す、それ故にいつも閉じられていくしかない閉鎖された村落共同体の神学としかならないのである。何故ならば、人間の側からする神との「混淆」・「混合」を目指す、「神人協力」を目指す、神学の側からする人間学との「混合」を目指す自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教は、またその段階で停滞と循環を繰り返す神学者や牧師たち等々は、肯定的あるいは否定的なバルト研究者を含めて、ご自身の中での神としての「父なる名の内三位一体的特殊性」・「神の内三位一体的父の名」・「三位相互内在性」における内在的な三位一体の神の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き、業、行為)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であり啓示者である父なる神の子としての「啓示ないし和解」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」が、教会共同性、教団共同性のような「狭い共同体」から、「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの不信、非キリスト者、非キリスト教、非知、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているということを認識し自覚していないからである、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言におけるイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執し固着することを立場としていないからである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』「和解論の対象と問題」)。
したがって、そのような自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教、またその段階で停滞と循環を繰り返す神学者や牧師たち等々は、肯定的あるいは否定的なバルト研究者を含めて、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における「真理の事実に対しての厚かましい知ったかぶり」を行うのである。このような訳であるから、「キリスト者ハ誰デモ、イカニ公教会ガ心デ信ジマタ口デ告白スルコトガ存在シナイカヲ論ジテハナラズ、ムシロ常ニ(≪具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした≫)同ジ信仰ヲ疑ワズニ信奉シ、愛シ、マタソレニ従ッテ生キツツ、謙虚ニ、可能ナカギリ、ドウシテソウナノカトイウ理由ヲ求メルベキデス。(≪したがって、あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)モシ理解出来ルナラ、神ニ感謝スベキデス。モシ出来ナイナラ、角ヲ振リマワシテ追突スルコトナク、頭ヲ垂レテ敬意ヲ表ワスベキデス(エゼキエル三四・二一)」、「神ガ覆ッテシマワレルノデ、私ハコノ信仰ニツイテ決シテ論ジナイデアロウトイウ具合デハナク、神ガ与エテ下サルノデ(≪神ガ、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を与エテ下サルノデ≫)、イツモ、信ジ、愛シ、生キルコトニヨッテ、ソレヲ論ジルデアロウトイウ具合デアロウ」、「ソレ故、(≪具体的には第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として)信心深ク生キヨウトスル者ハ、(≪第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である≫)聖書ヲ黙想スル。ソシテ、マダ理解シテイナイ事柄ヲ非難シタリ、ソレデ抵抗シタリシナイ。コレガ、柔和ニナル(マタイ五・五)トイウコトデアル」。