カール・バルト(その生涯と神学の総体像)

22-5『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」

カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」22-5(109-120頁)

 

「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」22-5
 イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現されたキリストにあっての神が、「神によって造られた世界の中で、(≪われわれのための神として≫)世界と共に」、「神によって遂行された和解啓示の歴史、それを通して神が世界を将来の救済へと導かれる」「現実の歴史を持ち給う時」、「そのことは、神の不変な生命の確証および実証として理解されなければならない」、換言すれば「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・創造主、父の子としての第二の存在の仕方であるイエス・キリスト自身――啓示・和解主、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・救済主なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体(神の側の真実としてある神の時間性、救済史)を持ち給う時、「そのことは、神の不変な生命の確証および実証(≪神の自己認識・自己理解・自己規定≫)として理解されなければならない」。「ここでもまた、神は、(≪神の不変性と全能等という神の本質全体の区別を包括した単一性における≫)その不変性によって、この現実の歴史(≪人間の時間、人間の類の時間性≫)の現実の主体であることを妨げられ給わない」、「まさにその不変性の中でこそ、神は、そのような現実の歴史の主体であることができるし、そのような力を持ち、またそうしようとされるのである」、「まさにこの歴史の中でこそ、どのような意味で神が世界の創造主および主であり給うか、どのように世界は事実神の自由な愛の措定であるか、どのように世界は実際神を通して、神の中で存在するかが明らかとなってくる」のである。何故ならば、「造られた世界が神を通して存在しており」、それ故に「決してそれ自身の実在と法則性によって神の支配から逃れ出てしまわないということ」、「この造られた世界は、徹頭徹尾神の統治とみ手の中にあるということ」、「この世界が神の中にあるということ、換言すれば神の実在と違ったその実在の中で神によって支えられているということ、あくまで支えられ続けているということ」、「世界がこの自分のものとなった実在と法則性の故に、神によって忘れ去られてしまうわけではないということ」――このことが、「いずれにしても、この歴史のはじめであり、終わりであり、精髄である」。このような訳で、われわれのための神としての「神が今やまた和解と啓示の業の中で、世界と関わりつつ特別な歴史を持ち給う時、神は決してご自身と矛盾されることはなく、むしろまさに世界の創造主としてご自身を確認し給う」。われわれのための神としての「神がイスラエルおよび教会を相手にし給うこの歴史の中で、それとしての創造の業に対して、現実に新しい何かが舞台に登場するということは明らかである。神の背き、逆らう被造物に相対しての神の行為と態度が、換言すればその背反の故に、この新しい神の存在と行為なしには失われ、滅びに陥ってしまうものの救いが、そこでは問題である」。『教会教義学 神の言葉』によれば、次のように言うことができる――「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある。すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である。すなわち、「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない。すなわち、「和解ないし啓示」は、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストの「新しい神の業」である。それは、「神的な愛の力」・「和解の力」である。イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の「第二の存在の仕方」において「第二の神的行為を遂行」したのである。この神の存在の仕方の差異性における「創造(≪起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父なる神に関わる≫)と和解(≪父の子としての第二の存在の仕方であるイエス・キリスト自身に関わる≫)のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者・言葉の語り手・創造主≫)と言葉(≪啓示・語り手の言葉・和解主≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、「創造主としての父に先行することはできない」。しかし、父、子は共に「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質としているから、この存在の仕方における「従属的な関係」は、「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、「存在の仕方」の差異性を意味しているのである。「創造が無からの創造であるように、 和解は死人の甦り」である。「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」。この神の完全な自由において創造は、「契約の外的根拠」として、イエス・キリストが始原であり中心であり終極である「恵みの契約の歴史のための場所設定」である。また「恵みの契約の歴史」は、「創造の内的根拠」として、創造の目標であるその契約の歴史の始原であり、中心であり、終極であるイエス・キリストご自身である。われわれの究極的包括的総体的永遠的な救済の「完成」は、終末を、神の側の真実としてある、それ故に「成就と執行」としてある、「永遠的実在」としてある、客観的現実性としてある、「成就された時間」である復活したキリストの再臨を待たなければならない。

 

 神と人間との無限の質的差異の下における「神の本質の特徴は、被造物の本質とは違って、ただ単に自分自身に対する矛盾が排除されているというだけでなく、本来的にそのような自己矛盾はあり得ないという」点にあるから、神とは異なる「被造物の場の中で起こっている神に逆らう抵抗の事実は、神ご自身の中でのいかなる矛盾をも意味しない」。「もし聖霊による父と子の間の完全な起源的・決定的な平和がないとしたら、神は神でないことになるであろう」、何故ならば「自分自身と争うような神は、偽りの神でしかない」からである(『教会教義学 神の言葉』においては、次のように述べられている――聖霊は、「父なる神と子なる神の愛の霊」である。ここに、「聖霊の起源」がある。この聖霊において、父と子は、神的共同性としての愛に基づく完全な共存的な関係・交わりの中にある。すなわち、聖霊は、その「交わり」の中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」・啓示者であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」・啓示であるところの「行為」・行動・働き・業・性質である。ここに、神は愛・愛は神であることの根拠がある。「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」である。愛は、自由がそうであったように、神自身においてのみ「実在であり真理」である。この聖霊は、三度目の最後的な第三の存在の仕方として、神にとって最高の法則・愛であって、その愛に基づく起源的な第一の存在の仕方である父と第二の存在の仕方である子との交わり・関係であり、神と人間との交わり・関係の根拠である)。「それとは逆に、(≪神とは異なる≫)被造物の本質の特徴は、神の本質と違って、自分の中に神に対する矛盾と、また同時に自分自身に対する致命的な矛盾が、ただ単に排除されていないだけでなく、可能であるという点にある――もっともこの可能性は、あくまで不可能な可能性であり、被造物が自己を放棄し、滅びに沈んでしまうような可能性でしかないものである」。このような訳で、神とは異なる「被造物が、創造者から背き、失われ滅びに沈むことがあり得るということは、決して創造や被造物の不完全さを意味するものではない」。何故ならば、そのことは、「積極的に言えば、それがまさしく(≪神とは異なる≫)被造物であって」、「ちょうどそれがそもそも存在するようになったのが、ただ創造者の恵みのおかげでしかなかったように」、「今も(≪神とは異なる≫)被造物として神の保持の恵みに頼るよう差し向けられているということ以外の何物も意味していないからである」。したがって、「背反の可能性を免除されている被造物というものは、実際には被造物として存在していない」と言うことができる。人間論的な自然的な人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれ人間は、それ自体としては「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持っていない」から、「神に敵対し神に服従しない」(『教会教義学 神の言葉』)のである、「『自分の理性や力によっては』――全く信じることができない」のである、それ故にもしも人が、「自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう」(『福音主義神学入門』)。「被造物が神に逆らい、また自分自身の存在意義に逆らって、あの不可能な可能性を用いるということから成り立っている罪の負い目は、あくまで(≪神とは異なる≫)被造物の負い目であって、神の負い目ではない」。「この負い目」は、ご自身の中での神の本質からも、われわれのための神としての「創造の本質からも、必然的に生じては来ない」、換言すればそれは、神とは異なる「被造物が、神の保持の恵みを拒否するという不可解な事実からだけ必然的に生じてくる」。「神の恵みを拒否することが、物理的に禁じられているわけではないということは、確かに(≪神とは異なる≫)被造物の本質に属している」、何故ならば、「もしそうでなければ、被造物は(≪神とは異なる≫)被造物としてそもそも存在し得ないし、神の恵みは神の恵みでなくなり、(≪神とは異なる≫)被造物自身が神になってしまわなければならないであろう」からである。

 

 さて「また、神が、≪神とは異なる≫)被造物の抵抗に対し、さらにご自分の側から抵抗をぶつけ給うということからして、神の中ではいかなる矛盾も生じてはこない」のである。キリストにあっての神は、「神であることをやめ給わず」、「世界の創造主および主として、そのようにしてまた罪深い世界の創造主および主として」、「行動することをやめ給うことができないということ……の中で」、神は、神とは異なる「被造物の背反に逆らい給う」、神に背反する神とは異なる被造物に対して、神的「抵抗を遂行」し給う――「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ(≪神とは異なる被造物としての≫)彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ――これが恩寵本来の業である。これこそ、(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示・和解、まことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって(≪「成就された時間」である復活に包括された死において≫)、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ローマ三・二二、ガラテヤ二・一六等の「イエス・キリスト信仰」は、明らかに主格的属格として理解されるべきものである)」(『福音と律法』)。「神が現にあるところのものであることをやめ給わないということ、……そのことの中で、和解と啓示の業全体は遂行されるのである。罪深い被造物の審判者および救助者として、神が何を為さるとしても、神は現にあるところのものとしてそのことを為し給う……」。「神は別な者となることはできないし、別な者となることはない……」。キリストにあっての神は、神的愛の完全性としての神の恵みと神聖性、神のあわれみと義、神の忍耐と知恵、神の自由の完全性としての神の単一性と遍在、神の不変性と全能、神の永遠性と栄光という神の本質全体の区別を包括した単一性において存在する・存在し続ける。この神が、≪神とは異なる≫)被造物の抵抗に対し、さらにご自分の側から抵抗をぶつけ給う「抵抗を続けられ、貫徹されることから、世の抵抗がもたらす災いから救い出されるところの世の救いは成り立っている」。このことこそが、神は、「まさにその啓示の中で、まさに和解主として、まさにイスラエルおよび教会の主として、まさに未来の救済を与え給う主として、啓示され、活動し給う神の不変性」として語られるべきことである。ここで、「旧約聖書の……神は地の果ての創造者であり、弱ることなく、また疲れることのない主(イザヤ四〇・二八)であり給い、限りなき愛をもってイスラエルを愛し、それゆえイスラエルに真実をつくされた主(エレミヤ三一・三)であり給い、たとい山は移り、丘は動いても、神の恵みは移ることなく、平安を与えるその契約は動くことがない(イザヤ五四・一〇)という言葉が思い出されなければならない……」。また新約聖書の「ローマ九・一一、エペソ一・四以下、三・一一、Ⅱテモテ一・九、Ⅰペテロ一・二〇のような……箇所」――すなわち「イエス・キリストにあっての教会に宣べ伝えられた救いが、世界の造られる前から、いや永遠からして、神の中で世の救いのために下された決断にまで遡られている……箇所が思い出されなければならない……」。「神的な和解および啓示が遂行される中で語られ・為されるところのすべてのことは」、すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、起源的な第一の形態の神の言葉――和解主なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事の中で語られ・為されたすべてのことは、「事実、個々の点においてそれが光を意味しようと影を意味しようと、裁きを意味しようと恵みを意味しようと、怒りを意味しようと忍耐を意味しようと、律法を意味しようと福音を意味しようと、一度ですべてにわたって力を奮う仕方で下されたひとつの神的決断……の遂行である」。この、神の側の真実として、神の側から、「高所からして起こり・語れた」、その「神的な和解および啓示」は、「真理と信服させる力を持つのであり、それは、決断を呼び起こし、そのほかの被造物的存在と本質のただ中にあって神的な性格を持っている」。それは、啓示に固有な証明能力を、キリストの霊である聖霊の証しの力を、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動を、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を与える力を、「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性を持っている。したがって、「イスラエルおよび教会の中でのすべての罪、換言すれば恵みに逆らうすべての敵意は、神的語りと行為がよってもって来たるこの由来が見誤られ、疑う人間が神ご自身を移り気なものとみなすということに根差している」。『教会教義学 神の言葉』に即して言えば、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会の宣教が、その思惟と語りが、「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力に信頼しない」ということに根差している、また『説教の本質と実際』に即して言えば、「説教者が、実際の生活にはなお多くのことが必要であって聖書(≪預言者および使徒たちの最初の直接的な第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言≫)は生きるために必要なこと(≪近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍、情報≫)を言いつくしていないと考えるようなことがある限り、彼は、この信頼、信仰を持っておらず、真に信仰によって生きようとしていない」ということに根差している。しかし、キリストの福音は、「われわれの思考や心情の中にあるのではなく、聖書の中にある」から、換言すれば近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や情報の中にはないから、また近代的な人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観の中にはないから、われわれは、「思想」、「最高の習慣、最良の見解、そのようなものいっさい」を、「聖書に聴従することの前で、放棄しなければならない」。その「聖書は(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)神の言葉となる」ところで、「聖書は神の言葉なのである」。したがって、聖書に「聴従」するために、「言葉を与える主」は同時に「信仰を与える主」であるから、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉自身の「出来事」の自己運動を通して、具体的にはその第二の形態の神の言葉である聖書によって導かれなければならないのである。説教者にとって、「彼ら(≪聴衆≫)に語らなければならない彼ら(≪聴衆≫)自身に関する真理」は、「神がすでに為した」「わたしの前にいるこの人々のために、キリストは死に、甦られた」――神、罪深きわれらと共に、ということである。

 

 人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、あくまでも神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいてだけ信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を終末論的限界の下で与えられるのであり、神の不変性と全能という神の本質の区別を包括した単一性における「神の不変性が認識される……ただその時にだけ」、「神の約束を信頼し、神の要求を承認することへと来るのである」。