『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「二十九節 神の完全性」(その3-3)-2
カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』吉永正義訳、新教出版社に基づく
『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「二十九節 神の完全性」(その3-3)-2(165-182頁)
「二十九節 神の完全性」(その3-3)-2
(2) われわれは、聖書的概念を構成している「神の本質の……その単一性と区別の中での神の愛と神の自由」に即して、「神的愛の完全性および神的自由の完全性と取り組まねければならない」のであるが、その「神的完全性」を、「ご自身の中での神」と「われわれのための神」・「世界との関係の中での神」という「区分に入れる」時、「誘惑的な仕方で、特別の論理的――認識論的な誘導の試み」に出会う。「ご自身の中での神とわれわれのための神の間の区別」を、「本質的なものとして理解」するならば、先ず第一に、「もしも神の自由(≪自存性≫)」が、「神ご自身とは異なるすべてのもの」に対して、「ご自身の中での神の存在と同一であるとするならば」、「その時には神の自由の完全性」は、「それの対象」が「神とは異なる実在の中で尋ね求める」ことができないのであるから、「その時には、神の自由の完全性」は、神とは異なるすべての「実在を超越することの中で」求められなければならないことになる。しかし、そのように導き出された超越性の概念は、神とは異なる「われわれの概念(≪「人間的な概念そのもの」≫)」であって、それは、「あの全く別な種類の対象に拘束されているのであるから」、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの名」に拘束されているのであるから、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)に絶えず繰り返し聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」(このような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」、この総体性)を志向し目指していくことを後景へと退けてしまった場合には、「そのような超越」も、「それと共に神を言い表すこと」もできない。第二に、「もしも(≪ご自身の中での≫)神の愛」が、「われわれのための神の存在、神によって造られた世界との交わりの中での神の存在(≪先行してわれわれを愛し給う神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)と同一であるならば、その時には」、神の「愛の完全性は、……造られた世界の存在および存在を内容に持っている概念を用いて、……われわれがそれらをいわば延長し、高め、極限にまでもって行き、その最上級にまで高め、その結果、それらの概念がひとつの形態(≪「世界に対して向けられ、世界の中で啓示される神の愛を言い表すことができる」神的なものとされたそれ≫)を得るようになることによって、造られた世界を超越させようと試みること」の中で求められなければならないことになる、ちょうど第三の形態に属する全く人間的な教会の多くが、マタイ26・6-13およびマルコ14・3-9にあるイエス・キリストの究極的な還相からの言葉、親鸞の往相浄土と還相浄土という思想の往還の言葉、宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」・全体が幸せにならなければほんとうの幸せとはならないという『よだかの星』の主題を念頭に置かないで、それだけでなく人類史の原型・母胎であるアフリカ的段階の名残りのあった明治期のアイヌ人の「内在の精神」(イザベラ・バードの『日本奥地紀行』のよれば、アイヌ人は善悪・道徳の観念、高度な宗教を持たないが、誠実、高貴、立派な生活を送っており、またアイヌ人は互いに殺し合う激しい争乱の伝統がなく、総体として「アイヌ人は純潔であり、他人に対して親切であり、正直で崇敬の念が厚く、老人に対して思いやりがある」)というところにまで人類史の時間を遡ることもしないで、社会的な愛の奉仕の積み重ねによって、「造られた世界を超越させようと試み」ているように、それだけでなく国家論(すなわち個体的自己としての全人間の社会的現実的な究極的総体的永続的な解放のために、観念の共同性を本質とする国家の無化を究極像として持つ革命論)を明確に提起することもしないで、一方で平和を求める祈りと平和への政治的実践の積み重ねを標榜しながら、他方ではまさしく戦争の元凶でしかない民族国家を愛せよと標榜し民族国家を温存させるという仕方で「造られた世界を超越させようと試み」ているように。さらに、前述した「両方の可能性は、……補充し合い……基礎づけ合って」、神を「自分だけの存在、またわれわれのための存在の中で、世界に対する」根拠づけとして引き寄せ、それ故にその世界は、「神的根拠の完全性についての否定的および肯定的な証言として見られ、それに基づいて本来は世的な対象性へと向けられていた人間的な概念」を、「神の本質とその完全性を表示する」概念として用いるようになっていくのである、ちょうど「イエス・キリストの出来事(神の国の先取り)」および「終末論的」な「将来的なものの力」としての「御霊」の概念に依拠し、「特殊と普遍」・「救済史と普遍史」とを混淆・混合して、歴史形成論を構想したモルトマンのように。ヘーゲル学者の山崎純は、モルトマンの歴史形成論を、次のように論じている――ヘーゲルにおける神の彼岸性を克服した「神の内なる人間、人間の内なる神という神人一体、神人和解の理念」における宗教とは、人間の自己意識によって対象化された自由と理性の理念である。モルトマンは、このヘーゲルの歴史は自由の概念の実現過程であるということに基づいて、律法・父の国・奴隷 状態の歴史(≪世界史的段階で言えば、自然にまみれた原始未開の段階≫)、恩寵・子の国・神の子供状態(≪世界史的段階で言えば、自然から対象的にはなったけれども、その対象的自然を自己意識・理性・思惟によって対象化して自然から完全に超出でき得ていない・未だ自由を認識し自覚でき得ていないアジア的段階≫)、自由・霊の国・神の友の状態(≪世界史的段階で言えば、自然から完全に超出し自由を獲得した・自由を認識し自覚した西欧的段階≫)という神学的な三段階的進歩史観において救済史を構想した。このような進歩史観は、時代状況が許さないことは自明なこととなっている。ミシェル・フーコーは、次のように述べている――「私に興味があるのは、西欧の合理性の歴史とその限界です……」。「西欧思想の危機と帝国主義の終焉は同じものです」。そうした中で、「時代を画する哲学者は一人もおりません。というのも、……西欧哲学の時代の終焉であるからです」。「西欧とは、世界のある特定の地域であり、世界史上のある特定の時期にあるものです」。その西欧は、近代以降において、「普遍性誕生の場」、すなわち世界普遍性を獲得した地域である。この意味で、「西欧思想の危機とは、すべての人々の関心を引き、すべての人々にかかわり、世界のあらゆる国々の諸思想、あるいは思想一般に影響を及ぼす危機なのです」。「たとえばマルクシズムは、(中略)一つの思想形態……一つの世界ビジョン、一つの社会機構となりました。(中略)マルクシズムは現在、明白な危機のうちにあります。それは西欧思想の危機であり、革命という西欧概念の危機、人間、社会という西欧概念の危機なのです。それはまた全世界にかかわる危機……です(≪何故ならば、西欧は、世界普遍性を獲得した地域であり、人類史が辿り着いた人類史の尖端性にあるからである。したがって、かつてすでに論じたように、世界普遍性を獲得した西欧的段階の現在的問題を考えること――すなわち現在を止揚する問題を考えることは、未来を考えることであると同時に、人類史の原型・母胎・母型――すなわちアフリカ的段階・縄文的段階等にまで時間を遡って考えることでなければならないのである≫)」。同じように、吉本隆明は、次のように述べている――アジア的な日本的特殊性の残存の自覚に基づいて日本の状況について、「現在の日本では骨肉にまで受け入れた西欧近代というものの部分で西欧とおなじ危機に陥っています。その一方で、西欧的にいえばアジア的という概念で括られる思想的伝統、習慣、風俗、社会構成、文化を引きずっています。そうすると、現在日本のもっている危機の意味あいは二重になってきます」、すなわち日本においては、西欧的危機の問題とアジア的・日本的特殊性の問題を構造的同時的に扱う必要がある。
さて、「われわれは、教理史の中で、偽ディオニシウス文書の名の下で有名になった……否定ノ道、際立ッタ道、働キノ道という三重ノ道についての教説」を、「神学的概念形成の方法を提案するそれとして理解」する。「正統主義者たちのうちの多くの者」は、「神の性質を、……否定ノ道の中で規定された性質(≪否定的な性質≫)と際立ッタ道の中で規定された性質(≪肯定的な性質≫)に分けるという……魅力にひきつけられた……」。「シュラエルマッヘルやシュヴァイツアー」は、その否定性と肯定性の「共通的な前提としてあるいは頂点として」「働キの道」を適用した。
「われわれは、ここで、……自然神学の試みと取り組むのではなく」、最善最良の神学的概念形成の「方法と取り組まなければならない」。「ご自身の中での神の存在を表示する」に際して、「否定ノ道」に関して言えば、それは、「神とは異なるものから身を背けることの中で、すなわち世的な対象性を否定すること」の中で、われわれ人間の「超世界的な神」概念の中で、神「自ラシテ、ご自身の中での神の存在へと身を向ける」ということを意味していた。ここに、「否定ノ道」の中で概念規定された神の性質がある。しかし、イエス・キリストにおいて自己啓示された三位一体の神の自由さ・完全さは、単一性・神性・永遠性を本質とする神の自由さ・完全さであるだけでなく、父、子、聖霊の三つの存在の仕方の自由さ・完全さである。したがって、「神の自由は、……ご自身の中での存在におけると同じように世との関係の中でも実在であり」、それ故に「決して否定的な概念を用いて、すべてを尽くす仕方で記述」することはできないのである。すなわち、神は、「われわれのためにいますその存在の中ででも自由であり給う」。また、「肯定ノ道」(「際立ッタ道」)に関して言えば、それは、神の性質を、「世的な対象性から最上級の形」で抽象しようとした「われわれの概念がそのまま世に向けられており」、それ故に「造られた世界をそのように超越する……最高に信頼できない超越」に向けられており、「世の中で啓示された神の愛に向かって急いで近づいて行く」という「最高に信頼できない神を言い表す表示の仕方」である。ここに、「肯定ノ道」(「際立ッタ道」)の中で概念規定された神の性質がある。自存的なキリストにあっての「神は、ご自身」で、すなわち「他者の現実存在との関係を度外視しても」、「愛する者であり給う」。したがって、自存的な「ご自身の中での神の存在にぶつかって」、「否定ノ道」や「肯定ノ道」の中で概念規定された神の性質の「概念……をもって、われわれが、この他者(≪人間の自己意識・理性・思惟が対象化した神≫)を最上級にすることによって超越しようと試みる概念」は「砕け落ちてしまう」のである。「三重ノ道についての教説の確実な真理内容として後に残るもの」は、「自然神学の道を実際」的に志向し目指さないところで、「<ご自身の中での神>と<われわれのための神>の間の区別」に対して、「中立的な仕方で、働キノ道ということでもって、……<正当な仕方>で言おう」とすることができるところのことである。すなわち、それは、次のようなことである――「われわれの、世界に向けられた直観と概念そのもの」は、「必然的に欠けている(≪われわれ人間の≫)内在的な能力の力によってではなく、神的な命令と祝福の力によって」、すなわちあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉を、現存するわれわれの宣教、現存するわれわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」(このような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」――純粋なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、この総体性)を志向し目指すところで、「世界の主としての神を表示することが……でき、……許され」、表示「すべきであるということである」、「そのようにして、神学的な概念になることができ、なることが許され、なるべきであるということである」。ここにおいて、「否定ノ道と肯定ノ道が問題となって」くるのであり、またここに、「論理的な可能性を適用すべき必然性と適用することが許される自由があるのである」。
(3) 「神的完全性」を、「神的完全性(≪神の自由の完全性と神の愛の完全性≫)の二つの系列」(「ご自身の中での神」・ご自身の中での神の存在と「われわれのための神」・われわれのための神の存在・「世界との関係の中での神」という二つの系列)の順序についての思惟と語りにおいて、われわれは、「神の愛について語ろうと神の自由について語ろうと、その満ち溢れの中での主の栄光……を持ったひとりの全き神とかかわらなければならないということは……本当である」。しかし、われわれは、ここで、「全く特定の弁証法」――すなわちあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神「認識(≪啓示認識・啓示信仰≫)の中でわれわれは、事柄そのものの中で起こっている秩序に順応しなければならない」ところの「神の啓示と本質の弁証法……と取り組んでいるという展望を曇らせることはできないし、そのようなことは許されない」のである、ちょうど聖書的啓示証言におけるイエス・キリストは「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ということは、決してわれわれ人間の「恣意に委ねられておらず」、啓示の弁証法として事柄的にそうであるように。
「人は、一般的に……まず第一に、絶対的ナ、静止的ナ、伝達不能ナ属性等々について語り」、それ故に「神的尊厳性の完全性について、……われわれの言葉の使い方では神的自由の完全性について語り」、「それから初めて相対的ナ、活動的ナ、伝達可能ナ属性等々について」、それ故に「神的愛の完全性について語ろうと欲した」のであるが、その場合、「神の啓示と本質の弁証法」は、「伝統の中ではほとんど仕損じられたということは否定することはできないこと」なのである。「昔の教会的な神論全体の(≪「唯名論あるいは半唯名論」の≫)根本的な欠陥」は、一般的に「まず第一に神の本質、それから神の三位一体性という配列の仕方」――「この順序から当然結果として起こって」くる「曖昧性と欠陥」を伴った「配列の仕方の中に反映されている」(前回の「二十九節 神の完全性」(その3-2)-1の【注】――唯名論・半有名論の論述を参照)」。「最後に、昔の教会的な神論の神概念の事柄から言って最も憂慮すべき点」は、キリストにあっての神が、「まず第一に本来的にご自身の中で非人格的な絶対者」として概念規定され、「それから初めて、非本来的な仕方で、外に向かって、その知恵、義、あわれみ等々の中で愛の人格的な神」として概念規定された、その「配列の仕方」、「順序」にある。「この順序は、啓示の秩序(≪三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――創造主・啓示者、父が子として自分を自分から区別した第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――和解主・啓示・起源的な第一の形態の神の言葉、愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である聖霊――救済主・啓示されてあること≫)にも、その啓示(≪三位一体の神の第二の存在の仕方≫)の中での認識可能な神の本質(≪三位一体の神の第二の存在の仕方において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰が可能であるそれ≫)の秩序にも対応しない」ものなのである。「そうではなくて、まず第一に、(≪イエス・キリストにおける≫)神の啓示の中では、神の顕われが事柄的に言って第一のものおよび最後のものであり、神の道の起源であり終わり」なのである。イエス・キリストにおける「神の啓示(≪神の自己啓示・自己顕現≫)は、まず第一に最後的に、福音、喜ばしい使信、神の恵みの言葉および行為である」、神の存在としての神の愛の行為の出来事である。この出来事は、神の「顕われ」と「隠れ」という啓示の弁証法の下で起こっている。したがって、キリストにあっての神は、「ご自身を啓示し給うことによって」、「すべての秘義の秘義としてご自身を証明される」ということである、すなわち「神の全能と永遠性、神の隠れ、尊厳性の啓示」でもあるということである、「福音がわれわれにとって律法(≪律法はキリストの福音を内容とする福音の形式である≫)および審きとなる」ということである(≪ちょうど福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち「旧約」――「神の裁きの啓示」・律法から「新約」――「神の恵みの啓示」・福音へのキリストの十字架でもって終わる古い世」は、復活へと、神の側の真実としてある新しい世へと向かっているというように≫)、「われわれの罪と無力さ」、それ故に「神から隔たったわれわれの距離」、それ故に「神ご自身ではないすべてのものに相対しての(≪神と人間との無限の質的差異における≫)神の至高性」を啓示し給うということである。このようにして、啓示の弁証法において、「神の秘義が開示されること(≪神の自己顕現≫)によって、それは秘義(≪隠れ・隠蔽性・秘義性≫)として明らかとなる」。キリストにあっての神は、啓示の弁証法において、「初めて、……ご自身を顕わされることによって、……またご自身を隠し給う」、「初めて、……語り、行動されることによって、神の全能と永遠性がわれわれにとって実在となる」、「初めて、……ご自身をわれわれに対して愛する者(≪神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)として与えられることによって、同時にまた神はその聖なる自由(≪自存性≫)の中でわれわれから身を引き給う」、「初めて、……福音の力の中で、われわれにとって神的なものとして拘束し、義務づける律法(≪福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請≫)があるし、われわれの罪の認識が、それと共にそれに基づいて、われわれの被造物性の、神から隔たったわれわれの距離の認識(≪神と人間との無限の質的差異の認識と自覚≫)が、そのようにしてご自身の中で(≪ご自身の中での神≫)の、そして神ご自身ではないすべてのものに相対しての神(≪われわれのための神≫)の、至高性の認識がある」。聖書的啓示証言でイエス・キリストにおいて自己啓示された神は、「失われない差異性」の中で三つの存在の仕方(性質、働き、業、行為、行動)において三度別様に父、子、聖霊なる神であって、その存在は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「一神」・「一人の同一なる神」である。したがって、「三神」・「三の対象」・「三つの神的我」・「三つの神性」ではなく、父、子、聖霊という「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方の、「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする「一人の同一なる神」、すなわち三位一体の神なのである。したがってまた、「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質とする神の完全さ・自由さは、父、子、聖霊という「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方の完全さ・自由さなのである。聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の<内>三位一体的特殊性」・「三位相互<内在性>」において、イエス・キリストの父は子として「自分を自分から区別」するし自己啓示する神(言葉の語り手・啓示者)として自分自身が根源である。したがって、その区別された第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト(≪語り手の言葉・啓示・起源的な第一の形態の神の言葉≫)は父が根源であり、愛に基づく父と子の交わりである第三の存在の仕方である聖霊は父と子が根源である。この神は、子としてのイエス・キリストの中で「創造主として、われわれの父」として自己啓示する。この神は「失われない単一性」・神性・永遠性を存在の本質としているから、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主である、同様に、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである。また、イエス・キリストは、和解主として、順序的に創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方(啓示・和解)において「第二の神的行為」を遂行したのである。この神の存在の仕方の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示、起源的な第一の形態の神の言葉≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」は、順序的に「創造主としての父」に先行することはできないのである。しかし、父と子は共に神ご自身のその存在において「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、その存在の本質の差異性を意味しているのではなく、その存在の仕方の差異性を意味しているのである。したがって、「神の啓示の秩序を堅くとって離さないでいる神の本質とその完全性についての認識は、この順序を堅くとって離さない」のである。このことと同じことは、「神の啓示の中で認識可能な神の本質(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、「イエス・キリストの名」、神の第二の存在の仕方において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示であるということ≫)を念頭に置いても、結果として生じてくる」。われわれは、その自存性において、その自由さ・完全さにおいて、「愛し給う者、換言すればわれわれを愛し、しかしまたご自身の中で愛し給う者、交わりを基礎づけ、保持し、実証する者であること」が、「神の本質であるということを見た」。キリストにあっての「神は、自由なる者として、その自由の中で、ご自身からして、ご自分を通して、ご自身の中で存在する者として」、それ故に神とは異なるすべての「他者によって条件づけられず」、逆に神とは異なる「すべての他者を条件づけつつ自ら存在する方として、そのようなものであり給う」。したがって、「神は、尊厳性、全能、永遠性の中でそのようなものであり給う」。キリストにあっての「神は、自存的な神としてそのようなものであり給う。神は、まさにその自由の中で愛する方であり給う。したがって、神の神性は、それが神の自由として理解されるべきである限り、神の愛(≪神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)の神性である」。「人格的な三位一体の神として、神は自存的な神であり給う」。「神は、まさにその自由の中で愛する方であり給う」ということを逆な順序ででも語らなければならない時、先ず以て「人格的な三位一体の神として神は自存的な神であり給う」――このことに基づいて「愛する方として神は自由な方である」ということができる。われわれ人間の神認識について言えば、キリストにあっての神は、「ご自身の中で愛する者であり給うことによって」、それ故に先行して「神がわれわれを愛し給うことによって」、「神は、(≪啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて、終末論的限界の下で≫)完全に認識可能である」が、しかし、キリストにあっての神が、「ご自身の中で<自由>(≪自存≫)なる者であり給うことによって」、それ故に先行して「神がわれわれをその<自由>(≪自存≫)の中で愛し給うことによって」、「神は、われわれにとって完全に認識不可能である」。三位一体の根本命題に即して理解すれば、イエス・キリストのその存在は「失われない単一性」・神性・永遠性を本質としている、それ故に「啓示の出来事においてはじめて神の子」、起源的な第一の形態の「神の言葉」となるのではなく、「父を啓示するもの」として、そして「われわれを父と和解させるもの」として、「イエス・キリストは神の子」、起源的な第一の形態の神の言葉、神の第二の存在の仕方なのである。そのキリストの<神性>は、「啓示および和解におけるキリストの行為の中で認識」することができる。すなわち、その啓示と和解(第二の存在の仕方)がキリストの<神性>の根拠ではなくて、その存在の本質であるキリストの<神性>が「啓示と和解を生じさせる」のである。ここに一切合財があるのであって、「赦す神」はたとえその人がまことの人間であっても人間に内在することは決してないのである。