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『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「三十節 神的愛の完全性 二神のあわれみと義」(その5-3)-2

カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「三十節 神的愛の完全性 二神のあわれみと義」(その5-3)-2(241-257頁)

 

「三十節 神的愛の完全性 二神のあわれみと義」(その5-3)-2
 前述したような訳で、単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストが信ずる信仰(主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」)としての「神の義を信じる信仰こそが、同時にすべての慰めの源泉であり、人間に対する最も厳格な要求の総内容である」。何故ならば、「この信仰においては、ご自身にふさわしく、ご自身に値することを為し給う神を固く取って離さないということが問題であるからである」、「律法の成就」・「律法の完成」である主なるイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執することが問題であるからである。したがって、「神の義を信じる信仰」は、「必然的に、それ自身で(≪神の側の真実としてある神の義それ自身で≫)、われわれの義に反対し」、徹頭徹尾「神の義に味方して」神の義を選びとる選択と「決断をすることを意味」している。言い換えれば、「われわれが、われわれ自身の義の代わりに」、「神の義」を、すなわち「新約聖書的にさらに正確に言うならば、キリストの義」(<主格的属格>としての「イエス・キリスト<の>信仰」、「律法の成就」・「律法の完成」である主なるイエス・キリスト)を、「われわれのものであらしめる選択と決断をすることを意味している」。「神の義の啓示」は、「事実われわれの身に起こる裁きであり、……われわれが断罪されることであり、……常に繰り返し古き人間の死である」ということである、神の義を信じる「信仰は、われわれがこのわれわれの断罪を、この古い人間の死を、そのまま受け取り、断罪された者として、死んだ者として、自分の義を剥奪された者として」、「自分自身の方から」、神が「われわれの義とわれわれの生命であり給うことによって」、すなわち「全くただひとりこれら両方のものであろうと意志され……ご自分を通してわれわれを義とし給うことによって」、「ご自身とわれわれの間を分け隔てしようとされない神へと逃れることを意味している」。この脈絡において「旧約聖書の中では」、ご自身の中での「神ご自身がご自身の義の中で、助け手および救い主として身を向け給う民として、……徹頭徹尾、圧迫され、抑圧され、権利を奪われ、助けなき」、それ故に「神の助けなしでは敵の圧倒的な力の手に引き渡され、自分自身の力だけでは無力なイスラエルが可視的となるということ」が、そして「そのイスラエルの内部においては特に貧しい、やもめとみなし子が、弱い者と権利のない者が可視的となるということが重要」である。「エッサイの根から生じる若枝は、『主を畏れることを楽しみとし、その目の見ることによって裁きを行わず、その耳の聞くところによって弁護することはない』」。「彼は、人間的な考えによる(≪市民的観点・市民的常識から≫)既に正しいとされている者を正しいとしないであろう」。「彼は、正義をもって貧しい者(≪「弱い人」≫)のために裁き、公平をもって国のうちの柔和な者のために弁護を行い、その口のむちをもって国を撃ち、そのくちびるの息をもって悪しき者(≪逆らう者≫)を殺す」。「そのようなわけで、『正義はその腰の帯となり、忠信(≪「真実」≫)はその身の帯となる』(イザヤ一一・三以下)」。したがって、「神によって要求されており、服従の中で回復される人間的な義」は、すなわち「アモス五・二四によれば、つきない川のようにイスラエルの中に流れ入る義」は、「圧迫された罪なき者、抑圧された貧しい者、寡婦と孤児と他国人に味方して、義を回復させるという性格を持っている」。したがってまた、「神は、その民との諸関係と出来事の内部で」、「常に無条件的に、また熱情的に、……ただこの者たちの側にだけ立ち給う」、「常に高い者に反対し低い者に味方し、……既に自分たちの義を持っている者たちに反対し義を奪い取られた者たちに味方して立ち給う」、「聖書的使信はこの性格を持っている」、それ故に「人は、聖書的使信」を、この性格の方向性において、「自分も責任を取らせられることなしに、聞くことも、信じることもできない」。この観点から言っても、日本基督教団の戦争責任の告白にあるような、身近な大多数の被支配としての一般民衆、一般市民、一般国民をその告白に繰り込むことなく、「まさに国(≪戦争の元凶である一部支配上層の意思によって動員することができる軍事部門を持つ民族国家、私利・私意を精神とする個別的私的現実的な市民社会の観念的法的政治的な共同的疎外態である政治的近代国家≫)を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました」というような告白はできないであろう。また、平和のためにということで同じ土俵で現存する国家の言語である法的政策的言語に即自的に加担しながら(それ故に、それから対象的になり得ていない分、結局は国家の言語に包摂されてしまう)、その教団は、身近な大多数の被支配としての一般民衆、一般市民、一般国民の生活を圧迫する消費税増税論議には反対しなかったのである。したがって、結局は、財政赤字は政府債務残高のことであって、その赤字の責任は全面的に制度としての官僚・政治家・政府支配上層にあるにもかかわらず、その責任を消費税増税必要論で一般民衆、一般市民、一般国民に転嫁することに加担したのである。行動概念から言って、身体的行動だけが行動ではないので、反対の根拠を表明すること自体が、政治的実践なのである。このように、「神の義を信じる信仰からして、直ちに極めて特定の政治的な問題と課題が生じてくる」。このことは、「抽象的ニ政治的傾向について」語ることではない。すなわち、「その全く特定の政治的な問題性と課題が実際に見てとられ、必然的なものとなるということ」は、「人が、神の義、すなわち(神がご自身に対して忠実であられる際の)忠実さは、人間に対する助けと救済として、人間のために救い出しつつ神が割って入られることとして、……貧しい人々、不幸な人々、助けのない困窮した人々のところで、ただそういう人々のところでだけ啓示される」ということを、「他方、神は、それとして富んでいる者、肥えた者、安心しきった者たちとは、ご自分の本質からして何ら関わりを持つことがおできにならないということ」を、「人が見、理解する時に起こるのである」。バルトは、最終的に自ら離脱した宗教的社会主義体験を否定的に総括して、『証人としてのキリスト者』で次のように述べている――「そこでの人間の困窮と人間に対する助けとが、聖書が理解しているほどには、真剣に理解されておらず、深く理解されて」いなかった、と。「神の義」は、「人が勝利を収める何ものをも持たないところで、勝利を収める」、「人間が自分自身においては闇であるところで、光である」、「人間が死の中にあるところで、生命である」。このことは、『福音と律法』では、次のように言われる――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないという こと――これが神の恩寵である」。この「神の義との出会いの中で、われわれすべては、完全に脅かされた、自分自身の力を全く失ったイスラエルの民であり、自分で自分の権利を主張することができないやもめであり、みなし子である」。ここで、神の本質の区別を包括した単一性における「神の義と神のあわれみとの間の関連性が明らかとなる」。「信じる者の義」は、「その者が自分で自分を弁護することができず」、また「誰もその者のために味方となって割って入ることができないが故に」、「神が、(≪われわれのための神として≫)彼のために」、「全面的に割って入り給うということである」。「信じる者の義」における信仰は、「このように、神が(≪われわれのための神として≫)完全に味方しつつ割って入り給うということを……信じる」信仰である、すなわちご自身の中での神としての神自らが「あわれみ給うことを信じる信仰であり」、それ故に「神の前で、貧しい者たち、不幸な者たちが持つ信仰」としての信仰である。「信仰のこの性質からして、ルカによる福音書およびヤコブの手紙によれば、預言者の書物と全く同様に」、「人間は、自分の目の前で貧しく、不幸である全ての人々に対して責任ある者とされているということによって、自分の側でも、正義のために、しかも不正で苦しんでいる人々の正義のために、味方となって割って入るようにと召されているよって、決定的に条件づけられているところの一つの政治的態度が生じてくる」。「何故ならば、彼に対して、それらの人々の中で、彼自身が神の前でどういう人間であるかということが可視的にされるからであり」、「神が、貧しい者、不幸な者としての彼に対して、ご自分を通して、(≪ご自身の中での神として≫)ご自身の義の中で、正しさを造り与え給うということが、(≪われわれのための神として≫)彼のところで為される神の愛の、恵み深い、あわれみ深い行為であるからであり」、「彼が、すべての人間が、神の前に、ただ神ご自身を通してだけ正しさが造り与えられることができるところの者として立っているからである」。したがって、「信仰の中で、このことがまことであるということから生きる者は、そのような者として、政治的な責任性の中に立っている」。この「神の恵みからして生きる」「彼は、正しさ、……人間が他の人、他の人々に対して為すところのすべての実際の主張」が、「恵み深い神の特別の守りの下にあることを知っている」。したがって、『教義学要綱』では次のように言われている――「(中略)キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪現存する民族国家、政治的近代国家、近代国家、自由国家≫)のともがらと成ることができようか」。この「神の恵みからして生きる」「彼は、人間的な正しさを問う問いから身を引くことができない」以上、彼は、人間の現実的社会的な究極的総体的永続的な解放のために、観念の共同性を本質とする法的政治的な国家の無化を伴う国家論(革命論)を構想した上で、あくまでも<相対的>に過渡的に「法治国家(≪法の支配≫)を欲し肯定することができるだけである」。したがって、バルトは、『バルトとの対話』で次のように述べている――あくまでも相対的過渡的にはよい自由および直接民主制と武装永世中立国の「スイスをナチズムからまもるために私は軍隊に参加」し、「両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛」するために、「もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」。この政治的実践あるいは神学的実践の肝要な点は、「かつて語った(≪キリストの福音の≫)説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)おのずから実践に、決断に、行動になって行った」という在り方にある。
 「われわれが今取り組むべきことは、そのことではなく」、「聖書によれば必然的な神の義と貧しさおよび不幸との関連性が示しているように」、(≪神の本質の区別を包括した単一性において≫)「神の義は、それ自身神のあわれみであるということが可視的となるということである」。「まさに(≪ご自身の中での神として≫)義なる方として、神は(≪われわれのための神として≫)あわれみ給うのであり、割って入り、助けのみ手をのべつつ、そのことを徹頭徹尾必要としており、そのことなしには事実滅んでしまうであろう人々に対して、身をかがめて(下記【注】を参照)働きかけ給う」のである。神は、「われわれの義であり給うということ」、神は、自分自身を出自とした「義」を持っていないところの者たち・また自分の中には「義」を持っていないところの者たち、それ故に「彼ら自身の義は神によって不義として正体を暴露されるところの者たち」を「放置し給わず、彼らに対してご自分の神的な義の中でご自分を彼ら自身のものとして与え給い」、それ故に「その上に、彼らが立ち、生きることができる根拠」と為す者たち、すなわち「彼らの功績」や「威厳に反して」、「ただ……神の意志に向かって呼び出され」るところの「神の功績と神の威厳を通してのみ」、「まことに立ち、生きることができる根拠」と為す者たちに、「ご自身を通して正しさを造り与え給うということ」、「そのことの中で、神はご自分に忠実であり給い、そのことの中で、神は為すべきことを為し給い、ご自身にふさわしいことを為し給い、そのことの中で、神はご自分の神的な本質を弁護し、その栄光を輝かし給う」。したがって、「まさに自分の罪(≪神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという不信仰・無神性・真実の罪、「『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」ということ、自分自身の欲求・欲望のために「神の恩寵への嫌悪と回避」を生きているということ≫)を認識し告白する人間こそが、言うまでもなく、まさしく本来的に」、「その者の事柄を神がご自分の義の中でご自身の事柄と為し給うところの貧しい者である」。神の義、神の恵みのみ業に対する信頼にまで至ることが示されている「詩篇一四三・二の願い、『あなたの僕の裁きに携わらいでください。生ける者はひとりもみ前に義とされないからです』」と、「神が正しさを与え給うたところの者、それと共にすべての自分の告発者と敵に対して正しさを獲得した者の信頼」が語られている「詩篇七・九の願い、『主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、わたしを裁いてください』との間にある矛盾は、ただ見かけだけのものである」。「詳しく言うならば、人間は、自分自身に逆らいつつ神を正しとしなければならない、人間は、神を彼(人間)の唯一の義、まさにそのようにしてこそ、彼(人間)の義、彼(人間)のまことの義であらしめるということが示されているのである」。「この意味で」、シオンが自分の希望を誇っているのを聞く(ミカ七・七以下)」。「神ご自身によってすべての異議に対して防ぎ護られたヨブが、それとしての彼自身の正しさそのものについて、抽象的ニ語っているかに、人はよく注意せよ」――「人はどうして神の前に正しくありえようか。よし彼と争おうとしても、千に一つも答えることはできない。彼は心賢く、力強くあられる。だれが彼に向かい、おのれをかたくなにして、栄えた者があるか(ヨブ九・二-四)」・「……わたしのようなものがどうして神に答え、神に対して言うべき言葉を選び出せよう。わたしの方が正しくても、答えることができず、わたしを裁く方に憐れみを乞うだけだ……(九・一二-一六)」・「力に訴えても、見よ。神は強い。正義に訴えても、証人となってくれるものはいない。わたしが正しいと主張しているのに、口をもって背いたことにされる。無垢なのに、曲がった者とされる(九・一九-二〇)」(「九・二九-三三、一四・一-四」)。「嘆き、いや、告訴、辛辣さ、……ヨブの語りの脈絡の中で語られている際の激怒した皮肉は、そのことでもって真理が語られているということについて、何ら事情を変えるものではない」。「見よ、わたしはすでにわたしの立場を言い並べた。わたしは義とされることをみずから知っている。だれかわたしと言い争う事のできる者があろうか。もしあるならば、わたしは黙して死ぬであろう(ヨブ一三・一八-一九)」・「見よ、今でもわたしの証人は天にある。わたしのために保証してくれる者は高いところにある。わたしの友はわたしをあざける。しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。どうか彼が人のために神と弁論し、人とその友との間を裁いてくれるように(一六・一九-二一)」(「一九・二五-二九」)。「ヨブは、まさにすべてのことでもって、(≪「彼の反抗全体の中で、また彼の高慢さ全体の中で、」≫)客観的には真理を語っており」、それ故に「四二・七以下によれば、神の怒りはヨブに対して燃え上がるのではなく、彼の友人たちに対して燃え上がる」のである。何故ならば、「あなたがたが、わたしの僕ヨブのように正しいことをわたしについて述べなかったからである」。何故ならば、ヨブは、「不平を言い、嘲笑的な皮肉をもたらしながらであるにしても、<神の前に自分を罪人として告白した>からであり」、「彼は、再びたとえ無鉄砲な侵害行為なしではないにしても、事実<神の義を彼自身の義として要求した>からである」。「この二重の真理の認識の客観性の中」で、ヨブは、「天国がその者のものである(マタイ五・三)」ところの「まさに霊的に貧しい者の原型である」。「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義からわたしたちを清めてくださる(Ⅰヨハネ一・九)」・「義に飢え渇いている人たちは、幸いである。彼らは満たされる(マタイ五・六)」。

 

【注】「身をかがめること」、「身を屈するとか身分を落として卑下するという形で遂行される身を向けること」、「より高い者が、より低い者に向かって身を向けること」は、「ギリシャ語の恵みの意味の中に、またラテン語の恵みの意味の中に、……ドイツ語の恵みの意味の中に含まれている」。この「身を向けることの中に」、「特に(その中でこの言葉が現れている)旧約聖書的な脈絡がそのことを明らかにしているように」、「神がよき業として人間に対して為し給うすべてのこと、神のまこと、神の忠実さ、神の義、神のあわれみ、神の契約(ダニエル九・四)、あるいはあの使徒の挨拶の言葉によれば、神の平和が含まれている」。「それらすべては、まず第一に、基本的に、神の恵みである」。恵み(「神的な賜物……の総内容」――すなわち「啓示者である父に関わる創造、啓示そのものである子に関わる和解、啓示されてあるものである聖霊に関わる救済」、父、子、聖霊なる神の愛の行為の出来事としての神の存在)は、「確かにきわめて『超自然的な賜物』でもあるが」、それを「与える方自身が」、すなわちご自身の中での神としての「神ご自身が、(≪神の側の真実として≫)自分自身を賜物とすることによって、自分自身、(≪われわれのための神として、神とは異なる≫)他者との交わりの中に赴き」、それ故に「自分自身を他者に相対して愛する者として示し給う限り」、先行してわれわれのための神が「ご自身と……被造物の間に直接交わりを造り出し、保ってゆくこと」であるから、「そのような賜物なのである」。「神が恵みを与え給うことの原型は、神の言葉の受肉、神と人間がイエス・キリストにあって一つであることである」。単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方である「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神ご自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。ここでは、「神と人間の間の第三のものは発生」しない。ここでの「恵みの秘義(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰としてだけ認識可能なそれ≫)と本質」は、次の点にある――「二つのものが、(徹頭徹尾第一のものの意志と力を通して)直接一つのものとなり、神と人間の間のあの直接的な『平和』、パウロが『恵み』という言葉と関連させて、……その内容的な定義として、……しばしば名指すのを常としている『平和』が樹立されるという」点にある。ご自身の中での神として「恵み深い神」と、われわれのための神として「恵み深くあり給う」神との間には、「中間的な領域としての恵みについてのグノーシス主義的に受け取られた考え方が介在することは許されない」。「ここではすべてのことは直接性に」、それ故に「神の存在と行為が実際に神の本質的ナ独自ノ性質として、換言すれば神ご自身として、すなわち神ご自身(≪ご自身の中での神、その存在≫)であり、自分自身を確証(≪自己認識・自己理解・自己規定≫)することによって(≪われわれのための神、その存在として≫)恵み深くあり給う方として、理解されるということによってもってかかっている」。したがって、「旧約聖書と新約聖書の中で、……力を込めて神を指し示しつつ、『わたしの』、『あなたの』、あるいは『彼の』恵みについて語られているのである」。したがってまた、「聖書的な人間は、ただ単に『あなたの恵みにしたがって、わたしをお救いください』(詩篇一〇九・二六)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを覚えてください』(詩篇一〇六・四)、『あなたの恵みにしたがって、わたしを生かしてください』(詩篇一一九・八八)、『あなたの恵みを聞かせてください』(詩篇一四三・八)等々について語られているだけでなく、ほとんどのところで直接、単純に、『わたしに対し恵み深く<あってください>』と言われている」。「それに対して、わたしの知る限り、わたしに恵みを<与えてください>という言い方はどこにも出てこない」。このような訳で、「使徒たちがその教会に対して臨んでいるすべてのことは、よく知られている挨拶の言葉でもって総括」することができる――すなわち、「恵みがあなたがたにあるように」。したがって、「神の言葉は、使徒行伝一四・三、二〇・三二によれば、単純に『恵みの言葉』」と呼ぶことができる。「パウロにおいては、恵み、彼自身の回心、彼の使徒職とその行使、それと共に福音の宣教は、一つのまとまった全体を形作っている」――「神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜った神の恵みは無駄にならず、むしろ、わたしは彼らの中の誰よりも多く働いてきた。しかしそれは、私自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである(Ⅰコリント一五・一〇)。なお、ローマ一・五を参照せよ」、「まさに恵みこそが、包括的に、神が現にあるところの方として、(≪われわれのための神として≫)われわれに身を向け給う際の向け方を特徴的に言い表している」。

 

 「神の前で正しさを持ち、神ご自身がその者の正しさであるが故に、その者の正しさを神が守り給うのは、常に、必然的に、……主観的に罪深い、不正を行っている、不正の立場に追いやられている、そして自分の不正を(≪認識し自覚し≫)承認している民である」。その民は、「イザヤ六四・五によれば」、「汚れた者」であること、その「正しい業」・「正しい行い」も「汚れた着物のようである」ことを認識し自覚し承認している「民である」。「その民は、イザヤ五九・九以下によれば」、「わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。盲人のように壁を手探りし、目をもたない人のように手探りする。真昼にも夕暮れ時のようにつまづき、死人のように暗闇に包まれる。わたしたちは皆、熊のようにうなり、鳩のように声を立てる。正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った。御前に、わたしたちの背きの罪は重く、わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり、わたしたちは自分の咎を知っている。主に対して偽り背き、わたしたちの神から離れ去り、虐げと裏切りを謀り、偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。こうして、<正義>は退き、<恵み>の業は遠くに立つ。まことに広場でよろめき、正しいことは通ることもできない。まことは失われ、悪を避ける者も奪い去られる」と「告白しなければならない」民である。「まさにこの民こそ」が、「神的な答えのもとに立ち、生きることが許されるのである」――「主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った。主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのを驚かれた。主の救いは主の御腕により、主を支えるのは主の恵みの御業。主は恵みの御業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい、熱情を上着として身を包まれた。主は人の業に従って報い、刃向かう者の仇に憤りを表し、敵に報い、島々に報いを返される。西では主のみ名を畏れ、東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように望み、主の霊がその上を吹く。主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。これが、わたしが彼らと結ぶ契約であると、主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口においたわたしの言葉は、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、あなたの子孫の子孫の口からも、今も、そしてとこしえに、離れることはない、と主は言われる(イザヤ五九・一五以下)」。「神が、この民に対してご自分の義を証明し、実証し、それと共に、この民に正しさを与え」、このような「それの正しさを自ら引き受け給うということにまで来るのは、罪の赦し(≪神の恵み、福音≫)を通してであって、それ以外のことではあり得ない」。何故ならば、主なる神は、「(中略)わたし、このわたしは、わたし自身のために、あなたの背きの罪をぬぐい、あなたの罪を思い出さないことにする(イザヤ四三・二二以下)」からである。「このことに基づいて、……福音」は、「そして今、わたしの僕ヤコブよ、わたしの選んだイスラエルよ、聞け。あなたを造り、母の胎内に形づくり、あなたを助ける主は、こう言われる。恐れるな、わたしの僕ヤコブよ。わたしの選んだエシュルンよ。わたしは乾いている地に水を注ぎ、乾いた土地に流れを与える。あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、あなたの末にわたしの祝福を与える。彼らは草の生い茂る中に芽生え、水のほとりの柳のように育つ。ある者は『わたしは主のもの』と言い、ある者はヤコブの名を名乗り、またある者は手に『主のもの』と記し、『イスラエル』をその名とする(イザヤ四四・一以下)」ということを内容としている。したがって、「モーセ(出エジプト三二・一一以下、申命九・二三以下)、ソロモン(Ⅰ列王八章)、ダニエル(ダニエル九・四以下)」は、「神の前で」、「ただ罪を赦す神の恵みを呼び求めつつ」、「神はこの民をまた将来も自ら引き受けられるであろうということをうけがうことができるのである」。「この民が自分の正しさを持つのは、また神が味方しつつ介入し給うことが生起するのは、決してこの民自身の存在、行為、態度に基づいて」ではないし、「それらのことの故にではない」。すなわち、「イスラエルの不忠実(≪不誠実≫)さが神の忠実さ(≪誠実さ≫)を廃棄する(≪無にする≫)ことはできない(ローマ三・三)からであり」、「神の賜物(≪恵みの約束≫)と召しとは取り消されない(ローマ一一・二九)からであり」、それ故に「そのこと」は、「ただ神ご自身の義の故にのみ起こるのである」。「イスラエル自身の存在、行為、態度を見たのでは、神は、ただ裁き、しりぞけ、罰することがおできになるだけである」。しかし、神は、「まさに<この裁き、しりぞけ、罰することの中で>(≪律法、裁きの中で≫)、<そのことと共に、そのことのもとでこそ>ご自分の契約を破棄し給わず、保持し給う」、すなわちこの民を、「<慰め、助け、救い給う>(≪福音、恵みのみ業を為し給う≫)……」、「<裁かれ、しりぞけられ、罰せられたこの民>に、すべての他の民をさしおいて、<義を与え、造り出し給う>……」、「ご自分の民として、ご自分によって<選ばれ、召された民として取り扱う>ことをやめ給わない……」。このような訳で、「徹頭徹尾、罪人タチノ義であり、……全くただ神ご自身の義だけが勝利を収めるのである」。この観点から言っても、ローマ3・22およびガラテヤ2・16等のギリシャ語原典の「イエス・キリストの信仰」の属格は、神の側の真実としてのみある「主格的属格として理解すべきものである」。したがって、「ただ神(≪神の側の真実、忠実、誠実≫)を信じる信仰の中で、罪の赦しを祈り求めるあのモーセ、ソロモン、ダニエルの祈りの中でだけ、イスラエルは主観的にも正しさを持つことができる。詳しく言うならば、イスラエルが、神が味方してくださることと割って入られることのあの約束をつかむならば」、イスラエルは、「イスラエルが約束をつかむことによって、既に約束の成就の中に生きているのであり、イスラエルは自分の敵に屈することなく、あらゆる不幸の中で生き抜くことができるし、生き抜くことが許されるし、生き抜いていくであろう」。何故ならば、「神が味方してくださることと割って入られること」の中には、『信ずる者は慌てる(滅びる)ことはない(イザヤ二八・一六)』という約束を、あるいはルターの翻訳によれば、『信ずる者は逃げることはない』という呼びかけを内に含んでいる」からである。「まさに信じる者こそ」、「ヨブと共に、慰められつつ、神の正しい裁きを待つことが許されるのである」、「彼自身の現実存在それ自身に対する」、「当然……必然的な脅かし全体にもかかわらず、その脅かし全体の中で、彼の負目について……その承認の中で、また自分の罪の告白の中で」、「神の正しい裁きを待つことが許されるのである」、「この正しい神の裁きを法廷……として、それに訴えることが許されるのである」。したがって、「信じる者にとって」、「主の日は、アモス五・一八、ヨエル二・一一、ゼファニヤ一・一四以下に記されているように闇と恐れではなく、光と喜びとなるのである。(≪罪人タチノ義としての≫)義人は、この日に、ローマ一・一七に引用されている、そしてルターにとって重要なものとなったハバクク二・四の言葉によれば、彼の信仰(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)によって生きるであろう。義人ハ信仰ニヨッテ生キル」。

 

 さて、『神の恵みの選び』および『福音と律法』によれば、全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在であるイエス・キリストにおけるインマヌエルの出来事は、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて、生来人間は、「神の恵みに敵対」し、「神の恵みによって生きようとしないが故」に、「このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急」であったことを、われわれ人間に自己認識させるのである。すなわち、その出来事は、「神の選び」を「イエス・キリストの復活」において認識させ、「神の放棄」を「イエス・キリストの十字架」において認識させるのである。福音を内容とする福音の形式である律法を、「真実の罪人」(神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという不信仰・無神性のただ中にある真実の罪人)の手に、「にもかかわらず」与える「積極的な意味」は、「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順のなかに閉じ込めた」が故に、「罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた」という点にある――それは、「罪が死によって支配するに至ったように、恵もまた義によって支配し、わたしたちの主イエス・キリストにより、永遠のいのちを得させるためである」という点にある、そのようなわれわれ人間の「真実の罪」を、イエス・キリストが、われわれ人間のために・われわれ人間に代わって、その死と復活の出来事において、包括し止揚し克服したということ、すなわち福音が勝利したという点にある。ここに福音は、神の側の真実において、「初めて本当に」、「完全に福音本来の姿」として、「完全な勝利の福音」として、「真実の罪人に対する喜びの音信」として客観的に<現実化>したのである、換言すればここにおいて、「福音と律法の真理性」が、徹頭徹尾全面的に、神の側の真実において、客観的に<現実化>したのである、換言すればここにおいて、「福音と律法の真理性」と「福音と律法の現実性」が、区別を包括した単一性において客観的に<現実化>したのである。したがって、われわれ人間の更新を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」「イエス・キリストにある復活の力」のみなのである。したがってまた、この「福音の勝利、恩寵の勝利」とは、われわれ人間の、「真実の罪に対する神の勝利」であり、「律法を悪用する罪に対する神の勝利」であり、「不信仰の罪に対する神の勝利」なのである。したがってまた、このイエス・キリストにおける神の自己啓示は、われわれ人間に対して、赦罪や和解や平和や救済について、われわれ人間から「生ずる現実は何もない」ということを自己認識させるのである。(1)われわれ人間の「真実の罪に対する神の勝利」とは、「福音と律法の現実性」における本来的な勝利の福音の内容のことであって、主格的属格として理解された「イエス・キリストの信仰」(神の義、神の子の義、神自身の義)としてのイエス・キリスト自身に対する真実の罪ゆえに、「地獄に追いやられたままの存在」を、「律法によって殺しつつ、しかも福音によって生かし給う」勝利の福音のことである。したがって、ここにおいてのみ、「律法と福音」という順序は正当なものとなる。イエス・キリストが、「心においても業においても、罪人である」われわれ人間に対して、それにもかかわらず、「彼に対する信仰の生命へと、呼び覚まし給う」のは、イエス・キリストご自身であるということを、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力であるということを、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動であるということを、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」であるということを、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性であるということを、われわれ人間は「強調」しなければならないのである。(2)われわれ人間の「律法を悪用する罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリストが、われわれを「罪と死との法則」である律法から解放した出来事のことである。何故ならば、人間の「不従順・不信仰に抗して、イエス・キリストにあって義とされている」が故に、律法は人間をその不従順・不信仰によって「罪に定めることは出来ない」からである。このように、神の律法が人間を「真に罪に定めない」のであるから、律法は「もはや絶対に『罪と死との法則』」ではないからである。ここで福音を内容とする福音の形式である律法は、第一に、われわれ人間に対して、「罪と死の法則」の律法・「汝斯く斯くなるべし」という要求から、「生命の御霊の法則」・「汝斯く斯くならん」という約束へと回復せしめられる、第二に、「遂行せよ」と求める要求から、「信頼せよ」と求める要求へと回復せしめられる。したがって、われわれ人間は、『生命の御霊の法則』である律法によって「イエス・キリストにあって解放された」のであるから、「われわれが己の解放を与えられるためには、ただ彼に固着し得る」だけなのである。その時、われわれは、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯して、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を、教会の宣教における、その思惟と語りにおける、その実践における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストの福音、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指していくであろう、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していくであろう。(3)われわれ人間の「不信仰の罪に対する神の勝利」とは、イエス・キリストが、「イエス・キリストにあってなし遂げられたわれわれの義認と解放が、われわれ自身の中においても現実となるため」に、われわれ人間に「力と愛と慎との霊を与え給う」出来事である。「力の霊」とは、イエス・キリストにのみ信頼し固着させる霊であり、「愛の霊」とは、イエス・キリストの「御意に従わしめる」霊、「律法の完成」・「律法の成就」であるイエス・キリストに対する愛の霊のことであり、「慎みの霊」とは、われわれ人間が神の要求に対して自己主張し破滅することを防ぐ霊であり、われわれ人間が神を救い主として神を見・神に聞くよう促す霊である。

 

 神は、「イエス・キリストの中でご自分にふさわしいことを啓示し給い、イエス・キリストの中でそのことを為し給う」。「すなわち、神は、イエス・キリストの中で、ご自分が選ばれ、召された者たちに味方して、彼らの義が汚れた衣のようなものであるにもかかわらず、またそういうものであることによって、ご自分の義を啓示し、実証し給う」。「また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた(マタイ九・三六)」。「イエス・キリストの招きは、悔い改めへの招きであり、そのようにして信仰への招きであり、そのようにして天国への招きであり、同時に、心の貧しい人たち、悲しんでいる人たち、義に飢え渇いている人たち、義のために迫害されてきた人たち等々に祝福を与えることである」、「イエス・キリストは、父のみもとにいる罪人の弁護人(Ⅰヨハネ二・一)であり給う。イエス・キリストは、『いつも生きていて彼らのために執り成しておられるので』、彼によって神に来る人々を、完全に救い給う(へブル七・二五、ローマ八・三四)」、主格的属格として理解された「イエス・キリストの信仰」における「律法の完成」・「律法の成就」であるイエス・キリストは、「私たちの義となられた(Ⅰコリント一・三〇)」。この「彼を信じる信仰、イエス・キリストノ信仰は、義なる神が不敬虔な者を義とし給うところの定めであり、彼を信じる信仰こそ、……神が不敬虔な者に義としてそれを帰し給うところの、その中で不敬虔な者がまことに義なる者であるところの信仰である」。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう(マタイ一一・二八)」。