カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

22-19『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」

カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」22-19(170-182頁)

 

「六章 神の現実(下) 三十一節 神の自由の様々な完全性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
 神の自由の神性は、神ご自身の中で、またそのすべてのみ業の中で、ひとりでいまし、不変であり、永遠であられるということ、まさにそれと共にまた遍在され、全能であり、栄光に満ちた方であり給うということ、から成り立っており、そのことの中で真であることが確証される(この定式の詳述については、2018年12月28日の記事で行っています)。(3頁)

 

註:客観的な対象として存在している、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)で論じています、参考にしてください。

 

「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」22-19
 われわれは、神の自由の様々な完全性の中での「神の不変性と全能」という神の本質の区別を包括した単一性(「単一性と区別」)における「神の全能」は、「神に固有な力それ自身」であって、換言すればそれは、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、この父が「子として自分を自分から区別した」第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊(この聖霊は、キリストにあっての神にとっての「最高の法則であり、最後的な実在である」「父なる神と子なる神の愛の霊」である)という「父なる名の三位一体的特殊性」・「神の三位一体的父の名」・「三位相互内在性」におけるご自身の中での神としての「神に固有な力それ自身」であって、それ故にそのご自身の中での神のわれわれのための神としての「外に向かって」のその存在の仕方における「神の全能の働き(≪われわれのための神としての「外に向かって」の三つの存在の仕方≫)の中で尽くされてしまわない全能として」、「特定の」、すなわち「内容的に空虚ではなく、内容的に満たされた、中立的ではなく、……全く具体的な能力であるという確認でもって」、「第四の歩みを為す」、換言すれば聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方における内在的なご自身の中での神(「父なる名の三位一体的特殊性」・「神の三位一体的父の名」・「三位相互内在性」)の、われわれのための神としての「外に向かって」のその三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動、活動)、すなわちイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主、「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊――啓示されてあること・三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造、秩序性・救済主なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体としての「全く具体的な能力であるという確認でもって」、「第四の歩みを為す」。先ず以て、徹頭徹尾、キリストにあっての「神は、(≪ご自身の中での神として≫)父、子、聖霊として(≪「父なる名の三位一体的特殊性」・「神の三位一体的父の名」・「三位相互内在性」において≫)、神ご自身であり、ご自分から・ご自分を通して生きることができる。このことが神の全能である」、それ故に「神がそのほかになすことができるすべてのことを、神は、この能力の故になすことができる。いや、さらにそれ以上である。神がそのほかなすことができるすべてのことは、ただこの能力の実証・啓示・適用(≪「外に向かって」の働き≫)でしかない。何故ならば、神がただ単に全能であり給うだけでなく、また全能なるものとして(≪ご自身の中での神として、それからまたわれわれのための神として「外に向かって」のその三つの存在の仕方において≫)全能の働きをなし、……その全能の中で(≪キリストにあっての神は、ご自身の中での神として、それからまたわれわれのための神として「外に向かって」のその三つの存在の仕方において≫)外に向かって、他者との関係の中で力を発揮しつつ働き給う時、この(≪われわれのための神としての「外に向かって」のその三つの存在の仕方における≫)神の働き全体は、ただ(≪ご自身の中での神としての≫)神ご自身の存在の繰り返しから」して、「ただ神がそのことを必要とすることなしに、そのことへと強いられることなしに、今やまた外に向かっても(≪われわれのための神として「外に向かって」のその三つの存在の仕方においても≫)、他者との関係の中ででも、(≪ご自身の中での神として≫)神ご自身であるということから成り立っているからである」。キリストにあっての神は、われわれのための神として「外に向かって」のその三つの存在の仕方において父――啓示者・言葉の語り手・創造主、子――啓示・語り手の言葉・和解主、聖霊――啓示されてあること・あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての全き自由の神の全き自由の愛の行為の出来事全体という「そのすべての行為の中で」、ご自身の中での神として「自分自身であり、自分自身を繰り返し、自分自身に忠実であり続け、忠実なものとしてご自分を実証し給うということ」――このことから、「神のすべての行為の善、力、真理は成り立っているし、まさにそのことの中で、それらは比べもののない……神の言葉と行動である」。したがって、われわれは、「自分自身であり、自分自身を繰り返し、自分自身に忠実であり続け、忠実なものとしてご自分を実証なさることの能力」を、それ故に「神の不変な仕方で生命に満ちたものである能力」を、全き自由の神のその都度の全き自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を通して前述した「神の全能を認識することによって、認識する」。したがってまた、「まさにこの能力の中でこそ、神はすべてのまことの可能性の尺度であり給う。また、まさにすべてのまことの可能性の実現の中でこそ、神はすべてのまことの実在の尺度であり給う」、キリストにあっての「神が、自分自身を繰り返され確証される……ただそのことだけが、実在である」、ちょうど『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』によれば、聖書的啓示証言における神の側の真実としてある「成就された時間」である「キリスト復活の四〇日(使徒行伝一・三)」、「実在の成就された時間であるイエス・キリストの時間」、「イエス・キリストにおける啓示の時間」、「時間の主の時間」だけが、われわれに対して、「われわれ人間の失われた非本来的な古い時間」・世、「問題に満ちた非本来的な失われたわれわれの時間」・世、「否定的判決」がなされたわれわれの時間・世を認識させ自覚させるように、またちょうど『平和に関するバルトの書簡』によれば、神の側の真実としてある「神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性」(神の側の真実としてある、成就と執行、永遠的実在としてのそれ)としてあるイエス・キリストにおける和解・平和(「平和の概念は包括的な救済概念と同じである」)だけが、われわれに対して、和解・平和はわれわれ人間によって「初めて完成(≪成就・完了≫)させねばならないような和解」・平和ではないということを、それ故にわれわれは「平和は戦争より善いものであるということを繰り返し断言しなければならないが、それらのことは究極的に何の助けももたらさないことは明白である」ということを認識させ自覚させるように。「世界と人間とが、神が(≪ご自身の中での神としての≫)ご自分を(≪われわれのための神として「外に向かって」のその三つの存在の仕方において≫)実証する自己実証の舞台、道具、奉仕者であることがゆるされ、あるべきであるためにこそ、神は、世界と人間を創造されたのである」。神的愛の神の完全性の中での「神の恵みと神聖性」という神の本質の区別を包括した単一性(「単一性と区別」)におけるわれわれのための神としての「神の恵み」は、「神が世界の中で、また人間の中で、(≪ご自身の中での神としての≫)神ご自身であることができるといった事情であり続け、また新たにそのことへと来るために、世界の中での虚偽と堕落に対して抵抗する。この抵抗それ自身は、(≪われわれのための神としての「外に向かって」のその三つの存在の仕方における≫)神が今や世界の中で、また人間の中で、いよいよもって(≪ご自身の中での神としての≫)神ご自身であり給うことから成り立っている。そしてまた、救済のみ国の中での神の業のすべての未来における栄光」(下記の【注】を参照)は、換言すれば「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」におけるわれわれのための神としての「外に向かって」のその三つの存在の仕方、すなわち父――啓示者・言葉の語り手・創造主、子――啓示・語り手の言葉・和解主、聖霊――啓示されてあること・あの「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体の「未来における栄光」は、「神がⅠコリント一五・二八によれば『すべての者にあって、すべて』となられること、それ故にもう一度新たに(≪ご自身の中での神としての≫)神ご自身であるであろうことから成り立っている」。このような訳で、ご自身の中での神としての、それからまたわれわれのための神としての「外に向かって」のその三つの存在の仕方の「神のこの実在と何の関りもないこと、神のこの実在に逆らうこと、……神の自己存在に奉仕しようと欲する代わりに、(≪この神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという≫)自分自身の存在を肯定しようとするもの」――「そのものは、不純な、悪魔的な実在であり」、それ故に「それへのすべての能力は不純な、不可能な可能性であるであろう」(『福音と律法』あるいは「バルトの平和に関する書簡」等を参照)。何故ならば、「それは、まさに神の可能性を通して(すべての可能なるものの尺度を通して)排除された可能性であるが故に、それ自身において不可能な可能性である」からである。

 

【注】
 「神は、(ドイツ語はここで、ほかの国語が持っていない表現能力を持っているのであるが)ただ単に主であり給うだけでなく、そのような方として栄光に満ちてい給い、他方すべての栄光は主なる神の栄光であるという認識(≪「栄光」と「主」との総体性・「全体性」においてイエス・キリストは栄光の主であるという認識≫)を遂行しなければならない」。「われわれは、ここで、まさにこの概念でもってはじめなければならない……」。聖書的啓示証言「Ⅰコリント二・八、ヤコブ二・一によれば、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方としての「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリスト」は、「<栄光>(≪聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等≫)の<主>であり給う」――「そのような方として、認識され承認され」ている、すなわち聖書的啓示証言からすれば、主と栄光とを切り離して認識する「切り離し」は存在しない。

 

 前述したような訳で、キリストにあっての「神が『すべてのこと』をなすことができるということ」は、「ただこの『できる』ということで、神ご自身が自分自身(≪「父なる名の三位一体的特殊性」・「神の三位一体的父の名」・「三位相互内在性」においてご自身の中での神≫)であることができるその能力の中で、可能なるものの尺度であるということがよく考慮される限りにおいてだけ」、それ故に「『すべて』ということで、全く単純に、(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された≫)何らかの意味で……『可能なもの』の総和ではなくて、……(≪神の側の真実としてあるものとして≫)神にとって可能なものの、そのようにしてまことに可能なものの総和(≪われわれのための神としてのあの三つの存在の仕方、父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・救済主なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体≫)が理解される限りにおいてだけ」、「言われ得るのである」。すなわち、キリストにあっての「神は、千篇一律的に、何の区別もなしにすべてのことをなし給うことができる」のではなくて、「ただ神にとって(≪ご自身の中での神として≫)(それ故にまことに)可能なことをなすことができるのである」、「それと共に、……(≪ご自身の中での神の、われわれのための神としての「外に向かって」のその三つの存在の仕方における≫)神の全能のいかなる制限も語られているのではなくて、……まさにそのことでもって神の全能が(≪神の自由の様々な完全性の中での「神の不変性と全能」という神の本質の区別を包括した単一性における≫)神の全能として」、それ故に「実在の全能として言い表されているのである」。言い換えれば、「まさに……神が『すべて』をなすことができるのではなく、不可能なものの可能性・無力さの力は、神にとって疎遠であり、(≪ご自身の中での神としての≫)神の本質と(≪それからまたわれわれのための神としての「外に向かって」のその三つの存在の仕方としての≫)働きから排除されているということの中でこそ、(≪神の自由の様々な完全性の中での「神の不変性と全能」という神の本質の区別を包括した単一性における≫)神の全能は全能であり、すべてのものに対する、すべてのものの中での、現実の力である」。キリストにあっての「神の力は、ほかならぬ神にとって可能なこと、そのようにしてまことに可能なことをなす力であり」、「それと共にまた、神にとって(そもそも)不可能なことをしない力である」、それ故に「神の力」は、「神に逆らうものに対してそれに立ちまさった仕方で抵抗してゆく力」、「排除する力である」、「それは、不可能なものの可能性を自分の足の下に踏みにじる力である」。したがって、「ただその限りにおいてだけ」、「この不可能なるものの可能性は神の領域の中にある」(下記の【注】を参照)し、それ故に「無差別にすべてのことをなすことができるという意味での力の所有は、(≪神の側の真実としてある≫)神の力の拡大ではなくて、むしろ(≪神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという人間的理性や人間的欲求やによる「わがまま勝手な」「独断的な」≫)神の力の制限、いや、除去である……」。

 

【注】
 例えば、「平和に関するバルトの書簡」によれば、われわれが、神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」、「永遠的実在」としてあるイエス・キリストにおける和解・平和(「平和の概念は包括的な救済概念と同じである」)に対して、すなわち「神ご自身が世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった(≪客観的≫)現実性」に対して、目と耳を閉ざすのではなく、われわれが全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の中で、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)に信頼し固執し連帯することを通して与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の中で、目と耳を開かれていく「ただその限りにおいてだけ」、「この不可能なるものの可能性は神の領域の中にある」、ちょうど先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、すなわち啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって(≪全き自由の神のその都度の全き自由の恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)に向かっての人間の用意が存在する」するように。

 

 前述したような訳であるから、キリストにあっての「神は、自分自身を変え給うことができるかという問い、そしてもしも神がそのように変えられることができないとしたら、それは神の全能の制限を意味しないかという問いに対して、アウグスティヌスは正しくもこう答えた」――「全能者ガ変ワルコトガデキナイコトガホムベキコトデアルノト同様ニ、全能者ガ死ヌコトモデキナイコトモホムベキコトデアル。何故ナラバ、ソノコトハ、神ニ不足ガアルカラデキナイノデハナク、全能デアリ給ウガ故ニコソ、デキナイカラデアル」。「また、これと同じ線上で、昔の神学全体は、全能の神はうそをつき、自分自身を否定し、罪を犯し、あざむき、死ぬことができるか」、「どの程度までそのようなことができるのかという問いに対して正しい仕方で答えた」――「それらすべては、力ではなく、むしろ無力さである」。「神ハ全能デアリ給ウ。ソノヨウニ全能デアルガ故ニ、神ハ死ニ給ウコトガデキズ、アザムクコトガデキズ、偽リ給ウコトガデキナイ。使徒ガ、『神ハ自分ヲ偽ルコトガデキナイ』(Ⅱテモテ二・一三)ト言ッテイル通リデアル。何ト多クノコトヲ神ハナスコトガデキナイコトデアロウカ。シカモ神ハ全能デアリ給ウ。然リ。神ハ、コレラノコトヲナシ給ウコトガデキナイガ故ニ、全能デアリ給ウ。何故ナラバ、モシモ神ガ死ヌコトガデキルナラバ、神ハ全能デアリ給ワナイデアロウカラ。モシモ偽ッタリ、アザムイタリ、不正ヲナシタリスルコトガ神ニトッテ可能デアルナラバ、神ハ全能デアリ給ワナイデアロウカラ。何故ナラバ、モシモコレラノコトガ神ノ中ニアルナラバ、神ハ全能デアルノニフサワシクナイカラデアル」(アウグスティヌス)。「体系的にもっと完全な形ではこう言われている」――「神はあることをなすことはできない、尊ブベキ方、限リナク、完全ナ尊イ本質デアリ給ウ神ニトッテ、ソノ本性ト本質カラ堕シテ虚無ニ向カウコトヲナシ給ウコトガデキナイノハ、神ノ中ニアル力ガ不足シテイルカラデハナク、ムシロソノ豊カサト完全サノ故デアル。神ガソノ性質ニ矛盾スルコトヲナスコトガデキナイノハ、マサニ神ガ強力デアリ給ウガ故デアル。……神ハゴ自身ヲ、マタソノ完全性ヲ、無能、不具、虚弱サニスルトコロノコトヲナシ給ウコトガデキナイ」(H・ハイデッガー)、「神の意志と行動と関連させながら、神ノ全能ハ神ノ知恵、意志、正義ト分ケラレ得ナイ。神ハゴ自身ノ知恵、意志、正義ト矛盾スルコトヲナシ給ウコトガデキナイ。ソレ故、神ノ力ソノモノハ無限デアルニモカカワラズ、同時ニ神ハソノ知恵ト意志ニヨッテ適当ダト判断サレルコト(≪ご自身が「欲シ給ウコト」≫)シカナシ給ワナイ」(ポラーヌス)。言い換えれば、キリストにあっての「神にとって可能なことの規定および限界が、いずれにしても神ご自身の中で尋ね求められ、見出されるというそのところまでは、すべて正しく、明らかである」。イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての神は、「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする「父なる名の三位一体的特殊性」・「神の三位一体的父の名」・「三位相互内在性」におけるご自身の中での神として、「自分を変えること」はできない、それからわれわれのための神としての「外に向かって」のその「失われない差異性」における三つの存在の仕方において、イエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主、子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主、「父ト子ヨリ出ずる御霊」・聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済主なる神の愛の行為の出来事全体としての神の存在である。