カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

22-20『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」

『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」22-20(170-182頁)

 

「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」22-20
 「神的全能の対象は、矛盾ヲ(≪人間的理性によって規定された事柄の定義に矛盾することを≫)含ンデイナイスベテノコトである」(クエンシュテット)、「それと共に、(≪聖書的啓示証言における≫)神概念に対して、可能なるものの独立した一般的な神概念、(≪人間的理性によって対象化され客体化された「存在者レベルでの神」としての神概念≫)が舞台に姿を現してくる」。このことは、「反駁されなければならないことである」。「ここでもまた、プロテスタント神学を部分的に(≪神学と人間学との混合神学、自然神学という≫)間違った道へと誘ったのはトマス・アクィナス」である(この論述の最後に載せた【補注】を参照)――絶対的に可能なるものは、われわれ人間の人間的理性による定義に従って主語と述語とが矛盾しない命題によって表示される事柄であり、それ故に神の全能性とは、神がそのよう仕方で矛盾しない事柄のすべてを実現し得るそれのことであるが、「神が全能であるのは、(≪そのように≫)神ハ絶対的ニスベテノ可能ナコトヲナスコトガデキルカラデアル」、「神の全能の対象であることができるもの、それは、全くただそのまま無条件的に可能でなければならない(≪何故ならば、それは、われわれ人間の人間的理性による定義に従って主語と述語とが矛盾しない命題によって表示される事柄であるから≫)。換言すれば、存在するもの(≪存在者≫)という概念のもとに含まれなければならない」、それ故に「それに対立するもの」、すなわち「存在しないものとみなされるであろうもの、それは、そのようなものとして全くただ不可能であるであろう」、それ故にまた「それは、神的全能の対象を形作ることはできない……」、「コノコトハ決シテ神ノ能力ノ欠陥ノ故デハナク、却ッテ、事柄ガ、『ナサレウルベキモノ』トカ『可能ナルモノ』トカノ特質ヲ有シエナイモノナルニヨル。ダカラシテ、『神ハソウシタコトガラヲナシエナイ』トイウヨリモ、ムシロ『ソウシタコトガラ(≪われわれ人間の人間的理性による定義に矛盾スル事柄、主語と述語が矛盾する命題によって表示される事柄≫)ハナサレエナイ』トイウノヲ適当トスルノデアル」、「この理由からして、全能者にとっては、……ご自分と矛盾するであろうことをなし給うことができないばかりでなく、一般的にも、換言すればその創造の領域の中ででも、矛盾を自分自身の中に含んでいる事物、スナワチ(≪人間的理性によって規定された≫)事柄ノ定義ニ矛盾スルコトをなし給うことは不可能である」、それ故に主語と述語が矛盾する命題によって表示される事柄、「起こったことを起こらなかったことに、人間(≪自己身体を座とする生来的に類的機能を有する理性を持った人間≫)を動物(≪単なる動物≫)にすること、内角の和が二直角でない三角形をつくること、半径が等しくない円をつくることは、全能者にとって不可能である」。「ソノヨウナ不可能ナコトヲ神ハナシ給ウコトガデキナイ。シカモコレラノコトガデキナイノハ、神ガ無能力デアルカラデハナク、ムシロ神ガ全能デアリ給ウカラデアル。ナゼナラバ変ワラザル恒常的ナ力ヲモツ方ハ最モ力強クアリ給ウカラデアリ、最上ノ状態ニ保ツノハソノ全能ノ力ニヨルカラデアル」(ポラーヌス)。「これと同じ方向をとって……物事ソレ自体、矛盾ヲ含ンデイナイトイウコトハ、神ガ全能者トシテ実際ニカカワルコトニ先立ツ」という「命題さえあえて主張された」(A・ハイダヌス)。
 前述したように、キリストにあっての「神の全能こそが可能なるものの総内容として理解される代わりに」、先行するわれわれ人間の人間的理性による定義に従って「神の全能が量られることになる絶対的に可能なるもの(≪絶対的に可能なるものは、われわれ人間の人間的理性による定義に従って主語と述語とが矛盾しない命題によって表示される事柄であり、それ故に神の全能性とは、神がそのよう仕方で矛盾しない事柄のすべてを実現し得るそれのことである≫)ないしは不可能なるもの(≪われわれ人間の人間的理性による定義に矛盾スル事柄、主語と述語が矛盾する命題によって表示される事柄≫)という概念は否定されなければならない」――「神ノ能力ノ対象ハ」、「アタカモ神ノ外ニアルソノ可能性ノ原因ヲ、自分自身ノ中ニ、神ノ能力ト意志ノ外ニ、モッテイル何カデアルヨウニ」、「ソレ自身デ可能ナノデハナイ」、「ムシロ、スベテノ可能性ノ基礎デアリ根デアル神ノ能力ト意志ノ中デ可能デアル。ナゼナラバ神以外ノスベテノモノハ、ソノ本質ト現実存在ヲ、神ガソレラヲゴ自分ノ栄光ニ役立タセヨウト意図サレ、ソレラガ存在スルコトヲ欲セラレ、生ジサセ給ウトイウコトカラシテ、モッテイルカラデアル。ソレ故に、神ガゴ自分ノ栄光ヲ輝カスタメニ、欲セラレ、命ジラレ、呼ビ出シ、ナシ給ウコトガデキルコトハ、確カニ可能デアリ、ソレニヒキカエ、ゴ自分ノ栄光ヲ輝カセルタメニ命ジ、呼ビ出シ、ナシ給ウコトガデキナイコトハ不可能デアル。マタワレワレハ、神ノ中ニ可能ナモロモロノ事物ノ本質カラ、ソレラノ目的ニ関シテ――スナワチ、神(ソノモノガ何デアレ、ソノ方カラ、ソノ方ニ向ッテ、ソノ方ノタメニソレハ存在スル、アルイハ存在スルコトガデキル神)ニ栄光ヲ帰スルトイウ目的ニ関シテ――切リ離サレテイル絶対的ナ能力ヲ知ラナイ」(H・ハイデッガー)、ちょうどわれわれは、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(あくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性であるところの聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」と言わなければならないように、またイエス・キリストにおける神の自己啓示・自己顕現におけるキリストにあっての啓示は、われわれ人間に先行して、啓示に固有な証明能力を持っている、キリストの霊である聖霊の証しの力を持っている、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を持っている、全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断(意志)による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の授与能力を持っている、教会の主・頭である啓示者である父なる神の子としての「啓示の実在」そのものとしてのイエス・キリスト自身を起源的な第一の形態の神の言葉とする・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)、換言すれば全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる個体的自己としてのキリスト者の信仰的成果の世代的総和であるキリスト教に固有な類、その時間性としての歴史性の関係と構造(秩序性)を持っていると言わなければならないように。「それと似た仕方で、P・マストリヒト」は、「事物ハ、ガソレヲナスコトガデキルガ故ニ、可能デアル。逆モマタ真デアル。神ガコノコト、アノコトガオデキニナラナイノハ、ソレガモトモト不可能ダトイウ理由カラデハナク、ムシロガソレヲオデキニナラナイガ故ニ、ソレハ不可能デアル」と述べている。
 キリストにあっての神だけが、「ただ神だけが決定的に、神がご自身であるために(≪ご自身の中での神であるために、完全に自存的な独立的な自由な自己存在の神であるために≫)、神ご自身にとって、……それと共にまた、そもそも何が可能であり、何が可能でないかについて、自由に処理し決定するということの中で、神は全能であり給う」。したがって、「神を確証するところのもの、それは、神ご自身にとって可能であり」、それ故にそれは「造られた世界の内部ででも可能である」、ちょうどそれは、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動によって現実的に存在しているように。したがってまた、「神の自己存在に対して逆らうもの、それは、神にとって不可能であり」、それ故にそれは造られた「世界の中ででも……不可能であり、……存在することはできず(≪すなわちそれは現実的に存在することはできず≫)」、それ故にそれはちょうど起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動の<外>において「非現実の中でだけ存在する」。この時、キリストにあっての「神ご自身が、ただ神だけが、何が神を確証するのか」、それ故に「何が可能であるのか」、「何が神に逆らい」、それ故に「不可能であるのかについて、自由に処理し決定し給う」。このような訳で、「神の自由な様々な完全性」の中での「神の不変性と全能」という神の本質の区別を包括した単一性における「神の全能」(「神の力と意志」)は、「スベテノ可能ナルモノノ基礎オヨビ唯一ノ根デアリ」、それ故に「決して……(≪ご自身の中での神としての≫)神ご自身に関しても、あるいは(≪ご自身の中での神として、それからまたわれわれのための神として「外に向かって」のその三つの存在の仕方における≫)神の業に関しても、神にとって可能なものと不可能なものについての、神から区別された(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された≫)より高度な概念に服させられておらず、またそのような概念に対して責任を負うていないということから……成り立っている」。聖書的啓示証言における「神の自由」という概念は、その積極的側面を「強調」しつつ、その積極的側面と消極的側面との総体的構造において定義しなければならない。すなわち、それは、「自己自身である神の自由」としての「自存性の概念(≪自由の概念の積極的側面≫)」と「神とは異なるものによって為されるすべての条件づけ(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された諸概念≫)からの神の自由」としての「独立性の概念(≪自由の概念の消極的側面≫)」との総体性・「全体性」において定義しなければならない。キリストにあっての神は、「その力の中にあるすべてのことをなすことができるということの中で全能であり給う」。したがって、「何らかある可能なるものについての(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された≫)ある概念によって規定されたひとつの力」が、「神の力であるのではない」。「そうではなくて、神は力、ただひとつの唯一の力である。そしてそのようなものとして、すべての可能なるものの総内容であり給う」。しかし、このことは、「被造物的な諸力も、……被造物的に可能なるものの概念も存在しないということを意味しない」。すなわち、「われわれが被造物的力として知っているもの、それは、ただ神の力の中に基礎づけられているが故に、ただその基礎づけに対して誉れを帰する限り」、それ故に「それが神の力に対応し、決して神の力に矛盾しない限りにおいてだけ実在である」、現実的な存在である。「それからまた、被造物的に可能なものの諸概念」は、「2かける2は4であるという命題にいたるまで、またそのような命題と共に、それらの威厳、真理、有効妥当性」を、「自分自身の中に持っているのではなく」、また「そのようなものとして『絶対的に』、換言すれば神の自由と意志と決断から独立して(≪神の自由と意志と決断から遠ざかり離れ去って≫)……立っている人間的な形而上学、論理学、数学の体系の中に持っているのではなく」、「まさにすべての被造物的な力の創造主」、「そのようなものとしてすべての被造物的に可能なるものの根拠、起源」であり、そのようなものとしてすべての被造物的に可能なるものを限界づける「創造主としての神の自由、意志、決断の中に持っている」、ちょうど 『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』によれば、「内被造世界での、……父という呼び名は確かに真実である」が、「非本来的なもの」であり、「神の三位一体的父の名の力と威厳に依存」しているものとして理解されなければならないように。したがって、「被造物に対してではなく」、「創造主なる神に……信頼を寄せる」われわれは、「あらゆる事情の下で」、「被造物の中でではなく」、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方(キリストにあっての神は、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子の中で「創造主として、父として自己啓示」されたのであり、それ故「父なる名の三位一体的特殊性」・「神の三位一体的父の名」・「三位相互内在性」において父だけが創造主なのではなく、第三の存在の仕方である愛に基づく「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊も創造主であり、父も子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主である)である「創造主なる神の中で」、「可能なるものの限界を尋ね求め・見出す……」のであり、「可能なるものの限界を、事実尋ね求め見出さなければならない……」のである。キリストにあっての「神のほかには、それ自身で実在であるものが存在しないように」、またキリストにあっての「神のほかには、それ自身で可能なものは何も存在しない」、「神のほかには、それが自分自身の中で実在であるものとしての神を通して造られ」たのでないような、それ故に「神の中に基礎づけられたのでないような実在的なものは何も存在しない」。このように、キリストにあっての「神のほかには、可能なるものは、それが神によって造られ、神の中に基礎づけられた実在に対応するのでない限り、何も存在しない」。逆に言えば、「それが神によって造られないが故に、それ自身で実在であるものとしての神の中に基礎づけられていないもののほかには、いかなる非実在的なものも存在しない……」、「また、それが神によって創造されず、神の中に基礎づけられていないが故に、それ自身の中にいかなる可能性も持つことができないもののほかには、いかなる不可能なもの、いかなる不条理なものも存在しない」。このような訳で、「可能なるものの限界」は、「自分自身に矛盾するもの」という点にあるのではなく、キリストにあっての「神に矛盾するもの」という点にある。
 このような訳で、例えば、神の側の真実としてある、キリストにあっての「神ご自身が、世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性」としての包括的な救済概念と同じであるイエス・キリストにある「平和」に徹頭徹尾感謝を持って信頼し固執し固着するのではなく、一般的な思惟と語り(民族国家の法的言語や政策的言語)に依拠して(聖書的啓示証言に信頼し固執し固着するのではなく、人間の道徳性・倫理性や民族国家の法的言語・政策的言語に重心を置き混合して)、民族国家の支配上層の倫理性に訴えて平和を祈り願うローマ教皇の思惟と語りと行動、民族国家の法的言語・政策的言語に重心を置いた日本基督教団の「戦争責任の告白」および「平和を求める祈り」における思惟と語りと行動ならびに日本カトリック教会の「抗議声明」における思惟と語りと行動は、不可能性そのものであるだろう、不可能なるものそのものであるだろう。したがって、それらは、神の側の真実としてある包括的な救済概念と同じであるイエス・キリストにある「平和」に徹頭徹尾感謝を持って信頼し固執し固着した(教会論的なキリスト教的人間としての)カール・バルトにおける平和をめぐっての思惟と語りと行動および(人間論的な自然的な人間としての)トータルな世界認識における思惟と語りと行動からしても、不可能性そのものであるだろう、不可能なものそのものであるだろう(12月5日論述、<来日したローマ教皇、カール・バルト、吉本隆明――「平和」の実現等についてのその思惟と語りと行動の差異性をめぐって>を参照)。「創造者が、絶対的に信頼に値することを念頭において、また創造者の絶対的な信頼性に基づいて、被造物相対的に信頼に値することが、そして(≪全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)信仰(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰)の中で出来事となって起こる創造者に対する信頼の中で、被造物の恒常性に対するわれわれと被造物との関係・被造物とわれわれとの関係に対する」、「またわれわれが現にあるところのものとして、現にあるがままの世界の中で引かれている……可能なるものの限界と共に、われわれ自身に対する相対的な信頼が存在するのである」。したがって、この「相対的な信頼」も、被造物それ自身の中に存在するのではない。すなわち、「ただ(≪全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)信仰の中でだけ、被造物の中にではなく、ただ創造主の中に基礎づけられて、この信頼は存在するのである」。したがって、そのような「信仰の中で、この信頼は確かに存在する」、現実的に存在するのである。したがってまた、この「相対的な信頼」は「被造物から由来してこないのであるが、……それは、被造物との関係の中での信頼である」。したがってまた、「それは、神に対して(≪神とは全く異なる被造物の側から≫)どのような限界も引こうと欲することはできない」、「それは、神に対して、神は創造者として、明らかに意志し給わなかったところのことをなすことができたはずであるという考えをもって反逆しない」、「むしろそれは、神が明らかに欲し給うたことの中で、……神によって意志された実在の世界の創造者としての神の行動の中で確証された能力(≪神とは全く異なる神に敵対し神に服従しない・また生来的な自分の理性や感情力や意志力等では全く信じることができない被造物の中で「相対的にできる」能力≫)」、しかしまた「この被造物の中で……(≪キリストにあっての神の≫)絶対的な能力を敬うのである」。このことは、終末論的信仰に引き寄せて言えば、次のように言うことができる――新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」、ここで「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」(われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍)にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある、客観的な現実性として、「成就と執行」として、「永遠的実在」として<すでに>ということである(『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』)。「成就された時間」である「キリスト復活四〇日(使徒行伝1・3)」に引き寄せて言えば、次のように言うことができる――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは(≪キリストの≫)受難の歴史を超えて(≪キリストの≫)甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち「旧約(≪「神の裁きの啓示」、律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」、福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、復活へと向かっている、このキリストの復活・成就された時間は、「新しい世」・時間のはじまりである、われわれはあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)において、敗北者である「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」・世は、「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」・世であるキリスト復活(成就された時間)の出来事における「神の勝利の行為」(絶対的能力)によって包括され止揚され克服されて「そこにある」ことを承認し確認する、またその「神の勝利の行為」(絶対的能力)は、「敗北者もまた依然としてそこにいるところの勝利の行為」(被造物の中での「相対的なできる」能力。しかし絶対的能力は、復活されたキリストの再臨・終末における「完成」という現実的な存在を内在させている)を承認し確認する(『福音と律法』――イエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に対立してはおらず、それ故に律法はキリストの福音を内容とするその福音の形式である、および『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』)。言い換えれば、「われわれは、単に、神に対して、神によって造られた世界に関して、……神が世界を造られ保持し給うことによって、事実選ばれ実現された可能性以外の可能性を帰する契機を持たないばかりでなく」、「われわれは、(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)信仰の中で神に拘束されつつ」、そのような可能性とは異なる「別の可能性を神に帰してゆくゆるしも持っていなければ自由も持っていないのである」、ちょうど神の側の真実としてある平和の概念を包括した「神ご自身によって、イエス・キリストの歴史において、その生涯と死において、すでに完成され(≪成就・完了され≫)、死人からの復活においてすでに啓示されている和解」は、すなわち成就と執行・永遠的実在としてある復活されたキリストの再臨・終末・完成という現実的な存在を内在させた和解とは異なる別の和解を、すなわち人間的理性や人間的欲求やによって企てられた和解を神に帰してゆくゆるしも持っていなければ自由も持っていないように、またそのような神の側の真実としてある可能性とは異なる別の可能性を、例えば別の可能性としての民族国家の法的言語・制度的言語・政策的言語を神に帰してゆくゆるしも持っていなければ自由も持っていないように。「われわれは、神の言葉を通して……われわれが、神の創造の恵み、神が被造物を保持し給う忍耐、神が被造物を支配し給う知恵を問いに付し」、「その代わりに、空想の世界の中で空想の神として支配させることによって、神に栄誉を帰してゆくよう召されていない」。
 このような訳で、「われわれは、例えば神の言葉を通して、神の全能の故に、2かける2は5であり得るという主張をしてゆくよう召されていない」。「そうは言っても、(中略)矛盾法則に対する尊敬の念は、不条理なことから……守ることはできない」。すなわち、「神をおそれるおそれ、神ご自身の故に、また神ご自身を通して、世界をその存在と存在へと召し出し、そのような存在の中で存続させ、妥当させ給う恵み、忍耐、知恵の認識、ただこの(≪「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる≫)認識だけが、われわれを、(≪神とは全く異なる≫)造られた実在と理性の領域の中ででも、最後的な明確さをもって、不可能なことを可能とみなす不条理なことから守ることができる」。「神の全能は、それ自身においても、世界に関しても、決して無制限ではなく」、「ただそれだけが、不可能なるものの可能性を考慮に入れることをわれわれに対して効果的に妨げることができるのであるが」、「それが神の全能であるということを通して規定され」、それ故に「また限界づけられている」。先にも述べたように、「神の力」は、「神に逆らうものに対してそれに立ちまさった仕方で抵抗してゆく力」、「排除する力」、「不可能なものの可能性を自分の足の下に踏みにじる力」、それ故に「ただその限りにおいてだけ」、「この不可能なるものの可能性は神の領域の中にある」し、それ故に「無差別にすべてのことをなすことができるという意味での力の所有は、(≪神の側の真実としてある≫)神の力の拡大ではなくて、むしろ(≪神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという人間的理性や人間的欲求による「わがまま勝手な」「独断的な」≫)神の力の制限、いや、除去である……」。「神の言葉を通して」「神の全能を認識し尊重したいと思う者」(全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を通して「神の全能を認識し尊重したいと思う者)は、この限界づけを堅くとって離さないであろう」。言い換えれば、われわれに対して、「神の言葉の中で」、すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の中で、「神は誰であり、何であり給うかということ」、それ故に「何が神にとって可能であり、また何が神にとって不可能であるかということが語られている」。したがって、「神の全能についての……言明」は、そのことを問う時の標準(原理・規準・法廷・審判者・支配者)としての「神の言葉(≪あの「神の言葉の三形態」の関係と構造における起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、具体的にはその最初の直接的な第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言の中のイエス・キリスト)に基づかせることができなければならない」。したがってまた、「もしもそのことができないならば」、「その時その言明は、神に対して逆らうことになる」、「その時それは、たとえ内容的に神の能力の無限性について大変なこと・最も驚くべきことを語るとしても、神の全能の否定である」、その時それは、「ただ単に人間的に可能なるものの限界を踏み越えてゆくだけでなく、同時に神に栄光を帰することからをわがまま勝手に冒涜することへと移って」ゆく。「もしも人が、あの標準を、すなわち神の言葉に対する服従を問う問いを度外視するならば、もしも可能なるものの限界を神の言葉の中に尋ね求めようとする代わりに、神の言葉と並べて(≪神の言葉から離陸し独立させた≫)絶対化された体系そのものの中で尋ね求めようとするならば」、人は、「体系の原則的な解消」を、「それと共に、被造物的な領域の内部での完全な懐疑と無秩序、狂気の第三帝国の侵入」を「防ぎ守られ」得ないということに、「世界と人間の存在の恒常性に対する相対的な確実さという正当な関心事」を「守れ」得ないということに「よく注意せよ」。「被造物的領域の妥当性のために」、それ故に「被造物的領域の内部でのすべての確実さのためにこそ、可能なるものの限界が、神の言葉によって、(≪神的愛の完全性の中での「神の恵みと神聖性」、「神のあわれみと義」、「神の忍耐と知恵」という神の本質の区別を包括した単一性における≫)神の恵み、あわれみ、忍耐の秩序として保証されていなければならない」。この秩序は、「神ご自身によって自由な決断の中で意志されたが故に、神のよってうち立てられ、神によって保持された秩序として」、「またそれであるから、われわれによって取り上げられ尊重されるべき秩序として、それ故にこそまさにわれわれの空想のいかなる発明(≪結局は最後的には「最も洗練された支配行為に過ぎない」人間の「善意」による「奉仕」としての神と人間についての人間的理性や人間的欲求やによった「わがまま勝手な」「独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法」・独断的に考え出された平和の計画と平和の方法≫)によっても問いに付されてはならない秩序として保証されていなければならない」。このような訳で、「神の全能をそれ自身でそれとして可能なものへと限定する制限についてのトマス的な見方」は、すなわち「神に相対して立っており、同じ平面に立つ相手役および矯正役としての役割を演じなければならないところのそれ自身で・それとして可能なるものを想定しそれと取り組むこと」は、トマスがその「命題でもって排除したいと考えた不安、不確実さの要素をかえって被造物の領域に持ち込むことになるであろうが故に、最後的には拒否されなければならない」。「可能なるものの、現実の・効果的にひかれた限界は、神が、ご自身に対して、それと共にまた世界とわれわれに対して引き給うた限界である」。「ライプニッツが考えたように『神ガソレラガ創造サレルベキコトヲ定メ給ウタ前ニ、理性的ナ被造物ノ性質』が存在したとするならば、また2かける2は4であるということも、全く神の意志の中に、まさにそれであるからこそ、神の全能の中に、神の全能の故に神の創造の業の中に(≪内在的なご自身の中での神としての神が、またわれわれのための神として、「外に向かって」のその存在の仕方の中に≫)基礎づけられていないとしたら、どうしてそれは現実に基礎づけられているであろうか」。「単に自分自身の中でだけ基礎づけられたもの」――「それは、現実に基礎づけられていないであろう」。このような訳で、われわれは、「神の業によっても、神の言葉によっても、別の数学に行くよう呼び出されてはいないことによって」、「われわれが持っているところの数学」、「世界とわれわれ自身の現実存在を前提とするならば、われわれが持つことができる唯一の数学」を、「神のわざと言葉によって、保護され・保証されたものとしてみなしてよいし、またそう見做さなければならないであろう」。したがって、「もしわれわれが、2かける2は5であるという命題を受け入れるという極端なことに走るとしたら、それは、気ままな、気違いじみた態度だと言わなければならない……」。このような訳で、われわれ人間の個・現存性と類・歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる場所」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストの啓示の場所だけである。このイエス・キリストの啓示の場所は、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教が、その一つの機能である神学が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラム(≪「わがまま勝手な」「独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法」・独断的に考え出された平和の計画と平和の方法≫)へと」、「鋭さをなくした十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>に過ぎない神秘主義へと変わって行くこと」が見渡せる場所でもある。したがって、このイエス・キリストの啓示の場所は、万物に質量(重さ)を与える根元であるヒッグス粒子の概念も、「正直に受け取ることができる」場所でもある。このことは、ヒッグス粒子が発見されても、宇宙の謎の90何%以上が未解明のままであると言われているからではない。たとえ宇宙(自然)の謎が100%解明されそれが人間の対象性としての人間的自然となったとしても、それはあくまでも人間によって対象化され客体化された宇宙・自然(人間化された自然、人間的自然、非有機的身体、生産物、観念、知識)であって、神そのものではないからである。すなわち、神そのものは、<常に>、天然自然を含めてそうした人間的自然の<彼岸・外>にあるからである、あり続けるからである。したがって、現在話題になっているiPS細胞(人工多能性幹細胞)についても事情は変わらない。そのiPS細胞に関する科学や技術の進歩発達およびその知識の増大は、自然史的必然に属する事柄(それが良きものであれ・悪しきものであれ、自然史の一部である人類史の自然史的過程における自然史的必然としての自然史的成果)であり、それを出自として時間累積させてきた観念諸形態における法・制度・政策によって遅延させることができても、停滞させたり逆行させたりすることはできないし、またそれは、人間によって対象化された自然、人間的自然でしかないものであるから、われわれは、あくまでもそのようなものとして、ヒッグス粒子の発見やiPS細胞の研究成果(自然史的成果)等を、人間的世俗的真理として正直に受け取ることができるし、受け取らなければならないのである。