『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 三 自由の中での神の存在」(その3-1)-1
カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』吉永正義訳、新教出版社に基づく
『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 三 自由の中での神の存在」(その3-1)-1(81-96頁)
引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、注意はしており、見つけた場合には速やかに訂正をしておりますが、引用上の不備、勘違いによる不備、誤字脱字等の不備について、もしそうしたことがありました場合にはご容赦ください)・(しかし、その論述内容については、少なくともカール・バルトに関しては、根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます。したがって、そうした論述の積み重ねの中で、その内容についての表現の仕方の練り直しと的確化だけでなく、その内容の深化と豊富化が為されていると考えます。また、吉本隆明に関しても、まだ補充すべき点はいろいろあるとしても根本的包括的な原理的な誤謬は犯していないと考えます)・(最後に、indemについてだけは、2017年3月12日以降、吉永正義訳の「……する間に」をすべて、井上良雄的に「……することによって」というように引用し直しています。なぜならば、その方がその文章内容をイメージし理解しやすいからです)
「六章 神の現実 二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在」
「六章 神の現実 二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在」について、バルトは、次のような定式化を行っている。
神はその啓示の中で、現にあるところの方であり給う。神はご自身とわれわれとの間の交わりを求め、造り出し、そのようにしてわれわれを愛し給う。しかし神はまた、われわれなしにも、ご自身からして自分の生命を持つ主の自由の中で、父、子、聖霊として、まさにこの愛する方であり給う。(3頁)
〔この定式の詳述〕
この定式の詳述については、『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 一 行為の中での神の存在」(その3-1)で行っていますので、参照してください(2017年11月16日論述分)。
「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 三 自由の中での神の存在」(その3-1)-1
「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異の下で「神は神である」(『ローマ書』)、「神の本質は、神の本質である」、「神の行為(≪の出来事≫)は、神の行為(≪の出来事≫)である」、すなわち神の行為の出来事としての神の存在である。「神が愛するということ(≪神が愛するという神の愛の行為の出来事≫)は、神が愛するということ(≪神が愛するという神の愛の行為の出来事≫)である、すなわち神が愛するという神の愛の行為の出来事としての神の存在である。キリストにあっての神は、「人格として」、換言すれば「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我(われ)」ではないところの、「失われない」単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の名において、すなわち「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方において、その起源的な第一の存在の仕方としてのイエス・キリストの父――創造主(啓示者)、その第二の存在の仕方としての父が自分を自分から区別した子としてのイエス・キリスト自身――和解主(啓示)、その第三の存在の仕方としての愛に基づく父と子の交わりである聖霊――救済主(啓示されてあること。すなわち、われわれの宣教、その思惟と語りにおける<客観的>な原理・規準・法廷・審判者・支配者としての、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、キリスト教に固有な類・歴史性の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言のそれ。この第一の形態の神の言葉、「イエス・キリストの名」、具体的には第二の形態の神の言葉、聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した第三の形態の神の言葉、教会の<客観的>な信仰告白および教義)において、すなわち「神のこの存在と行為の中で(≪換言すれば「父なる名の三位一体的特殊性」において自己還帰する対自的であって対他的・他在であって自在・全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在の中で≫)、神は現にあるところの方であり給う」。したがって、「われわれは、……神の存在を表示する際に、これらのことをいくら強調しても強調し過ぎることはない」のである。このような訳で、われわれは、この先行する「神の存在を強調」することによって、後続する「その他の存在、その他の行為」、「またその他の愛する者、……その他の人格が存在する」と言わなければならないのである。われわれは、神について、「人称代名詞、指示代名詞、所有代名詞を用いて」、「『彼』、『この方』、『彼の』という時」、われわれは常に、われわれに先行する、イエス・キリストにおいて自己啓示されたところの、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする、全き自由の三位一体の「神にふさわしい強調と重みを付……しつつ……神を指し示すことによって」、「それぞれの命題の中で……即事的な何かを、ある点においては……語られるべき即事的なことを語っている」のである、換言すれば前述したように、その神の存在の仕方、性質、働き、業と行為、全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在――すなわち起源的な第一の存在の仕方としてのイエス・キリストの父(創造主、啓示者)第二の存在の仕方としての子としてのイエス・キリスト自身(和解主、啓示)、第三の存在の仕方としての聖霊(救済主、啓示されてあること)を指し示すことによって、「それぞれの命題の中で……即事的な何かを、ある点においては……語られるべき即事的なことを語っている」のである。ここで、「即事的な何か」・「語られるべき即事的なこと」とは、例えば、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり・「永遠の(神との人間の)和解」であり・神との間の「平和」(ローマ五・一)であり・それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」という神の側の真実、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、客観的に存在している、起源的な第一の形態の神の言葉、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」・「イエス・キリストの名」、「インマヌエル、神われらと共にいます」、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの、「啓示の実在」そのもの(具体的には、客観的に存在している、第二の形態としての神の言葉、イエス・キリストにより直接的唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、啓示の「概念の実在」)と、その啓示の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神に認識(啓示認識・啓示信仰)、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、客観的に存在している、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的現実性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)における関係と構造・秩序性、神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教における、その思惟と語りにおける<客観的>な原理・規準・法廷・審判者・支配者としての起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)のことである。このことをバルトは、次のように述べている――「神の行為(≪神の行為の出来事としての神の存在≫)は、独一無比な仕方で神の行為(≪神の行為の出来事としての神の存在≫)である。神が愛するということ(≪神が愛するという、神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)は、独一無比な仕方で神が愛するということ(≪神が愛するという、神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)である。神は、独一無比な仕方で(≪前述したような仕方で≫)現にあるところの方であり給う」――「このこと」が、「神について語られるべき即事的なこと」であり、「神の存在の形式と内容」の「独一無比な仕方の特徴を言い表」している。したがって、「われわれは、そのほか存在するすべてのものから神を区別することによって」、「同時に必然的にこの即事的なことを言い表さなければならない」。われわれは、「神が生きることと愛し給うことについて」、「絶えず神が生きることと愛し給うことの独一無比な在り方を指し示すことなしには語ることができなかった」のである。
すでに論じたように、全き自由の神の愛の行為の出来事としての「神の存在の特別の現実性」、「イエス・キリストの名」における神の自己啓示・自己顕現、すなわちこの「神の存在であるところの神の行為」・「神の生……の内容」が、「三位一体」の「神の名の啓示の中で明らか」にされている「神の本質」である。それは、単一性・神性・永遠性を本質とする全き自由の「神は愛し給うということである」。それは、神ご自身の自己認識・意志・行為(行動)である、愛するという神の愛の行為の出来事としての神の存在の自己運動である。イエス・キリストによって自己啓示された三位一体の神は、「ただ神だけが愛することができるような仕方で」、「ただ神だけが愛し給う」――この「愛するということ」、すなわちこの愛するという神の愛の行為の出来事が「神の存在である」、換言すれば「『神が存在する』ということは、『神は愛する』ということである」、神は愛である・愛は神である、「神は愛し給う」ということである、神の愛の行為の出来事としての神の存在ということである。言い換えれば、「自由・主権」がそうであったように、「愛」は「神ご自身においてのみ実在であり真理である」ということである。「われわれが引き続き、神の存在に関して認識し告白しなければならない」ことは、「あらゆる事情のもとで、愛する者としてのこの神の存在の規定でなければならない」ということ、すなわち神の存在は神の愛の行為の出来事としての神の存在であるということ、「神は誰であり、何であるかに関しての……すべての命題は、……神の愛の秘義(≪神の愛の行為の出来事≫)のまわりを巡らなければならない」ということ、それ故に「それらすべての命題は、ある意味でただこの『神は愛し給う』という一つの命題(≪神の愛の行為の出来事は神の存在であるという命題、あるいは神の存在は神の愛の行為の出来事であるという命題≫)の反復、言い換えであり得るだけ」であるということである。われわれが「神の愛」について語ろうとするならば、「われわれに対する神の愛の中での神の存在の完全性」は、すなわち神の愛の行為の出来事としての神の存在の完全性は、神の「愛に固有」な自己「運動」(内在的な、神は愛である・愛は神である、神は愛し給うという神の存在、本質、本性における神の愛に固有な自己運動)であるということについて語らなければならないということである。キリストにあっての「神の愛の至福」は、「神が父・子・聖霊であり、そのような方としてわれわれを愛し給うということ、すなわちわれわれの創造者(≪啓示者、イエス・キリストの父≫)、和解者(≪啓示、子としてのイエス・キリスト自身≫)、救済者(≪啓示されてあること、愛に基づく父と子の交わりである聖霊≫)として、……まさにそのような方として愛そのものであり、永遠に愛し給う方であるということ」に基づいている。このことが、われわれ人間に対して、われわれ人間の「すべての考えを越えた神の愛の秘義」(神の愛の行為の出来事)、「その他のすべての愛から区別された」神の愛、それ故にその他の「すべての愛を限りなく凌駕する神の神性」を想起させるのである。神は愛である・愛は神である、「神は愛し給う」――これが、「神の存在の特別な現実性」、「神の行為あるいは神の生……の内容である」、神の愛の行為の出来事としての神の存在の内容である、イエス・キリストの父(創造主、啓示者)、子としてのイエス・キリスト自身(和解主、啓示)、愛に基づく父と子の交わりである聖霊(救済主、啓示されてあること)という三位一体の「神の名の啓示の中で明らか」にされている神の「本性」、「神の本質である」。
この神は、われわれに対して、「そのことを言い表し、証言し、宣べ伝えるために、生きることと愛することについて、一人の生き、愛する<われ>について語ることを許し、また命じる」のである、すなわちわれわれに対して、先行する「神の<われ――存在>」、「認識し、意志し、行為する<われ(Ich)>」、本来的な「人格」(神の人格)、「神自身の人間に対する神の愛(≪先行する、神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)と神に対する人間の愛(≪後続する、その神の愛を反復する人間の愛、すなわちその神の愛の告白・証し・宣べ伝え≫)の同一である」――この「イエス・キリストの名」について、「語ることを許し、また命じる」のである、すなわちその模写において、<純粋>なキリストの福音、キリストにあっての神について告白し・証し・宣べ伝えることを「許し、また命じる」のである。また、この神が、「われわれにそのことを許し、命じることによって」、われわれに対して、この神を、「われわれのすべての直観と概念を超えて」、すなわち単なる知識においてではなく、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)において、「その独一無比な仕方で生き、愛する<われ>として理解し」、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊という三位一体の神の「名(≪存在の仕方、働き、業と行為、愛の行為の出来事としての神の存在≫)をもって呼ぶよう強いるのである」、またこの先行する「生き、愛する」「<われ――存在>」としての神に対して「栄誉……を帰するよう強いるのである」。何故ならば、後続するわれわれの「生きること」、「愛すること」、「存在すること」は、この先行する神の「創造の力によるものとして」、それ故にこの先行する「生き、愛する」「<われ――存在>」としての神の「模写およびこだまとして理解することができるだけであるからである」。この「生き、愛し、存在する」という先行する「神の本質の深み」が、あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて「われわれの眼前にある時」には、「われわれは、行為の中でのその方の存在を、愛する者としてのその方の存在」を、それ故に「その方の、(≪神は愛である・愛は神である、「神は愛し給う」という≫)神の本質としてのその方の存在(≪神の愛の行為の出来事としての神の存在≫)を、それとして認識し、承認したのである」。「神の存在」は、「徹頭徹尾神の行為である」と理解することができる。すなわち、「自分自身の、意識的な、意志され、実現された決断の中での存在」である「人格的存在」としての「(≪不可視な神的な≫)精神と(≪可視的な神的な≫)自然の単一性の中でだけ出来事となって起こる」ところの自己還帰する対自的であって対他的・他在であって自在・全き自由の「神の行為(≪その第二の存在の仕方≫)の出来事」としての「神の存在」は、全き自由の自存性において「それ自身を通して動かされた存在として」、神の第二の存在の仕方(業と行為、働き、神の愛の行為の出来事としての神の存在)である「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己「啓示の中で出来事として起こっており、啓示を通して惹き起こされた(≪可視的な神的な≫)自然と(≪不可視な神的な≫)精神の(≪出来事の自己≫)運動」として理解することができる。「神が、愛する方としてご自身の中で、また被造物との神関係の中で、神がなし給うような仕方で認識し、意志し、行動するということ」が、それ故に神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「神の<われ――存在>を確証しつつ」(≪先行する神の<われ――存在>を、後続して認識し自覚し反復しつつ≫)存在するということが、われわれの「人格――存在ということである」。キリストにあっての神こそが、先行する「<われ――存在>」、「認識し、意志し、行為する<われ(Ich)>」、本来的な「人格」(神の人格)であるである。キリストにあっての神は、「一人の者」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの名」、本来的な「人格」であることによって、「現にあるところのすべてのものであり給う」。このように、神は、「ただ単に理念的ではなく、現実的な人格であり、(≪人間の言語を介した直観と概念を用いて対象化され客体化されることによって初めて≫)人格化されたというのではなく」、神の愛の行為の出来事としての神の存在の自己運動において自ら「人格を造り出して行く人格である」。このように、このキリストにあっての神は、「われわれにその啓示の中で愛する方として出会われる時、神は無比なる一人の方としてわれわれに出会い給う」。このような訳で、われわれは、「神がわれわれに(≪父、子、聖霊という≫)神の名を知らせ、またわれわれをわれわれの名で呼ばわる以前に」は、「われわれ自身が<われ>であることについて」、すなわちわれわれ自身が人格であることについて、本来的な意味で何も知ることはできないのである、ちょうど先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」ように。「『神は現にあるところのもので、(≪イエス・キリストにおける≫)その啓示の行為の中であり給う』ということでなければならない。したがって、われわれは、「この命題」を、形而上学的一面的固定的抽象的な「本質」という概念をもってではなく、「神の現実」、「存在と行為を一緒に含んでいる……『神の実在』(Wirklichkeit)」という概念でもって言い表したのである」、すなわち抽象性と具象性の総体としての<現実性>(Wirklichkeit)という概念、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」「イエス・キリストの名」という概念でもって言い表したのである。「まさに神の存在をこそ、われわれは、神の実在」、「神の現実性(Wirklichkeit)」として「言い表すことによって、……『行為の中での神の存在』として、詳しく言うならば神の啓示の行為の中での神の存在として」、「すなわち、神の存在が、その現実性を証ししている、ただ単にわれわれのためのその現実性を証しするだけでなく、……同時に、まさにそのようにしてこそ」、「その背後にも、その上にも、いかなるほかの現実性は存在しないところの」、「父なる名の内三位一体的特殊性」における「内的な、本来的な現実性を証ししている神の啓示の行為の中での神の存在として言い表」しているのである。われわれは、神の行為の出来事としての神の存在という規定を念頭に置いて、「認識し、意志し、行為するわれ(Ich)である」「人格(神格)」(神の存在の仕方)として神を論じたのであるが、内在的な本性、本質として神は愛である・愛は神である、「神は愛し給う」が故に、先行して「われわれを(その方の仕方で)愛し給う方、(その方の仕方で)ご自身とわれわれとの交わりを求め、造り出す方」(徹頭徹尾、神と人間との無限の質的差異の下で、「ご自身とわれわれと」を架橋される方)――「その方は、そのことによって何が人格であるかについて決定的なことをわれわれに知らせ給う」のである。すなわち、その方は、この先行するイエス・キリストにおける神の愛の下で、起源的な第一の形態の神の言葉(具体的には、第二の形態の聖書的啓示証言のそれ)を、われわれのその存在、その思考、その実践における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返し、それに教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストの福音、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(<純粋>なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法)、すなわち<純粋>なキリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指すところのわれわれの人格の在り方について「知らせ給う」のである、イエス・キリストをのみ主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指すわれわれの人格の在り方について「知らせ給う」のである。このように、聖書的啓示証言における「認識し、意志し、行為するわれ(Ich)である」「人格の定義」は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示の中で明らかとなる神の人格、すなわちそのような(その方の仕方で愛する者である)方として、人格そのものである愛する方に対する告白という意味を持つことができるだけ」なのである。このような訳で、その現にあるがままの「人間は、(≪それ自体として≫)人格であるのではない」のである、ちょうどその現にあるがままの「われわれの時間」・世は、イエス・キリストにおける神の「自己啓示」・「自己啓示の時間」によって「攻撃された」・「否定された」・「否定的判決」を受けた「失われた非本来的な」それであるように、またちょうどその現にあるがままのわれわれ自身の「理性や力によっては」<純粋>なキリストの福音を・キリストにあっての神を「全く信じることができない」ように、またちょうどその現にあるがままのわれわれ自身の信仰は常に、<純粋>なキリストにあっての神から遠ざかり遠ざかり続けているように、<純粋>なキリストにあっての神に背き背き続けているように、不信仰・無神性・真実の罪のただ中にあるように。
われわれは、「神の本質」の「問いをこれまで事のついでに問い答えてきた」のであるが、ここで前述した「神の本質の……深みを問う問いに立ち向かうことにする」。われわれは、「神が生きることと愛することの特別なこと、区別することを問う時」、われわれは、徹頭徹尾、イエス・キリストにおいて自己啓示された神――すなわち「主、救い、そのようにして教会の信仰の対象であり、したがってそのような方として唯一のまことの神である方」を前提として問う、換言すれば三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、「イエス・キリストの名」、客観的に存在している「啓示の実在」そのもの(具体的には、第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言のそれ、客観的に存在している啓示の「概念の実在」)を、われわれの宣教における、その思惟と語りにおける<客観的>な原理・規準・法廷・審判者・支配者として問うのであって、決して、「すべての一般的な神概念」――すなわち「必然的に別なもの」となってしまうところの「イエス・キリストにおける神の啓示を念頭に置かずに形成されたすべての神概念」を前提するところで、人間の自己意識・理性・思惟が対象化し客体化した「存在者レベルでの神」を前提するところで問うのではない、われわれは、その対象了解の認識の度合い、抽象の度合い、時間化の度合いにおいて、「神的なものの理念」(人間の理念)、「人間の願望と憧憬の総内容」、「われわれ自身の本質の対象化と絶対化」を問うているのではない。何故ならば、もしもそれらのことを問うているならば、そこでの神や啓示の内容は、フォイエルバッハの次のような根本的包括的な原理的な批判の対象そのものでしかないものとなってしまうからである――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」。「(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」(『キリスト教の本質』)。したがって、われわれは、「ただ(≪イエス・キリストにおける≫)神の啓示を念頭に置いてだけ問うことにする」。言い換えれば、前述したように、われわれは、ただ、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、「イエス・キリストの名」、客観的に存在している「啓示の実在」そのもの(具体的には、第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言のそれ、客観的に存在している啓示の「概念の実在」)を、われわれの宣教、その思惟と語りにおける<客観的>な原理・規準・法廷・審判者・支配者としてだけ問うことにする。したがってまた、われわれは、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」――すなわち「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストの名」、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもの、この「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪教派、学派、文化傾向、思想傾向、哲学原理、道徳原理、時流や時勢、特定の人種・国民、国家形態、社会的政治的な言説や運動≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」のである(『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』)。
さて、われわれが、「まず第一に、神は生き給うということについて、それから神は愛し給うということについて、……行為の中での神の存在について、それから愛する者としての神の存在について語った時」、すなわち「神は愛し給う」という神の愛の行為の出来事としての神の存在について語った時、「神は生きるということ自体は、それとしてそのすべての深みに至るまで、神は愛し給うことである」ということを語ったのである。そして、「ただこの認識を準備するためにだけ」、「『神は行動する主体である』という論理的前提を展開しつつ、……われわれは……事柄的にまさにただ一瞬だけ……行為(それも一般的な行為ではなく、神は愛し給うという具体的な特別な行為)の中での神の存在のところに留まったのである」。このような訳で、われわれは、「神の神性を、神の本質の特有な深みそのものを問う時」に」は、具体的には聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯して「『神は<誰>であるか』と」問うのである、換言すれば「抽象的ニ『神は<何>であるか』と問う」ことはしないのである。聖書的啓示証言におけるキリストにあっての徹頭徹尾「神は神である」ところの神は、全き自由な方として、「いかなる意味でも、<それ>ではなく<彼>であり給うように、神はまた、この<彼>であるために、何らかの<それ>(≪人間の想像能力、思惟能力、表象能力における<それ>、人間の自己意識・理性・思惟が対象化し客体化した「存在者レベルでの神」≫)に先ず共にあずからなければならない」ところの「<彼>ではあり給わない」。何故ならば、キリストにあっての「神の中には、彼自身でないような<それ>はないし、また神の特別なもの、神の行為、したがって神の生きること、また神の愛することの特別なものでないような一般的なものは存在しない」からである。したがって、われわれは、「今、『神は何であるか、神の神的なこと、したがって神を神として区別するものは<何>であるか』と問うことによって」、結局は再度「(≪「現にあるところのもの」としてのキリストにあっての神に、イエス・キリストにおいて自己啓示された神に、具体的には聖書的啓示証言のそれに信頼し固執し連帯して≫)神は<誰>であるかと問うことができるだけ」なのである。「厳密に言えば、神は<何>であるかを特別にその内容として持つことのできるいかなる『神的な賓辞』の『神概念』も存在しない」し(何故ならば、神と人間との無限の質的差異の下で、「神は神である」し、「人間は人間である」から。聖性・秘義性・隠蔽性において存在する神の不把握性の下での、あの「啓示と信仰の出来事に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識、人間の言語を介した直観と概念を用いた神概念も、終末論的限界の下にあるから」)、「ただ神的な主辞自体と、その主辞の中での神の神的な賓辞の充満が存在するだけである」し、それ故にあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)における「神概念」は、「ただこの神的な主辞そのものをその内容として持つことができるだけ」のそれであり、「この主辞の<外>では決して存在すること」ができないそれであり、人間の自己意識・理性・思惟の類的活動における「概念の内容(≪「存在者レベルでの神」≫)とはなり得ない」それであって、それ故にあくまでもあの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「神的な賓辞を持つことができるだけ」のそれなのである。われわれは、「神が生き愛し給うことについて、特別なこととして語る時に、何を言おうとしており、何を為しているかを知ることができる」のであるから、「まさにこの(≪神的に≫)生きることと愛することの特別なこと」を、「問わなければならないということ、そしてそのことを何らかの(≪人間の恣意的独善的嗜好的な≫)一般的な標準と観点の下で問うのではなく」、あくまでもイエス・キリストにおける神の自己「啓示によって明らかにされたその実在を念頭に置いて問わなければならないのである」、換言すればわれわれは、そのことについて、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、「イエス・キリストの名」、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には、第二の形態の直接的な最初の第一の聖書的啓示証言のそれ、客観的な啓示の「概念の実在」)を、われわれの宣教、その思惟と語りにおける<客観的>な原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で問わなければならないのである。
われわれは、「神の存在」を、換言すれば神の愛の行為の出来事としての「神の存在」を、自己運動する「自分自身から生きる存在として理解した」。したがって、自己運動する神の愛の行為の出来事としての神の存在を、「神が愛し給うことを、それ自身の故に愛する愛として」、「無条件的な、自分で自分の根拠と目的を措定する、徹頭徹尾主権的な愛することとして、理解した」のである、自己還帰する対自的であって対他的・他在であって自在・全き自由の自己運動する愛として理解したのである、「自存性」における愛として理解したのである。「この精密規定なしには」、すなわちキリストにあっての神は「生き、愛し給う」という「独一無比性についての表示なしには」、われわれは、「神が生き、愛し給うことではなく」、人間の想像能力・思惟能力・表象能力によって「一般的に生きることと愛することについて語っているのであって」、それ故に具体的には聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯したところのキリストにあっての「神については語っていなかった」ことになるのである、キリストにあっての神について語っていないことになるのである。まさに「この精密規定は、……自由という概念によって与えられている」。「生きる方、愛する方としての神の存在は、自由の中での神の存在である」。そのように「自由に、神は生き愛し給う。神は、自由の中で生き、愛し給うという仕方で、またそのことの中で、神であり、ご自身をそのほかの生ける者、愛する者から区別し給う。そのような仕方で、自由な人格」、<われ――存在>として「神はご自身をその他の人格から区別し給う」。聖書的啓示証言によれば、「自由」・「主権」は、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」。したがって、われわれ人間における信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、われわれ人間の自由事項・裁量事項・決定事項に属してはいないのである。聖霊や聖霊の言葉は、われわれ人間の、説教者の、自由事項・裁量事項・決定事項として、実体化させることはできないのである。われわれ人間における信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、あくまでも、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、すなわち客観的に存在している、起源的な第一の形態の神の言葉、「イエス・キリストの名」、イエス・キリストにおける死と復活の出来事、啓示の出来事(具体的には、第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言のそれ)と、その出来事の主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて、終末論的限界の下で与えられるのである。このような訳で、教会の宣教、その思惟と語りが、キリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福されきよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということ」も、「神ご自身の決定事項」であって、われわれ人間の自由事項・裁量事項・決定事項ではないのである。したがって、教会の宣教、その思惟と語りの在り方は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けてください』(マルコ9・24)というこの人間的態度に対し神が応じてくださるということに基づいている」のである。キリストにあっての神は、「ただその創造者としての力と意志によってだけその他の人格が存在し、保持される」ところの「ただ一つの、起源的な、本来的な人格(≪「三つの神的我(われ)」、「三つの対象」、「三神」では決してないところの、単一性・神性・永遠性を本質とする三つの存在の仕方、働き、業と行為、全き自由の神の愛の行為の出来事としての神の存在――創造主・啓示者、和解主・啓示、救済主・啓示されてあること≫)……であり給う」。このように、「われわれは、自由という概念でもって、全くただ神は、主であり給うと言い表す時に語るであろうこと以外の何事も語ってはいない」のである。このように、「まさに、神の主権とは、いかなる場合においても、神が生き、愛し給うことの主権である」。このような訳で、「徹頭徹尾神ご自身」が、「神ご自身の選びと決心、意志と行為」が、「どのように」、「生き、愛し給う」のかということが「問題である」、「換言すれば神が生き給う方、愛し給う方として主である精密規定が問題である」。「もしもわれわれが、イエス・キリストの中での神の啓示に従えば、何が神の主権を神的な主権として、他の主権から区別するのかを問うならば」、それは、「神の主権は自由な主権である」と答えなければならないのである。この「積極的、本来的に自分自身を通して、自分自身の中に基づいており、自分自身によって規定され、動かされている」「自由」・「主権」は、「神ご自身においてのみ実在であり真理である」と答えなければならないのである。「まさにこのことが、神的な生きることと愛することの自由である。この(≪自己還帰する対自的であって対他的・他在であって自在という≫)積極的な自由の中」で、キリストにあっての「神は、……外に向かっても制限がなく、妨げを受けず、条件づけられてい給わない」のである。「神は、自由な創造主(≪啓示者、イエス・キリストの父≫)、自由な和解主(≪啓示、子としてのイエス・キリスト自身≫)、自由な救済主(≪啓示されてあること、愛に基づく父と子の交わりである聖霊≫)であり給う」。しかし、「神の神性」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示の中で、「全線にわたって神の外に向けられた」自己還帰する対自的であって対他的・他在であって自在・全き自由における他在としての「自由であるということ」、「すなわち自由な語りと行為」、「自由な始めること」と「完了・成就」すること、「自由な裁くことと恵むこと」、「自由な力と霊であるということ」――これらの中で「尽されるのではなくて」(何故ならば、神の神性は、自己還帰する対自的であって対他的・他在であって自在・全き自由における自在としての自由でもあるから)、「それらすべての中で、神の神性はただ(≪イエス・キリストにおける神の自己啓示において≫)啓示されるだけ」なのである。「神の神性」(本質)は、「神が、その神性を、ご自身の中に、(≪それ故に、人間の自由な自己意識・理性・思惟の類的活動、人間の自由な想像能力・思惟能力・表象能力等々≫)その他のすべてのものなしにも持ち給うということ、またご自身のうちで力、真理、義であるということに、またわれわれが神の啓示の中で神が生き、愛し給うのを見るように、神がご自身の全権の中で生き、愛することをご自身から受け取ることができるということに基づいている」。