22-1『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」
カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』吉永正義訳、新教出版社に基づく
『教会教義学 神論Ⅰ/3 六章 神の現実(下)』「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」22-1(94-102頁)
「六章 神の現実(下) 三十一節 神の自由の様々な完全性」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
神の自由の神性は、神ご自身の中で、またそのすべてのみ業の中で、ひとりでいまし、不変であり、永遠であられるということ、まさにそれと共にまた遍在され、全能であり、栄光に満ちた方であり給うということ、から成り立っており、そのことの中で真であることが確証される(この定式の詳述については、2018年12月28日の記事で行っています)。(3頁)
註:客観的な対象として存在している、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性等々については、<カール・バルトの『教会教義学 神の言葉』および著作全般を根本的包括的に原理的に理解するためのキーワードとその内容について――幾つかの註>(2016年6月13日作成)で論じています、参考にしてください。
「三十一節 神の自由の様々な完全性 二 神の不変性と全能」22-1
「われわれは前の分節で到達した結論」を、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現(換言すれば、キリストにあっての神ご自身の自己認識・自己理解・自己規定)された「神は、その完全な自由(≪自存性≫)の中で(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする≫)ひとりの方であり、またまさにそのような方として、神は、(≪ご自身の中での神として≫)ご自身(下記の【注1】を参照)および(≪われわれのための神として≫)存在するすべてのもの(下記の【注2】を参照)に対して、自らその完全な愛の中で現臨し給う」という「命題をもって要約する」。
【注1】隠蔽性・秘義性・不把握性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわちご自身の中での神としての起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、父が子として自分を自分から区別した父の子としての第二の存在の仕方であるイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――この聖霊は、その「交わり」の中で、「父は子の父」、「言葉の語り手」、「啓示者」であり、「子は父の子」、「語り手の言葉」、「啓示」であるところの性質・働き・業・行為・行動であるが、ここに、神は愛であるあるいは愛は神であるということの根拠がある、「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」(三位一体の神の第三の存在の仕方)である。愛は、自由がそうであったように、「神ご自身においてのみ実在であり真理」である。この聖霊は、三度目の最後的な存在の仕方として、神にとって「最高の法則」、「愛」であって、その愛に基づく父の存在の仕方と子の存在の仕方の交わりであり、神と人間との交わりの根拠である。『教会教義学 神の言葉』によれば、このように言うことができる。
【注2】「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわちわれわれのための神としての起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・創造主、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・和解主、第三の存在の仕方である「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊――啓示されてあること(神のその都度の自由な恵みの決断による啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、この認識・信仰の世代的総和がキリスト教に固有な類である、そしてこの類の時間性がキリスト教に固有な歴史性である、すなわち三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性である)・救済主なる神という神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事「全体」において現臨し給う。
さて、「新しい命題」――すなわち「神は不変であり、また全能であり給う」という命題は、「神の単一性と遍在」という「あの第一の命題の必然的な繰り返しおよび確認である」。ここでは、神の本質「全体」の単一性と区別、すなわち神の本質「全体」の区別を包括した単一性における「神の不変性と全能」が問題である。われわれは、「神の自由の様々な完全性」における「不変性」という概念によって神の「完全な自由」(自存性)を、「全能」という概念によって「神が自由であり給う(≪神の側の真実としてある神の≫)完全な愛を言い表している」、ちょうど「神的愛の完全性」における「神の恵みと神聖性」、「神のあわれみと義」、「神の忍耐と知恵」がそうであったように。そうであるならば、あくまでも第二の命題が第一の命題と「同じことを違った仕方で語る限りにおいてである」が(何故ならば、「啓示は例証されようと欲せず、解釈されることを欲する」し、解釈するとは、「別の言葉で同一のことを言うことである」から)、第二の命題は、第一の命題に対して、「どの程度まで……新しく、また必然的であるのであろうか」。われわれは、「変わらない仕方でひとりの方について、また全能の仕方で遍在し給う方について……語った」。これ以外の仕方で、われわれは、「どうして……(≪神の本質の単一性と区別、すなわち神の本質の区別を包括した単一性における≫)神の単一性と遍在について語ること」ができようか。「しかし、まさに(≪一方で≫)今やはっきりと言葉に出して、独立的な仕方で、(≪神の本質の区別を包括した単一性における神の不変性と全能について≫)語らなければならない」。何故ならば、「神の本質」が「そのことを要求しているからであり」、また「神の本質」は、神の本質の区別を包括した単一性における「不変性および全能という概念でもって表示された観点のもとででも見られ理解されることを欲しているからである」、それ故にその概念は、神の本質の区別を包括した単一性における「神の単一性と遍在」という概念に対して「独立的な仕方でも語られなければならない」。何故ならば、「神の本質全体は、またこの観点のもとでも理解されることを欲しているからである」。すなわち、イエス・キリストにおける「神の啓示の中で告げ知らされ、認識可能な神のすべての性質と完全性は、結局、それぞれ同時に、神のひとつの全き本質である」。このことは、「また、(≪神の本質の区別を包括した単一性における≫)神の不変性および全能についても言えることである」。『教会教義学 神の言葉』においては、次のように述べられている――聖書でイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神は、「失われない差異性」の中で三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)において「三度別様」に父、子、聖霊なる神であって、その存在は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「一神」、「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」、「三の対象」、「三つの神的我」ではなく、「失われない差異性」における父、子、聖霊の「三つの存在の仕方」の、「失われない単一性」・神性・永遠性を「存在の本質」とする「一人の同一なる神」、すなわち「三位一体の神」である。したがってまた、「失われない単一性」・神性・永遠性を「存在の本質」とする神の完全さ・自由さは、「失われない差異性」における父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・救済主という「三つの存在の仕方」の完全さ・自由さなのである、換言すれば全き自由の神の愛の行為の出来事全体としての父、子、聖霊なる神の存在の完全さ・自由さなのである。
このような訳で、「人は、神の自由のすべての完全性を、その限りまた神の愛のすべての完全性を、その限りひとつの全き神的本質(下記の【注】を参照)を、……神は不変であり給うということの中で認識することができるし、認識しなければならない」。また、「人は、(≪神の本質の区別を包括した単一性ということを念頭に置いて≫)神が不変であり給うということを認識し語るということでもって、それらすべての完全性を、その限りひとつの全き神的本質を、言い表すことができるし、言い表さなければならない」。キリストにあっての神は、「不変であるということの中で、神とは違うすべてのもの(≪人間を含めた全被造物≫)からご自分を抜きん出たものとして区別し給う」。このことの中で、「神は、ご自身の中で現にあるところのものであり給う」、また「そのことの中で、神は、(≪われわれのための神として≫)……神とは違うすべてのもの(≪人間を含めた全被造物≫)を定め、支配し給う」。キリストにあっての「神は、(≪神の本質の区別を包括した単一性において≫)不変であり給うが故に、そして不変なるものとして、……また全能であり給う」。「また、まさに神は(≪神の本質の区別を包括した単一性において≫)全能であり、全能なるものとして、神はまた不変であり給う」。しかし、われわれは、「今、(≪ご自身の中での神としての≫)神の自由(≪自存性と独立性≫)を見・理解しなければならないが故に」、ご自身の中での神として「神は(≪神の不変性と全能という神の本質の区別を包括した単一性において≫)不変であり給うということを先に提示し、そこから出発することにする」。
【注】「神の自由」という概念は、その積極的側面を「強調」しつつ、その積極的側面と消極的側面との総体性において定義しなければならない。すなわち、それは、「自己自身である神の自由」(ご自身の中での神としての神の自由)としての「自存性の概念(≪自由の概念の積極的側面≫)」と「神とは違うもの(≪異なるもの、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動≫)によって為されるすべての条件づけからの神の自由」としての「独立性の概念(≪自由の概念の消極的側面≫)」との総体性において定義しなければならない。また、われわれは、「神の自由(≪神的自由の完全性≫)に向かう時、絶えず一緒に神の愛(≪神的愛の完全性≫)についても考えなければならない……」。この神の本質の区別を包括した単一性が、われわれを、今度は「神の自由の方向に向けて考察を為すように強いる」のである。「神の自由の神性」は、「神がまさにその自由(≪自存性≫)の中でこそ、まさに自由なる方としてこそ、(≪ご自身の中での神として、すなわち「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」における神として、まさにそのような方としてわれわれのための神として、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造主なる神、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解主なる神、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造、秩序性・救済主なる神として≫)愛する方であり給うということから成り立っており、そのことの中で確証される」。
さて、「神は不変であり給うということは何を意味しているのであろうか」。キリストにあっての「神は、(≪ご自身の中での神として≫)ひとりの、遍在される、ご自身の中でまたすべてのほかのものに対して閉ざされた」、「また(≪ご自身の中での神として、換言すれば「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の三つの存在の仕方、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である父の子としてのイエス・キリスト自身、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊という仕方で≫)ご自身と(≪われわれのための神として、父――啓示者・創造主、子――啓示・和解主、聖霊――啓示されてあること・救済主という仕方で、換言すればその神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体において≫)すべてのほかのものに対して開かれた、ご自身とすべてのほかのものを含み入れる神であり給う」。「神の閉ざされた存在」は、「神が開かれた存在であり」(イエス・キリストは、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間であり)、「ご自身とすべてのほかのもの」を「含み入れることと同様に」、「また神の独一無比性と単純性(下記の【注1】を参照)は、神の場所性と同じように、神ご自身の中に基礎づけられ、神ご自身を通して措定され、保持され、貫徹される」。この場合、「ひとりの遍在する神は、どこまでも現にあるところのものであり続け給う」――これが、「神の不変性である」。「それは、神の自由および愛と抗争しない」。「神の自由と愛」は、「ご自身の中で不変なる方……の自由および愛であるが故に、神的である」、換言すれば「その方の自由からして、ほかの何ごとでもなく、あらゆる事情の下で、ただその方がその方自身であり、ご自身を自分自身として示し確証するであろうことが繰り返し……期待されなければならない方」、また「その方の愛からして、ほかの何ごとでもなく、あらゆる事情の下で、ただその愛が愛として実証され、その方がその愛の中でご自分を確証するであろう……常にそのことだけが、期待されなければならない方の自由および愛であるが故に、神的である」。このような訳で、「神の不変性は、また神の生とも抗争しない」。「ひとりの遍在する神は、生ける神であり給う」。「まさに生ける神としてこそ神ご自身は、いかなる変化にも服させられたり、変化し得るものではなく、あくまでご自身であることをやめ給わない」。「神の生が、ただ単にすべての被造物的な変化の起源であるだけでなく、それ自身の中でまさに別様であること、運動、意志すること、決定することと行為すること、古くなることと新しくなることの満ち溢れであることによって、神は、ご自分の生を、ご自分を永遠に繰り返し確認することの中で、生き給う」。「神の生は、すべてのその形態と効果(≪父、子、聖霊なる神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事全体≫)の中で、神の生であるであろう」。キリストにあっての「神が、ただひとりのまことに現に生き給う方として」、「神の自己は、いかなる除去、いかなる減少、いかなる増大、いかなる自己への逆転も必要とせず、(≪またそのようなことは≫)可能でなく、そのようなものに晒されていない限り」、「……まさにその変化と運動をもった神の生こそが、ただ神がご自分であること、ご自分をその存在の中で措定し、意志し、遂行することをやめ給わないこと」、それ故に「必然性(≪自然、おのずから≫)の中でではなく、自由(≪神ご自身のその都度の自由な恵みの決断、意志≫)と愛の中で」、「あるいはむしろそれによって神がご自身、(≪それが神の本質であるが故にその≫)自由の中で愛するものであることをやめることができない必然性をもって、そのようなことをやめ給わないことから成り立つことができ、まさにその点で、栄光(下記の【注2】を参照)から成り立っている限り」、「ご自分の中にもっている安息から出て安息に戻るであろう。神の生は、そのような安息によって伴われ、担われ、満たされているであろう」。
【注1】「神の単一性(≪「失われない単一性」≫)」――「人は、神の自由のすべての完全性を、その限りその自由の中で実在であり実証される神の愛のすべての完全性を、その限りそもそもそれとしての神的本質のすべての完全性」を、「この一つのこと(≪「単一性」、「失われない単一性」≫)の中で総括することができるし、神が現にあり給うすべてのことを、(人がそのことを正しく理解するならば)まさに神はひとりの方であり給うということでもって言い表すことができる」。このキリストにあっての「神は、ひとりの方であるということ……の中で、ご自分とは違うすべてのもの(≪神とは異なる、人間を含めた全被造物、自然としての人間の自己身体・性としての他者身体、外界としての自然、宇宙を含めた天然自然や人間の身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然との相互規定的な対象的活動を通して人間化された自然である人間的自然・非有機的身体、それ故に「先行するすべての世代からゆずられた材料、資本、生産力」も、対の共同性としての家族も、言語も人間的自然であるし、経済社会構成体も、人工知能も、人間の自己意識・理性・思惟の類的活動の成果としての人間学的な哲学原理・認識論・世界観、人間論、コミュニケーション論等々も人間的自然である、それら≫)からご自分を区別されるし、そのことの中でそのようなすべてのものを支配し、定め給い」、「またそのことの中で、神は、ご自身の中で現にあるところのものであり給う」。したがって、『教会教義学 神の言葉』においては、次のように述べられている――「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、起源的な第一の存在の仕方としての啓示者である父なる神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストが、われわれ人間に対して、聖書および聖書に信頼し固執し連帯した教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によって(≪すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)われわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し承認し確認する、それ故にわれわれは、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として認識し承認し確認する、それ故に「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ことを認識し承認し確認する、それ故にわれわれは、イエス・キリストにおける啓示の場所こそが、われわれ人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であることを認識し承認し確認する、またイエス・キリストにおける啓示の場所こそが、自然神学の段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階にある教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所であることを認識し承認し確認する。
この「失われない単一性」あるいは「単一性という言葉」は、「独一無比性」と「単純性」という「二重の意味を持っている」。われわれが、「失われない単一性」あるいは「単一性を……独一無比性として理解」し、それを「神にとって固有なことであると……言う時」、「ただ神だけが存在するということ」ではなくて、「ただ(≪聖書的啓示証言の中でイエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された≫)神だけが神であり給う」、キリストにあっての「神は、その性質において独一無比であり給う」、すなわち「別な神は存在しない。第二の神も、多くの神々も存在しない」ということを語っているのである。したがって、そうでないものは、「推定上の、あるいは表向きのいわゆる神なるもの」、「すでにこの理由からして、ただ偽りの神、神ではないもの(≪それ故に、「偽りの神」あるいは「神ではないもの」への偶像崇拝でしかないもの≫)でなければならない」。「ただ(≪イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された≫)神だけが生き給う。ただ(≪イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された≫)神だけが愛し給う。ただ(≪イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された≫)神だけが、(≪神の恵みと神聖性、神のあわれみと義、神の忍耐と知恵という神の本質の区別を包括した単一性において≫)恵み深く、あわれみに富み、忍耐強くあり給う。ただ(≪イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された≫)神だけが、(≪神の恵みと神聖性、あわれみと義、忍耐と知恵という神の本質の区別を包括した単一性において≫)神聖にして、義しく、知恵に富み給う。ただ(≪イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された≫)神だけが、そのことが自分の中に含んでいるすべてのことと共に自由(≪自存≫)であり給う。ただ(≪イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された≫)神だけがひとりの方であり唯一であるということが、神にふさわしい意味で力を奮う」。何故ならば、「ただ(≪イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された≫)神の中でだけすべてのことは、また独一無比性は、本質的、起源的、本来的であり、それからこのことに基づいて創造的であり、それであるからそのことは、被造物的な、非独立的な、派生的な、非本来的な仕方で、そのほかの存在にも属することができるからである」、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された「この神が、現にあり、為し給うすべてのことは、……比較を絶した、独一無比な仕方であり、また為し給うということ、それ故に神はご自分に等しいものをお持ちにならず、その際、神に対していかなる競い合いも、敵対的な競い合いも、友好的な競い合いも、対立しておらず、それ故に神の言葉はいかなる抗弁もおそれる必要がなく、神の業はいかなる抵抗もおそれる必要がないということ」、「また神の言葉も業も、(≪神とは異なる≫)別な側(≪神とは異なるわれわれ人間の側≫)からのいかなる援助も、補充も、確認も必要としておらず(≪すなわち人間の側からする神との混淆・混合・協働・共働・折衷を必要としておらず≫)、あるいはそのようなことは初めからできないことであるということの中で、その意味と力を持っており、またそのことと共に立ちもすれば倒れもするからである」。「神は、(≪イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された神≫)ただひとりであり」、この「神のほかにはそれと等しいものはないという命題」以上の「革命的な命題はほかにはない」。何故ならば、神の側の真実としてある、それ故に客観的現実性としてある、永遠的実在としてある「神はただひとりであるという命題の真理とぶつかって、アドルフ・ヒットラーの第三帝国は滅びてしまう」からである。「この命題が、……(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)聞かれ理解されるように語られるならば、……直ちに四五〇人のバアルの祭司たちに肉迫して攻撃するであろう。その時にはまさに近代が寛容と呼んでいることは(≪あるいは多元主義的寛容、多元主義的共生論は≫)、もはやいかなる場所も持つことはできない」、それ故にその時には神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという在り方においては、すなわち「神と並んで」人間もという在り方においては、総括的に言えば自然神学の段階、自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階のキリスト教の在り方においては、「まさに偽りの神々があるだけである」。バルトは、『教会教義学 神の言葉』において、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示――この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪教派、学派、主義、思想傾向、文化傾向、人種、民族、「国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制」、ある社会勢力、ある政治勢力、ある社会的政治的な言説や運動、時流や時勢≫)に仕えなければならないことはない……、(≪すなわち、まさにあの≫)一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」。また、このことを人間学的領域、思想的領域に敷衍すれば、吉本隆明が述べているように、「対立する双方に真理があるというような俗説が、世界史的に流布され、流通している」中で、「自らの立場」において、両者を包括し「止揚しなければならないということが思想的な問題である」(『思想の基準をめぐって』)という認識と自覚が重要なのである。
さて、神の単一性についてのもう一つの命題――すなわち「神は単純であり給うということ」は、イエス・キリストにおいて自己啓示・自己顕現された「神は、現にあり・為し給うことにおいて、全き、分割されない仕方で、ご自身であり給うということを意味している」。この「第二の意味」においても、「神の単一性についての命題」を、「神の自由(≪自存性≫)についての教説の根本命題と呼ぶことができる」。「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」の中でのイエス・キリストの父――三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方・言葉の語り手・啓示者・創造主としての神、子としてのイエス・キリスト自身――父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方・語り手の言葉・啓示・起源的な第一の形態の神の言葉・和解主としての神、愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――第三の存在の仕方・「啓示の中での主観的側面」・人間的主観に実現された神の恵みの出来事(信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰)に基づいて啓示されてあること・「神の言葉の三形態」の関係と構造・救済主としての神という三つの存在の仕方、性質・働き・業・行為・行動、全き自由な神の愛の行為の出来事全体としての神の存在におけるこの神は、「父、子、聖霊の神的位格の相違性の中ででも、ひとりの方であり給う。神は、そのさまざまな完全性のリアルな富の中ででも、ひとりの方であり給う」。前述したように、「神は単純であり給うことによって、ほかと比べようのない仕方で、自由(≪自存≫)で、主権的で、尊厳であり給う」。神の本質の区別を包括した単一性における「神は、(≪その存在の本質、すなわち「失われない単一性」において≫)不変で、永遠であり給うということ」、「また神は(≪その存在の仕方、すなわち「失われない差異性において」≫)遍在され、全能で、栄光に満ち給うということ」は、「神が単純であり給うということの中」に「根ざしており」、「神が単純であり給うということの中で既に措定され含まれている」。何故ならば、「神は、すべての点で主であり給う」からである、「神は、父、子、聖霊として、その本質のリアルな富全体の中で、ご自身の主であり給い、制限されない意味でひとりの方であり給うからである」、「神の(≪「失われない単一性」・神性・永遠性という≫)本質と(≪「失われない単一性」を本質とする「失われない差異性」の中でのその三つの存在の仕方の≫)働きのすべての区別は、ただひとつのことの繰り返しおよび確認であり、またそのひとつのことの中で、(≪「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「神の<内>三位一体的父の名」・「三位相互<内在性>」としてのご自身の中での≫)神が永遠からして、そのようにしてすべての時間の以前からしてあったし、永遠にわたって、そのようにしてすべての時間にわたってあるであろうすべてのことの繰り返しおよび確認でしかないからである」。
「まさに、神の単純性の中にこそ」、「最後的に、その独一無比性が基礎づけられている」。キリストにあっての神の「神性の中には、いかなる横にあるいは前後に並んでの存在もないということ」、それ故に「神と並ぶいかなる神もないということ」、それ故に「神性であり、神的であるすべてのことは、常に神ご自身であり、……常にひとりの方であるということ」――このことが、「まさに、神の単純性を構成しているのである」。この「神の単純性から」、「先ずはあらかじめ……世界に対する神の関係は、いずれにしても(≪混淆的に・混合的に・協働的に・共働的に・折衷的に≫)神が世界と結合する・あるいは融合する・ましてや同一化することとして理解され解釈されてはならないということが結果として生じてくる」、「また、神的なものが、世界の中へと出てゆく溢出、流出、注ぎ出し、突出……はない」ということが結果として生じてくる。したがって、西欧近代を頂点とするモルトマンのヘーゲル主義的な神学的な三段階的進歩史観は、まさに「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」大学社会の神学でしかないものなのである。また、聖書は、聖書的啓示証言によれば徹頭徹尾「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方――すなわち起源的な第一の存在の仕方である啓示者としての父なる神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性も賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」であるのであるが、バルトの『ルドルフ・ブルトマン』によれば、前期ハイデッガーの哲学原理に依拠した実存論的聖書解釈学者・ブルトマンは、近代という「同時代の人たちの思考の前提」を念頭に置いて、「聖書記事」・「新約聖書の使信そのもの」・「その表象形式の神話」を「人間の自己理解の表明」であり、不信・非本来性から信・本来性への「実存的移行」であり、言語によって対象化された「実存の表明」であり、「聖書記者たちの実存的主張(≪「自己表現としての宣教」≫)である」と理解し、それ故にそれはそのように「理解し、解明されなければならない」と主張した、それ故にまたブルトマンは、「神話的世界像と神話的人間像は時代の経過とともに、われわれの前から消え去ってしま」うし、われわれの「眼前存在」・現前性は「近代的な世界像、人間像」にあるから、「神話形式のままでは、新約聖書の言表」、すなわちその「語られた内容の表現は理解できない」から、それは「非神話化されなければならない」と主張した、換言すればブルトマンは、自然神学におけるあるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における常として、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて授与されれる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性を全く後景へと退けてしまったのである、それ故にまた聖書的啓示証言におけるイエス・キリストの十字架処刑も、イエス・キリストの死人からの甦り・復活も、「ケーリュグマと信仰の認識基礎命題ではなく、単なる説明文に過ぎないもの」にしてしまったのである、すなわちブルトマンは現存する「自分自身の歴史」と「現在の解釈を表現」しようとしたのである、すなわち近代主義的に「自己表現としての宣教を企てた」のである。このような点に、聖書解釈における前期ハイデッガーの哲学原理に基づくブルトマンの「絶対的規準としての先行的理解」、「解釈学的原理」がある。このようなブルトマンに対してハイデッガー自身は、そのような人間の自由な自己意識・理性・思惟や欲求やによって対象化された「いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか」と述べ、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」(木田元『ハイデッガーの思想』)と根本的包括的に原理的にブルトマンを揶揄(批判)したのである(換言すれば、ブルトマンを称賛したのは、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)者たちだけだったのである、そしてそれに乗っかかった新しもの好きの牧師やキリスト教的著述家たちだけだったのである)。また、近代主義的プロテスタント主義的キリスト教における信仰・神学・教会の宣教が、「キリストの永遠のまことの神性の告白を信用しない」場合、それは、近代主義的な「視覚的錯覚」に依拠しているからであるが、換言すれば近代的な人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠しているからであるが、この場合「和解」に関して言えば、「赦す神が人間に内在しなければならない」ことになり、その認識自体が自然神学的な「思弁」でしかないものとなるのである。そのような認識の在り方においては、イエス・キリストは、聖書的啓示証言を後景へと退けた、「下からの半神」、「超人」、人間の「最深の本質」・「最高の理想」という「単なる空虚な概念」でしかなくなってしまうのである、あるいはあの「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯しない八木誠一の自然神学的「思弁」に基づく『イエス』に引き寄せて言えば、イエス・キリストは、「ただの人であり、ただの人として自らを自覚し、ただの人の真実のあり方を告げた」ただ人であり、それ故にイエス・キリストは、本来的な人間存在の在り方・範型であるという「単なる空虚な概念」でしかなくなってしまうのである。この八木の思考方法の思弁性について、思想家・吉本隆明は見抜いて、次のように述べている――吉本が八木に対して、「信仰することによって信仰していない者には見えない何か新しい地平線が見える」と「思うけれども、……そこをうまく開陳してみてくれませんか」と尋ねたことに対して、八木は、「かつての自分には見えなかったものが見えてきた」ことが「二つある」と述べている、それは、第一には、「観念的なものに重点を置いて、そっちが真実だと思っていた」が、それは「ほんとは虚しいものなんだ」という点(おそらくこのことは、八木が観念のリアリティの獲得の問題を、科学主義的にか歴史主義的にかその実証可能性においていることを意味しているだろう)、また第二には、「エゴイズム」に依拠して「自分を確かめて自分を知り、たしかめ、また立てようとしていたことが明らかになった」という点(このことはおそらく、企投性としての個・現存性の概念は、不可避な被企投性としての類・歴史的現存性の概念を前提として成立するということを自覚したということだろう。あるいは、人間の存在様式が均質ではないことに気づいたということだろう)、である。この答え方に対して、吉本は、「だけど今の八木さんの説明では、……あらゆる認識が、もし自分自身の体験、それから自分自身の資質というか、そういうものを全部根こそぎ動員して、認識と言うものを追究していくと出てくる問題と、あまり違わない」と疑義を呈し、「それ宗教(≪キリスト教信仰≫)と関係あるかな、ということですね。やはり納得できるように思いません」(問いに対する答えがズレていますね、問いに即した答えが為されていませんね)、と述べたのである(『現代思想11 一九七五年 <新約思想をどうとらえるか>吉本隆明/八木誠一』)。言い換えれば、八木は、滝沢克己等「同時代の人たちの思考の前提」(下記の【注】を参照)、「そこから形成された理解の規準」を全面的に前景化させて、それ故に「十字架につけられ、復活したイエス・キリストにおけるわれわれの実存という場所」において、「われわれの信仰より以前にも、信仰なしでも、……不信仰に抗して」も、「われわれのために生きて、われわれを支配」し、「われわれを愛し給うイエス・キリストを認識し持つことができることを示す」という第一義的な問題を、恣意的独善的に後景へと退けてしまったのである。吉本は、次のようにも述べている――「……<奇蹟>(中略)たとえば、お前は癒された、立てといったら癩患者が立ち上がった……。これは自分流(≪文芸批評、思想≫)の言葉でいえば、比喩なんです。比喩の言葉というのは、あるばあいにはストレートな真実の言葉よりもっと真実を語るということがありうるわけで、これを実在論に還元してしまうと、田川健三はそうだとおもいますが、こんなのでたらめじゃないか、こういういいかげんなことを書いてる本だという以外にないわけです。しかし言葉としての聖書というのは、信仰の書として読んでも、文学書として読んでも、あるいは思想の書として読んでも、どんな読み方をしょうと人間をのめり込ませる力があるとすれば、これは叡知じゃないとこういう ことは言えないという言葉が、そのなかに散らばっているからです。たとえばイエスが、 『鶏が三度なく前に私を否むだろう』と言うと、ペテロはそのとおりなっちゃったみたいなエピソードをとっても、人間の<悪>というのが徹底的にわかっていないとだめだし、心というのがわかっていないとだめだし、同時にこれはすごい言葉なんだというのがなければ、やっぱり感ずるということはないとおもうんです」(吉本隆明『<非知>へ――<信>の構造 対話編』「吉本×末次 滝沢克己をめぐって」)。太宰治も、『正義と微笑』で、次のように述べている――「聖書を読みたくなって来た。こんな、たまらなく、いらいらしている時には、聖書に限るようである。他の本が、みな無味乾燥でひとつも頭にはいって来ない時でも、聖書の言葉だけは、胸にひびく。本当に、たいしたものだ」。バルトは、次のように述べている――「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く。それ故、近代主義にとっては、宣教は、(≪神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な≫)『教会』と呼ばれる人間的な共同体の(≪人間の自由な自己意識・理性・思惟や欲求やによる≫)一つの必然的な生の表現となる」。このような「ヘーゲルの強力な痕跡」を持ったシュライエルマッハーだけでなくそれに類するブルトマン等々のほとんどといってよい多くの神学(宗教論)に対しても、根本的包括的な原理的な批判をフォイエルバッハは為しているのである――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(『キリスト教の本質』)、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質(≪人間の自由な内面の無限性≫)が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」( 『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)。したがってまた、このようなブルトマンやモルトマン等々を評価する者も、同じ穴の狢と言うことができるのである。
【注】この典型は、自然神学者(人間学的哲学的な神学者)である滝沢克己が『カール・バルト研究』で述べた、次のような思惟と語りである――「もはやいかなるキリスト者も、『聖書』や『イエス・キリスト』という名を記憶している人たちさえも、もはやこの地上のどこにも残っていないとしても、それでもなお、『神われらとともに』という事実(≪「根本的事実」、「インマヌエルの事実」≫)にわたしたちが堅く結びつけられているということそのことは、神(≪仏教のように自然を内面の原理とする人類史におけるアジア的日本的な自然原理≫)において永遠に決定されていることなのだ」、それ故に滝沢にとっては、人間イエスの出来事、「イエス自身の言葉と行為」は、第一次的な自然原理、「根本的事実」、「インマヌエルの事実」から生成された「生ける徴」である、すなわち滝沢においては、イエス・キリストは、「失われない単一性」・神性・永遠性を「存在の本質」とはしていないのである。
「昔の教会において為された……神の単純性のための戦い」は、「三位一体性の認識およびイエス・キリストの中での神性と人間性の間の関係の認識のための戦いと同一であった」のだが、「その当時、教会は、神のみ子と聖霊が父と本質が同一である(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質する≫)ことに照らして、またイエス・キリストの中で神的性質が人間的性質と分けられない・しかしまた混同され得ない仕方で一つである単一性(≪イエス・キリストは、「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする三位一体の神の「失われない差異性」の中での第二の存在の仕方、性質、働き、業、行為、行動である、この神の本質の区別を包括した単一性、神の本質の単一性と区別、神の本質の全体性・総体性≫)に照らして、神の単純性を明らかにしたし、また逆に」、神は「全き、分割されない仕方で、ご自身であり給う」、また「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする三位一体の神はその三つの存在の仕方である「父、子、聖霊の神的位格の相違性の中ででも、ひとりの方であり給う」という神の「単純性に照らして、神的本質の中でみ子と聖霊が同じ本質を持ち給うこととイエス・キリストの中での両性が一つである単一性を明らかにした」のである。この神の単純性の認識は、「それとして、神の独一無比性の基礎づけとして、神の完全性の相違性と単一性(≪神の本質の区別を包括した単一性、神の本質の単一性と区別、神の本質の全体性・総体性≫)の説明として、最後に神と被造物の関係を理解してゆくための標準として、放棄されてはならない強固な地盤の上に立っている」。
【注2】「天は、その栄光(≪聖、全能、永遠、力、善、あわれみ、義、遍在、知恵等≫)ある多様性全体の中で、『天において』は、確かに(≪神と人間との間にある、神と神とは異なるすべてのいかなるほかのものとの間にある、無限の質的差異の下で≫)『天を超えて』(≪すなわち地・天、諸天の外・彼岸≫)として理解されなければならない」。したがって、地・天、諸天の外・彼岸にある神の本来的な起源的な場所ではない「天」は、「神によって造られた実在(≪被造物≫)のより高い側面であるが故に」(「『天』は、神によって造られた実在のうちの上なる、不可視的な、精神的な」「その限りより高い側面」であるが故に、それは、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰の場所として、「その限りより高い側面」であるが故に)、「神は、いずれにしてもいと高き方であり」、それ故に「上において尋ね求められなければならないが故に、この『上において』は、神の被造物としてのわれわれにとっていずれにしても今・ここ(≪時間・空間≫)においては、天(≪という概念≫)によってある程度表示され・代表されるが故に」、「その限り、神の厳粛な名は、今・ここ(≪時間・空間≫)において、われわれにとって、『天にいます父』(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「失われない差異性」における三位一体の神の<起源的>な第一の存在の仕方――この父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方であるイエス・キリストの父≫)という名であることができるし、またそのような名でなければならない」。
「イエス・キリストの中で起こったこのイスラエルと教会が嫡子とされるということの宣べ伝えと力の中で、ここでもかしこで、地上的な場所における神のリアルな現臨があったし、今もあるのである。しかし、イエス・キリストの中で、このようにイスラエルと教会が嫡子とされるということが起こったということ」は、「言うまでもなく、イエス・キリストご自身に対しての、イエス・キリストご自身の中での出来事(≪神の存在としての全き自由の神の愛の行為の出来事、啓示・和解≫)と存在(≪啓示・和解、全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)を前提としている」、換言すれば「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示・和解という、全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在を前提としている――仲保者「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。このことは、「イエス・キリストご自身が、結合ノ恵ミニヨッテ、自ら神の子であることに、そのようにしてまた神のリアルな現臨にあずかり給うということ」、「しかも、イスラエルと教会が、神の子供であることと神のリアルな現臨を、『その満ちみちた中から受け取る』ことができ、イスラエルと教会が、イエス・キリストのもとへと連れられて、同じように(後から連れて来られたものとしてであるが)イエス・キリストが現にあり、持ち給うことの宣べ伝えと力(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」≫)の中で、イエス・キリストを通して、イエス・キリストによって、そのようにしてイエス・キリスト共に、神の子供となり、神のリアルな現臨にあずかることができるような仕方で、イエス・キリストご自身が、神の子供であることに、そのようにしてまた神のリアルな現臨にあずかり給うということを前提としている」。このように、「嫡子トスルということは、結合の上に基礎づけられている」。区別を包括した単一性において、「結合ノ恵ミは、神の贈り与える恵みであり、嫡子トスル恵ミは、……贈り与えられた恵みである」。このような仕方で神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)を通して「嫡子トスルということに基づいて、リアルに、象徴的な、サクラメンタルな、霊的な、いずれにしてもイスラエルと教会に贈り与えられた神の現臨がある」。したがって、教会は実体ではない。言い換えれば、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会は、あの「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言)に信頼し固執し連帯して、すなわちそれを原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、教会となることによって教会であろうすることを志向し目指すさなければならないのである。バルトは、『啓示・教会・神学』で次のように述べている――「教会は、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うことを聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」、したがって、そうでない場合は「どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」、と。前述した「神の現臨の中に、……神が再び贈り物として与え給うという仕方で、いたるところ、すべてのもののもとで、嫡子トスルこと」は、「結合……に基づいている」、「まさにそれが、嫡子トスルことを、それと共にすべての特別な、……一般的な神の現臨を両次的な現臨として基礎づけていることによって、ただイエス・キリストの中で(決してそれ以前とそれ以後のいかなるそのほかのことの中ではなく)出来事であり、実在であるところのキリストにあっての神の主要な贈り与える現臨……に基づいている」。「それが、結合と呼ばれ、結合である」のは、「神は、そのみ子の人格(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、言葉の受肉であって、存在の本質としての神性の受肉ではない≫)の中で、イエス・キリストの中で、人間に対して、(ちょうどそのことが、イスラエルの中で起こったし、教会の中で起こったし、今も起こっているように)ただ単にその場にいまし、その啓示と和解の業(≪三位一体の神の第二の存在の仕方における業と行為、働き≫)の関連性の中で、祝福と委任、卑下と高揚、告知と行為の特別な働きかけの中で、彼のもとに、彼のまわりに、彼の中にいますだけでなく、神ご自身この人間イエス・キリストであり給い、まことの神にしてまことの人間であり、変えられない、混ぜられない仕方で」、「また分けられない、切り離せない仕方で」、このメシアにして救い主なる方の人格(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、言葉の受肉であって、存在の本質としての神性の受肉ではない≫)の中にいますからである」。このことこそが、「そのほかのいかなる被造物についても、またいかなる預言者や使徒についても言うことができないことである」。『教会教義学 神の言葉』に即して前述したように、「まことの神にしてまことの人間……イエス・キリスト」――「この結合に基づいて、この結合から区別されて」、そして「それから嫡子トスルことが存在するのである」。
イエス・キリストにおける「人間的なからだ性」、すなわち「被造物的場所性」は、「ただ単に、すべての被造物的な場所性が……神の場所性の中に基礎づけられ、神の場所性を通して造られ」、それ故に「神の場所性によって担われ、すべての側から支えられ・かこまれているだけではないということである」。「イエス・キリストは、ただ単に、一つの本質、もろもろの本質の中での最高の本質」、すなわち「一般的に、特別に、自分について、神の中に生き、動き、存在していると告白することがゆるされる最高の本質であり給うだけではない」。「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの中には、満ちみちている一切の神の徳が(コロサイ二・九)宿っている。『かたちをとって』は、宿っているにつけられた副詞であり、この文章の主語は、『満ちみちている一切の神性』である」。「さらにまた、もっとはっきりとした言い方で、コロサイ一・一九では、『神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ』と言われている」。「これら両方の聖句」は、「その御座の高きところで」、それ故に「天と諸天を超えたところで起こっているような」、「神ご自身がからだをとって本来的に宿ることについて」、「それは、イエス・キリストの中で、ただ単に(そのほかの場合にはそうであるように)被造物の中に神が宿ることの前提であるだけでなく」、「そのようなものとして、(≪あくまでも神と人間との無限の質的差異の下で≫)被造物の中に神が宿ることであると述べている」。「イエス・キリストの中でも、神と、(≪神によって「造られた世界」としての≫)天・地(≪「諸天」≫)……の間には、創造主と被造物の間の区別(≪無限の質的な差異、相違≫)がある」ように、また「神的にして被造物的な領域の中にも、創造主と被造物の間の区別(≪無限の質的な差異、相違≫)がある」。しかし、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストの中には、区別を包括した単一性における「単一性がある」のである。ここにおいて、「創造主は……同時に被造物であり給う」、しかし受肉(言葉の受肉であって、その存在の本質としての神性の受肉ではない)、「神が人間となる」、「僕の姿」、「自分を空しくすること、受難、卑下」は、「神性の放棄」や「神性の減少」を意味するのではなく、「神的姿の隠蔽」・「覆い隠し」を意味している、イエス・キリストは「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間であり給う。言い換えれば、「(この観点から言うならば)創造主は、ここで被造物に対して、ただ単に場所を与え給うたというだけでなく、その最も固有な場所を与え給うた。神は、ここで(≪ナザレのイエスという人間の歴史的形態、すなわちイエス・キリストの名という≫)人間を、その王座につかせ給うた」。ここでは、この「神の最も固有な場所」は、「それ自体、この人間が(≪その復活に包括された≫)飼葉おけと十字架の中で占め給う場所であり」、それ故にその方の「甦りと昇天」における「その方の永続的な場所であるところの場所である」、何故ならばイエス・キリストは、「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間であり給うからである。このような訳で、神の本質の区別を包括した単一性における「キリストの人間的性質」は、そして「ここでは特に、そのからだ性、それ故に場所性」は、「み子の神性とのその単一性の中で(み子の神性とまぜ交わせられず、しかしまたそれから切り離せられず、……それと間接的なリアルな同一性の中で)……それを通してすべてのそのほかの場所が造られ、保持され、めぐり囲まれている神的な場所の啓示であり、……啓示としてまた実在である」。神の本質の区別を包括した単一性における「失われない単一性」・神性・永遠性における「キリストの人間的性質」は、「この神的な場所の証明であり、同時に説明である」。したがって、「人が、キリストの人間的性質の現実性」を、その「神的な性質と単一性の中で真剣に受け取るならば、換言すればすべての粗野な、あるいは洗練された仮現論から脱却して、ヨハネ一・一四『……わたしたちのうちに宿った』をしてそのまま力を奮わせるならば、その時、神の場所性についての昔の誤謬に対してもはや(≪容認し、首肯する≫)余地はないであろう」。「その時、人はまた、その中で聖書が、またキリストの顕現以前と以後の神の啓示の拡がり全体にわたっての、また世界中いたるところに(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を通して≫)神が存在し給う際の、神の場所性について語っている現実性を理解する」。また「その時、人は、神の場所性を否定することを、あるいは……理念化して受け取ることを中止するであろう」。「ここに本来的に住み給う神」は、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「あそこに象徴的に、サクラメント的に、霊的に住み給う」。「まさにここにとどまり給う神は、かしこでは通り過ぎ給う」、すなわち神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」を行われない。キリストにあっての神は、「あそことここで、しかも主要なこととしてここで」――すなわち「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示、「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態の神の言葉である「イエス・キリストの中で、現臨される方と同一である時にだけ」、換言すれば「言葉が、言葉(≪「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの≫)を通して造られ保持されているものとの単一性の中で」(何故ならば、区別を包括した単一性の中で、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二形態の聖書的啓示証言は、起源的な第一の形態の神の言葉に信頼し固執し連帯しているから、それ故に聖書的啓示証言は、イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」として、最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」である。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会は、区別を包括した単一性の中で、神の言葉の起源的な第一の形態、具体的にはその第二の形態に信頼し固執し連帯しなければならないから)、「現臨される方と同一である時にだけ、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)いたるところ現臨される神であり給う」。