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『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 二 愛する方としての神の存在」(その4-1)

カール・バルト『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

『教会教義学 神論Ⅰ/2 六章 神の現実(上)』「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 二 愛する方としての神の存在」(その4-1)(34-48頁)

 

「二十八節 自由の中で愛する方としての神の存在 二 愛する方としての神の存在」(その4-1)
 「神は神である」ということ、「神をして神たらしめていること」、すなわち「何が神の『本質』であるのかということを引き出してこなければならない」神の行為の出来事(聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」イエス・キリストにおける神の自己啓示、自己顕現、自己認識・自己理解・自己規定の出来事)としての神の存在、すなわち「神の存在であるところの神の行為」、神の行為の出来事は、「神は神である」という「類語反復そのもの」を「説明」している。「それは、……名の啓示である」。イエス・キリストは、イエス・キリストの父(創造主としての神、永遠なる父)、子としてのイエス・キリスト自身(和解主としての神、永遠なる子)、父と子の霊である聖霊(救済主としての神、永遠なる霊)として、「三位一体の名」を啓示している。それは、「その下で神がわれわれによって認識され、語りかけられることを欲し給うところの名」、「神の最も内的な、隠れた本質の名、認識根拠、真理(換言すれば、そのような本質の本来性の開示と表示)である名」の啓示である。したがって、「その啓示された名の中で明らかとなるこの神の本質は、父、子、聖霊としての神の存在(≪その神の行為の出来事としての神の存在≫)であり」、「したがってまた、そのようなものとしての神の行為である(≪その神の存在であるところの神の行為、神の行為の出来事である≫)」。何度も論じてきたように、聖書的啓示証言でイエス・キリストにおいて自己啓示(自己顕現)された神は、イエス・キリストの父(その神の起源的な第一の存在の仕方、業と行為、創造)、子としてのイエス・キリスト自身(その神の第二の存在の仕方、神の子、業と行為、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、和解)、父と子の霊である「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊(その神の第三の存在の仕方、業と行為、救済)であり、このような三位一体の神として自己啓示したのである。したがって、この起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストにおける神の自己啓示(自己顕現、自己認識・自己理解・自己規定)が、全く人間的な第三の形態の神の言葉である教会の宣教の客観的な信仰告白および教義である三位一体論の根拠である。したがってまた、この三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」なのである。したがってまた、全く人間的な第三の形態の神の言葉である「教会の宣教の批判と訂正」は、常にこの三位一体論に即して行わなければならないのである。このように、聖書的啓示証言の本来的テーマは、三位一体の神の第二の存在の仕方である「子なる神」(和解主としての神、永遠なる子)、イエス・キリストの単一性・「神性」・永遠性を問う問いの中に、「父(≪三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方、創造主としての神、永遠なる父≫)を問う問い」と「父ト子ヨリ出ズル御霊」・聖霊(三位一体の神の第三の存在の仕方、救済主としての神、永遠なる霊)を問う問いとが包括されている点にある。自己還帰する対自的で対他的・他在であって自在・全き自由の神は、その第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、インマヌエル――「神われらと共にいます」というその存在の仕方で、自己啓示・自己顕現、自己認識・自己理解・自己規定したのである。このことは、単一性・神性・永遠性を本質とする「自己を覆い隠す」、隠蔽性、「聖性」としての神が、「父なる名の内三位一体的特殊性」において子(その第二の存在の仕方)として「自分(≪父、その起源的な第一の存在の仕方≫)を自分から区別」したことを意味する。したがって、この自己啓示は、ナザレのイエスという「人間の歴史的形態」、すなわち「イエス・キリストの名」(その第二の存在の仕方、業と行為、啓示・和解)において、その存在の本質である単一性・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示なのである。したってまた、この啓示は、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事)に基づいて終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の言語を介した直観と概念を用いた信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を与えることができる授与能力、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)、その関係と構造・秩序性、を内在させているのである。なぜならば、聖書的啓示証言によれば、人間論的な自然的人間だけでなく、教会論的なキリスト教的人間も含めてわれわれ人間は、神に敵対し神に服従しない人間、全く不信仰で罪に穢れた人間――すなわち「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないからである。このようなわれわれ人間は、神の側の真実としてのみある、神の側からのみやって来る・神の側からするわれわれ人間との架橋を必要とするのである。したがって、バルトは、『福音と律法』で、次のように述べたのである――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」。論述を元に戻せば、われわれは、この「神の名」、「イエス・キリストの名」から「何がそもそも神的であるのか、神であるためには何が必要であるのか、何が神を神たらしめているのか」、それゆえに「神の『本質』は何であるのかということを見てとらなければならない」。われわれは、三位一体の神が、その第二の存在の仕方(イエス・キリストの名、インマヌエル、「神はいます」・「神は存在し給う」、業と行為、啓示・和解、その行為の出来事)において「啓示された永遠の存在を定義してゆくために、……まさにこの名がその行為の中での神の特別な存在(≪その神の行為の出来事としての神の特別な存在≫)に関して語ろうとしていることを、問うことができ、問うことがゆるされ、問わねばならない」。
 このイエス・キリストの名は、換言すればイエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊としての「三位一体の名」は、このような三位一体の神は、次のことを語ろうとしている――すなわち、自己還帰する対自的で対他的・他在であって自在・全き自由の神は、イエス・キリストにおける「啓示の中で」、「ご自身とわれわれの間の交わりを求め造り出す方であり、(神の啓示はその自己啓示であるが故に)その同じことをご自分の中で、ご自分の永遠の本質の中ででも(≪「父なる名の内三位一体的特殊性」として≫)為し給う方である」ということを語ろうとしている。後者の行為の出来事について、『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』で、次のように言われている――三位一体の根本命題に即して理解すれば、聖霊なる神は、「三度目」に、父(神の起源的な第一の存在の仕方、性質、業と行為)と子(父から区別された神の第二の存在の仕方、性質、業と行為)の二つの存在の仕方から生じる「一つの存在の仕方」(神の第三の存在の仕方、性質、業と行為)である・したがって、この第三の存在の仕方である聖霊は、父と子の啓示に対する「特別な第二の啓示」ではない(なぜならば、聖書的啓示証言において神は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示されたから)・すなわち聖霊は、「父なる神と子なる神の愛の霊」であって、ここに聖霊 の「起源」がある・この聖霊において、父と子(神的な対)は、愛に基づく完全な共存的な関係・「交わり」(神的な共同性)においてある・すなわち聖霊は、その愛に基づく完全な共存的な関係・「交わり」の中で、「父は子の父」、「言葉の語り手」(啓示者)であり、「子は父の子」、「語り手の言葉」(啓示)であるところの業と「行為」、性質、神の第三の存在の仕方(啓示されてあること、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」・キリスト教に固有な類・歴史性、その関係と構造・秩序性)である・ここに、神は愛・愛は神であることの根拠がある、このような訳で、「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」である、愛は、自由がそうであったように、先ず以て「神ご自身においてのみ実在であり真理」である・この聖霊は、三度目の最後的な「存在の仕方」(神の第三の存在の仕方)として、神にとって最高の法則・愛であって、その愛に基づく起源的な第一の存在の仕方である父と第二の存在の仕方である子の交わり・関係であり、神と人間との交わりの根拠である(あの神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事とその啓示の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事、聖霊の注ぎによる人間的主観に実現された神の恵みの出来事、すなわち神の人間との架橋、神と人間との交わりの根拠である)。このような訳で、かつて既述したように、「『神は、現にあるところのもので、その啓示の行為(≪その第二の存在の仕方、その啓示の行為の出来事≫)の中であり給う』ということでなければならない。それゆえに、われわれは、この命題」を、形而上学的一面的固定的に抽象した「本質」という概念をもってではなく、「神の現実」、「存在と行為を一緒に含んでいる……『神の実在』(Wirklichkeit)」という概念(≪神の現実性という概念、神の行為の出来事としての神の存在という概念≫)でもって言い表したのである」。「まさに神の存在をこそ、われわれは、……神の現実性(Wirklichkeit)」として「言い表すことによって、……『行為の中での神の存在』として」、神の行為の出来事の中での神の存在として、「詳しく言うならば神の啓示の行為の中での神の存在として」、「すなわち、神の存在が、その現実性を証ししている、ただ単にわれわれのためのその現実性を証しするだけでなく」、「同時に、まさにそのようにしてこそ」、「その背後にも、その上にも、いかなるほかの現実性は存在しないところの」、「父なる名の内三位一体的特殊性」における「内的な、本来的な現実性を証ししている神の啓示の行為の中での神の存在として言い表」したのである。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」ということを言い表したのである。このキリストにあっての神は、「ご自身」とわれわれ人間との架橋を、「われわれなしにも」、またわれわれが「そのことを為すことなしにも」、イエス・キリストの名(インマヌエル)における自己啓示において、「われわれのために」・「われわれに代わって」為したのである、「神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼(≪われわれ人間≫)の死を欲し給う」という律法を、その第二の存在の仕方であるイエス・キリストの「その地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって」、「全く端的に、信じ給う」という仕方で、「唯一回為し遂げ給うた」のである。この三位一体の神のその第二の存在の仕方であるイエス・キリストは、単一性・神性・永遠性を本質としているが故に、その神の存在としての神の行為の出来事は、換言すればその神の行為の出来事しての神の存在は、「律法の成就」・完了であるのである。言い換えれば、キリストにあっての神は、そのイエス・キリストにおける「律法の成就」・完了を、それゆえにギリシャ語原典ローマ3・23、ガラテヤ2・16等の「イエス・キリストの信仰」の属格は、「明らかに主格的属格として理解されるべきもの」として、すなわちわれわれ人間のために・われわれ人間に代わって、イエス・キリストご自身が信じ給う信仰として、それゆえに神の側の真実としてのみあるものとして、客観的現実性・客観的実在、永遠的実在・永遠的現実性として、「ご自分の中で持ち給う」のである。したがって、われわれは、次のように感謝をもって告白することができるだけである――「『自分の理性や力によっては』全く信じることができない」われわれは、「『主よ、わたくしの不信仰をお助けください』という願いの中でのみ」、「われわれは、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより、またイエス・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより、(中略)この主とかしらのもとで、またこの主とかしらとともに、……これからは神の義、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される」(『カール・バルト著作集15』「ローマ書新解」)。次のバルトの言葉は、自分自身の信仰体験を思想化する時に、素直に全面的に首肯することができる思惟と語りである――「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』」その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力(≪感情、悟性、意志、想像、集中力、自然を内面の原理とする禅的修練等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみである」(『福音主義神学入門』)。もしもキリストにあっての神が、人間の、その存在・その思考・その実践も必要とする神であるならば、また人間との混淆・混合を必要とする神であるならば、また人間との協働・共働を必要とする神であるならば、その神は、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異の下で「い給う」・「存在し給う」神ではないのである、換言すればその神は、人間やその社会が要請し規定した「存在者レベルでの神」でしかないのである、それゆえにその世俗化した<共同宗教>としてのキリスト教の最後的形態は、擬制民主主義としての議会制民主主義の下で、諸利害や諸矛盾の対立の現存する現実的な市民社会におけるその社会の本質を、観念的な法的政治的共同性として疎外したところの(すなわち、一方の観念の共同性を本質とする法の下では自由・平等であっても、換言すれば宗教的な天上においては自由・平等であっても、他方の現実的な市民社会・現世の中では自由・平等ではないから、自己還帰しないそれゆえに自己と疎遠な逆立した共同観念としての法、制度によって政治的に止揚したところの)観念の共同性を本質とする政治的近代国家にあるのである、あるいは国民の個別化と「生活の隅々までを監視する全体主義化」という無意識の共同性を生み出す「司牧システム」の下で、ある価値基準・ある時・ある場所において、「聖なる者」と「俗なる者」、「教える者」と「教えられる者」、「正常な者」と「異常な者」、「支配する者」と「支配される者」という、実体ではないところの「個人間に存在するひとつの個的な関係タイプ」としての「権力」、「『牧人的』と呼ぶことのできる権力」、すなわち「政治的合理性の形態」にあるのである。論述を元に戻せば、われわれの「まことの信仰とその真実な神認識」は、換言すれば終末論的限界の下でのわれわれの「まことの」「真実な」信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰は、徹頭徹尾、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(具体的にはその第二の形態の、イエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、客観的な啓示の「概念の実在」、聖書的啓示証言におけるイエス・キリスト)、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下でやって来る、与えられると言わなければならない。言い換えれば、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえにあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」と言わなければならない、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」と言わなければならない、それゆえにわれわれは、ただこのことに「感謝し、また感謝し続ける」と言わなければならない、それゆえにまたわれわれは、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性(決断と態度)において、あの、<純粋>なキリストの福音、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちすべての人々が純粋なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)の連環と循環を志向し目指していくと言わなければならない、そういう仕方で、イエス・キリストを主・頭とする「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していくと言わなければならない。キリストにあっての神が「交わりを求め造り出すことで、明らかに既に、創造」が、換言すれば「精神的――自然的単一性(≪身体・肉体と精神・意識の総体性≫として、……自分自身を見出すことがゆるされ」「神と直面させられた人間」――「そのような実在の措定と保持があるのである」が、しかし、「この交わりを求め造り出すことは、創造を継続させているというよりもむしろ創造を凌駕している」ところの「神のみ子の受肉、死、甦りの中で罪深い人間が贖われた和解と同じである啓示そのものの業の中で強められる」のである。バルトは、創造と啓示・和解の関係について、『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』で、次のように述べている――「創造された世界」における「神の愛」と「われわれの世界」における「イエス・キリストの事実の中における神の愛」との間には差異がある・すなわち、後者の神の愛は、「まさしく神に対し罪を犯し、負い目を負うことになった人間の失われた世界に対する神の愛」である、それゆえにこの「和解ないし啓示」は、「創造の継続」や「創造の完成」ではない・この「和解ないし啓示」は、神の存在の仕方の差異性におけるその第二の存在の仕方、イエス・キリストの行為の出来事としての神の存在における「新しい神の業」である、ということである・それは、「神的な愛の力」、「和解の力」である・イエス・キリストは、和解主として、創造主のあとに続いて、神の第二の存在の仕方において「第二の神的行為を遂行」したのである・この神の存在の仕方の差異性における「創造と和解のこの順序」に、「キリスト論的に、父と子の順序、父(≪啓示者≫)と言葉(≪啓示≫)の順序」が対応しており、「和解主としてのイエス・キリスト」(第二の存在の仕方)は、創造主としての父(起源的な第一の存在の仕方)に先行することはできないのである・しかし、父と子は共に単一性・神性・永遠性を本質としているから、この従属的な関係は、その「存在の本質」の差異性を意味しているのではなく、その「存在の仕方」の差異性を意味しているのである。「そして、この交わりを求め造り出すことは、その絶頂と最後的決定的な確証を、イエス・キリストの中で和解された人間の将来における定め、(≪その第三の存在の仕方、聖霊の業と行為の出来事としての神の存在における≫)永遠の救済と生命を与えられるというその定めの中に見出す」のである。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」・「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、「終末論的」とは、「われわれの経験と感性」、すなわち人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてのみある啓示の客観的現実性・客観的実在、完了・「成就と執行」、「永遠的実在」・永遠的現実性として<すでに>ということである。
 「神は、まさに、それらすべてのことを為す方以外の何者でもあり給わない」。イエス・キリストの名、その「啓示の中で明らかになってくる」三位一体の「神の行為全体の中で」、三位一体の神の行為の出来事全体としての神の存在の中で、「神は何を為し給うたのであろか」。その総括的な「行為と意味」について、「われわれは今こう言わなければならないであろう」――神は「神でないすべてのものとご自分を区別し、対立しつつ、ご自分であり、自分自身を肯定することによって」、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を徹頭徹尾貫徹することによって(『教会教義学 神の言葉および神論』、『ローマ書』、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』、『福音と律法』、『神の人間性』等参照)、「神はわれわれのものであることを欲し給い、われわれが神のものであることを欲し給う」、「神はわれわれに属することを欲し給い、われわれが神に属することを欲し給う」、「神はわれわれなしにあることを欲し給わず、またわれわれが神なしにあることを欲し給わない」、それ故に「神は確かに神であることを欲し給う」、「決してわれわれが神であること(≪人間の神化をあるいは神の人間化≫)を欲し給わない」、また「神は(≪その起源的な第一の存在の仕方である「父なる名の内三位一体的特殊性」において≫)ご自分だけで、神としてただご自分と共にだけあることを欲し給わず」、父が子として「自分を自分から区別した」第二の存在の仕方において「神として(神でないところの)われわれ(≪人間≫)のために、われわれ(≪人間≫)と共にあることを欲し給う」、と。このように、その第二の存在の仕方において自己啓示(自己顕現)された三位一体の神は、われわれ人間との関係においても、「ご自分であることによって、神ご自身であることを欲し給う」のである。「ご自身の中での神の生であり、起源的、本来的に、ひとつの唯一の生である神の生」は、神と人間との無限の質的差異の下で、「われわれの生」とのあのような「共存を切に求めてやまない」のである。このことが、イエス・キリストにおける神の自己「啓示によれば」、徹頭徹尾神と人間との無限の質的差異の下で、「われわれに対して取り給う神の行動である」、神の行為の出来事としての神の存在である。したがって、そのことは、「必然的に創造主とその被造物との間の対立」を、「罪に対する神の怒りと抗争」を、「罪人たちから神が(≪「善」なる≫)ご自分を分離されること」を、「罪人に対し下され遂行される神の刑罰」――すなわち「死、地獄、永遠の滅び」を含んでいるし、その確認も含んでいるのである。このような行動において、このような行為の出来事としてのその存在において、神は、「ご自身とわれわれの間の交わりを求め造り出し給う」。このことは、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍からすれば、「最大限広範囲にわたって、われわれにとって」は、「疑わしい、暗い、理解のできないものであり得る」、「正反対の行動のように見え」得る。しかし、神の側の真実としては、神の第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、その生誕(神性の受肉ではなくて言葉の受肉)において、その地上における全生涯において、最後的にはその死において、その復活において、換言すれば「旧約」(「神の裁きの啓示」・律法、古い時間・世)から「新約」(「神の恵みの啓示」・福音、新しい時間・世)において、「そのように啓示される」のである。このように、イエス・キリストにおける神の自己啓示(自己顕現)は、神の「裁きと恵み、殺すことと生かすこと、隠れと顕れ」の啓示である。バルトは、『教会教義学 神の言葉Ⅰ/1・2』で、次のように述べている――啓示とは、「子あるいは言葉の業」すなわち「神の現臨とご自分を知らせること」が「人間の闇の中で、人間の闇にも拘わらず、……出来事として起こるという事実」のことである・この啓示は、「和解」という言葉・概念と一致する。それは、「われわれによって破壊された……神と人間の交わりの回復」を意味する・したがって、「啓示の事実の中で神の敵はすでに神の友」として、「啓示そのものが和解」である・しかし、聖霊の業に関わる救贖、完成という言葉(概念)は終末論的用語であるから、和解という言葉(概念)と一致しない・救贖、完成(終末、復活したキリストの再臨)は、新約聖書においては、啓示あるいは和解から見て、神の側の真実としてのみある未だ来ていない客観的な現実性・客観的な実在、完了・「成就と執行」、「永遠的実在」・永遠的現実性である・このキリストの「復活と完成(≪再臨≫)との間」は、「イエス・キリストの父」と「子としてのイエス・キリスト自身」の霊、「父ト子ヨリ出ズル御霊」、「聖霊の時代」である。「神が欲し為し給うひとつのこと」は、「神のよきこと、神の行為を神的行為として」、それゆえに「神の人格を神的人格として抜きん出させるところのもの」、すなわち聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性、「神的なもの」「神の本質である」。「ご自身の中で(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする≫)神は、孤独であることを欲し給わず」、その「失われない差異性」の中で三つの存在の仕方において「三度別様に」「父、子、聖霊であり」、そのような仕方で「その最も固有な共なる存在」の中で、「互いに相手のための……存在の中で生き給う」。その神的な「人格的な存在、知、意志の完全な一致は、……交わりの中で語り合うこと、決定すること、行動すること」、その行為の出来事としての存在である。このような訳で、神の側の真実として、「神が、われわれをそのみ子の中でご自身との交わりの中に取り上げられることによって、それはまたわれわれにとっても必要なもの、救いとなるもの、(その上にそれよりも高度なよきものは存在しないところの)よきものである」。われわれは、この「よきもの」を、「神は愛する方であるという命題を用いてもっと正確に言い表す時に、認識し承認する」ことができる。「神は愛し給うこと(≪「愛する方の行為としての神の行為」、「愛する方の行為としての神の行為」の出来事としての神の存在≫)の中で、神であり給う。そして、神の神的なことは、愛し給うということから成り立っている。また、神がわれわれとの交わりを求め造り給うということが、神は愛し給うということである」。神の第二の存在の仕方、その業と行為の出来事としての神の存在であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにおける神の愛」は、「神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。
 さて、「『神は愛である』という身近な定義」を、「Ⅰヨハネ四・八および一六」の「表現をその文脈から切り離し」、「その文脈が与える解釈を抜きにして、引用し定義として用いることは、ひとつの釈義的な乱暴行動である」。なぜならば、われわれは、「九節で……『神はそのひとり子を世に遣わし、彼によってわたしたちを生きるようにしてくださった』、それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたということを読むからである」、「それからまた、一〇節では(同じように、明瞭な断言的な言い方の中で)『わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛してくださって、わたしたちの罪のために贖いの供え物として、み子をお遣わしになった』、ここに愛があると書かれ、最後に一五節では、われわれは、『イエスを神の子である』と告白することの中で、神がわわれに対して持っておられる愛を知り、信じると書かれているのを読むからである」。このような訳で、「神の愛」、換言すれば「愛としての神」は、「Ⅰヨハネ四章においてこそ、イエス・キリストが遣わされたことによって為された神の愛の行為(≪神の愛の行為の出来事としての神の存在、「愛する方としての神の存在」≫)として解釈されるのである」。このことは、「正しく理解されたヨハネ三・十六の聖句『神はそのひとり子を賜ったほどに(ウルガータ訳、ソレホドニ)この世を愛してくださった。それは、彼を信じる者(≪すなわち、あの、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を与えられた者≫)が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』によって確認される」。したがって、先行する神の愛の下で、あの後続する「神への愛」と、その「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法)という連環と循環を志向し目指していくことが肝要なことなのである。
 このような訳で、「われわれが今われわれの注意」を、イエス・キリストにおける神の自己「啓示の中でわれわれに出会う神の存在の内容的規定と充填に向けつつ決定的な方向転換を為す時」、そしてその第一義的なものとして「愛の概念を取り上げる時」、その「愛」の概念内容は、「次のことではあり得ない」――すなわち、それは、われわれ人間が、われわれ人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍から得てくる「良き行為の総内容」ではあり得ない、例えばあの先行する「神の愛」の下での後続する「神への愛」と、そのような「神への愛」に根拠づけられた「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわちキリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連環と循環から独立した「良き行為の総内容」ではあり得ない、換言すればそれは、キリストの福音から二元論的あるいは二元主義的に独立した人間の社会的政治的実践の「良き行為の総内容」ではあり得ない、またそれは、キリストの福音・起源的な第一の形態の神の言葉――あの先行する神の愛の下での後続する「神への愛」、その「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、行為、実践、宣教)という連環と循環だけでなくて、人間自身教会自身がキリストの福音とは独立したところで二元論的あるいは二元主義的に考え出した人間の救いと平和の企て・行為・社会的政治的実践もという仕方で為される、それも現存する社会的政治的問題の過渡的――究極的な課題を明確に提起することもしないままに(このことについては何度も既述した)、それゆえに即事的場当たり的に為される社会的政治的実践の「良き行為の総内容」ではあり得ない、それゆにまた「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」という・また「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進するという・また「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進するという「良き行為の総内容」ではあり得ない。人間的な愛というものを考えてみても、私利・私意を精神とする近代市民社会におけるそれや身近なキリスト教的奉仕というものと人類史の原型・母胎・母型の段階におけるそれを比較考量してみた場合、どちらが人間的な愛として優れているかは一目瞭然である(イザベラ・バード『日本奥地紀行』、野村達郎『民族で読むアメリカ』、またバルトの『証人としてのキリスト者』の中で論じている宗教社会主義批判を参照)。したがって、そのような「総内容」と「神の愛」とを「等置」することはできない。したがってまた、イエス・キリストにおける神の自己「啓示の中でわれわれに出会う神の存在の内容的規定と充填に向けつつ決定的な方向転換を為す時」、そしてその第一義的なものとして「愛の概念を取り上げる時」、その「愛」の概念内容は、「神の行為、したがって神の存在」を、換言すれば、神の行為の出来事としての神の存在を「証しするという……課題に奉仕」することが「ゆるされ」、「奉仕」しなければ「ならない」という点にあるのである。すなわち、その「愛」の概念内容は、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)、われわれは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(その第二の形態の聖書的啓示証言におけるそれ)を、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、換言すれば先行する「神の愛」の下で、<純粋>なキリストの福音、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める後続する「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち純粋なキリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)を志向し目指していくという点にあるのである、換言すればそういう仕方で「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指していくという点にあるのである。したがって、ましてや、党派主義の、多元主義の、党派的多元主義の尊重にあるのではないのである。このような訳で、われわれは、「愛」の概念内容について思惟し語る時、「ことさら愛の何らかの定義でもって始めたのではなく」、あくまでもイエス・キリストにおける神の自己「啓示の中で明らかな神の行為(≪それ故に神の存在、神の行為の出来事としての神の存在≫)をしてそれ自身のために語らしめるということ、すなわち神はその行為(≪それ故に神の存在、神の行為の出来事としての神の存在≫)の中で、われわれとの交わりを求め造り出される方であるということでもってはじめたのである」。なぜならば、われわれは、「愛について」、人間論的な自然的な人間が、教会論的なキリスト教的人間が、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して「一般的な概念を押しつける」時、「誤謬に導かれて」いるということを認識し自覚しているからである。したがって、「われわれの課題」は、「われわれがⅠヨハネ四章と共に、神は愛であるという時、それをひっくり返したところの愛は神であるという言い方は、……神の存在からして、したがって神の行為(≪それ故に神の行為の出来事としての神の存在≫)からして、(それの側で正当にも神と同一視されることができ、また同一視されなければならない)その愛とは何であるか」を、「神の存在、したがって神の行為(≪それゆえに神の行為の出来事としての神の存在≫)に基づいて伝えられ解明され」なければならないという点にあるのである。

 

(1)「神の愛においては、愛それ自身の故に、(≪先行する神の愛それ自身に基づいて≫)交わりを尋ね造り出すことが問題である」、「まさにそれとしての愛する者と愛される者の間の交わりそれ自身が、愛する者が愛される者に伝え、愛される者が愛する者から受け取る」という関係性を尋ね造り出すことが問題である、このように「神は愛する方であり、そのような愛する方として、よき方であり、すべてのよき者の総内容であり給う」、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の「神は(≪その三つの存在の仕方、業と行為、換言すればその神の行為の出来事としての神の存在において≫)父、子、聖霊であり、そのようなものとしてわれわれの創造者、和解者、救済者であり、そのようなものとして、……(≪自己還帰する対自的で対他的・他在であって自在・全き自由の神の内在性、「父なる名の三位一体的特殊性」の中で≫)神がご自身の内で持ち給い、ご自身であり給う交わり」を「超えて、(≪神と人間との無限の質的差異の下で、神の側からする≫)神とわれわれとの交わりによって初めてわれわれに贈り与えられるべきそれより高い善は存在しない交わり」の中へと、「われわれを取り上げるということの中で、神は善であり給う」、「神がわれわれを愛する時、神は、われわれに何かを与えるのではなく、(≪愛する方としての神は、われわれに、われわれ人間のために・われわれ人間に代わって、われわれ人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」という「律法の成就」・完了を与え給う、われわれ人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」のわれわれの「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように」、すなわち神と人間との無限の質的差異の下で「統一し給た」という啓示・和解を、福音の内容を与え給う、それゆえに神と人間との無限の質的差異の下で≫)ご自身を与え給う」・「まさに、ただ神ご自身を、独り子を与え給う時にのみ、神はすべてを与え給う」、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえにあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、神の子、起源的な第一の形態の神の言葉、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」ように、換言すれば三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性において起源的な第一の形態の神の言葉(神の第二の存在の仕方、神の子、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、「まさに顕サレタ神こそが隠された神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト)が、具体的にはその第二の形態のイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一のイエス・キリストについて「言葉、証言、宣教、説教」、聖書の中で人間の言語を介して直観と概念を用いて証しされているイエス・キリスト、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」が、われわれ人間に対して客観的な対象として与えられ存在しているように、また客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、聖書的啓示証言において神は「イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊」であるからキリスト論的に復活したキリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で人間が人間的に所有する人間の信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)が与えられるように。
 「ご自身のみ子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡された方が、どうしてみ子のみならず万物をも賜らないことがあろうか(ローマ八・三二)」。このような訳で、(1)「ヨハネ文書の……認識と告白は、……これらの賜物の与え主、……み子ご自身へと向けられているのである」、(2)「共観福音書記者においては、神の国というもの」は、「独立した現実にではなく」、「姿を顕わしたメシアに、その言葉と業に」、その第二の存在の仕方に、その行為の出来事としての神の存在に、また神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「メシアを信じる信仰に、徹頭徹尾結び付けられている」のである。このように、その「御国は、その王と絶対に切り離せないものである」。「まさにそれ故にこそ、神に愛された者が為す応答」は、「けれどもわたしは常にあなたと共にあり、あなたはわたしの右の手を保たれる。あなたはさとしをもって私を導き、その後わたしを受けて栄光にあずからせられる。わたしはあなたのほかに、だれを天に持ち得よう。地にはあなたのほかに慕うものはない。わが身とわが心とは衰える。しかし神はとこしえにわが心の力、わが嗣業である。見よ、あなたに遠い者は滅びる。あなたは、あなたにそむく者を滅ぼされる。しかし神に近くあることはわたしに良いことである。わたしは主なる神をわが避け所として、あなたのもろもろのみ業を宣べ伝えるであろう(詩篇七三・二三以下)」・この詩篇に「対応して、パウロはさらにこう言っている、『わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものを将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、(≪神の側の真実としてある、それ故に完了・「成就と執行」、客観的現実性・客観的実在、「永遠的実在」・永遠的現実性としてある、先行する≫)わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである』(ローマ八・三八以下)」・「聖霊によって、われわれに注がれた……神の愛そのものだけが消え失せることのない希望の根拠であり、また練達の、そのようにしてまた忍耐の根拠である(ローマ五・四以下)」。したがって、「もしも人が、トマス・アクィナスと共に」、「神の愛」を、「『愛スル』トイウコトハ、『何モノカノタメニ善ヲ欲スル』トイウコト以外ノ何ゴトデモナイ」と定義するならば、「すべてを見落とすこと」になるのである。なぜならば、その場合、「その後続けて……愛ノ主体ガ自己ノ外ニ出デ、ソノ愛スルトコロノモノニマデ移サレルトイウコトハ、『彼ガソノ愛スル者ノタメニ善ヲ欲シ、自ラノ配慮デモッテソノタメニハタラクコト、アタカモ自分自身ノタメニスルノト異ナルトコロガナイ』コトヲ指スモノニホカナラナイ」と言うからである。それに対して、「聖書的には、神の愛の……命題」は、「愛ノ主体が(アタカモ自分自身ノタメニスルノト異ナラナイ仕方デ)ソノ愛スル者ノタメニ善ヲ欲シ、自ラノ配慮デモッテソノタメニハタラクコトハ、彼ガ自己ノ外ニ出デ(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神は、その第二の存在の仕方、その業と行為、すなわちその神の行為の出来事としての神の存在において、自己啓示、自己顕現において≫)、ソノ愛スルトコロノモノニマデ移サレル(≪神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を与えるという仕方で、「伝達」される≫)コトヲ指スモノニホカナラナイ」とならなければならない。なぜならば、「神の行為が問題である場合」、神の行為の出来事としての神の存在が問題である場合、神の側の真実として、あくまでも神の側からやって来る出来事の中で、すなわちあの神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で「移サレルコト」の中で、換言すれば信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰を与えるという仕方における「伝達そのものの中で、他の者に対して、よきことが起こるのであって、決してその逆ではないからである」。神と人間との無限の質的差異の下で、神の行為の出来事としての神の存在に基づいて伝えられ解明されるべき神と同一視される神は愛であり・愛は神であるが故に、それゆえに自己還帰する対自的であって対他的・他在であって自在・全き自由の「神は愛し給うが故に、また愛し給うことによって」その「神の意志」は、「何モノカノタメ善ヲ欲スルコトデアル」。なぜならば、神と人間との無限の質的差異の下で、神の行為の出来事としての神の存在に基づいて伝えられ解明されるべき神と同一視される神は愛であり・愛は神であるが故に、「神が愛し給うが故にのみ、神の意志が向けられることができ、あるいは向けられている何モノカまたは何者カは、そもそも存在するからである」。このように、「他のものが存在し、(≪前述したように≫)神の愛が事実、そのものに向けられ、したがって神がそのものと交わりを保ち、神がそのものを愛することによって、神はそのものために善を欲し給う。神は神であり給うが故に、神であり給うことによって、……他のものに身を向けられることが神の意志であるがゆえに、神の意志であることによって、したがって神が愛し給うが故に、愛し給うことによって、神の意志は善き意志なのである」。このような訳で、「もしも人が、神の善を、(≪神の行為の出来事としての神の存在に基づいて伝えられ解明されるべき神と同一視される神は愛であり・愛は神であるところの≫)神の愛を超えて神の愛とは別な(≪観念の自然過程における知的遊びの果てに想定される形而上学的一面的固定的に抽象された≫)最高善の中に尋ね求めるならば、人は、この最高善の定義に際して、純粋な不動の存在という理念へと再び後戻りしてしまうことから逃れること」はできないのである。「神の人格的な生の『積極的な善き内容』は、神の伝達の背後にも、その外にも存在」しないのであって、「それは、自己を伝達する生そのものである」という点にある。この時、「神的自己の発散にまで来ないということ」は、すなわち神は、常に神であり続けるということは、「神は、まさに(≪神の内在性、「父なる名の内三位一体的特殊性」において≫)ご自身の中で父、子、聖霊として自分自身を伝達する生であり給うということ」である。その「神の最も内的な自己が、神の自己伝達であり、(≪自己還帰する対自的であって対他的・他在であって自在・全き自由の、その第二の存在の仕方における自己啓示、自己顕現、外在化において≫)神はこの世を愛し給うことによって、この世をしてこの神の完全性に参与させ給う」のである――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)への聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、その神の行為の出来事としての神の存在であるイエス・キリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、復活へと向かっている、このキリストの復活(完了・成就された時間、本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間)は、「新しい世」・時間のはじまりである、したがって、イエス・キリストが、われわれ人間に対して、聖書およびその聖書に信頼し固執し連帯した教会の宣教を通して、すなわち神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入る」ことを認識し信仰し承認し確認するのである。このような訳で、「R・ゼーベルクが、……『結局、世に対する神の業全体を愛として特徴づけることはできない』」と述べた時、「神はヨハネ三・十六によれば、まさに『特別なキリスト教的な神体験』に従ってこそ」、換言すればあの神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰における神体験に従ってこそ、神は「確かに極めて明瞭な仕方で世を愛し給うた」ということを認識し自覚することができるのであるから、人は、「ゼーベルクと共に神の全能を、この脈絡の中で神の愛の代わりに置くことは実際勧められることではない」のである。神の「神的な出来事、行為、生命の特殊性」は、「人格の存在(≪その存在の仕方における存在≫)の特殊性」である、すなわち神のその第二の存在の仕方の特殊性である、すなわちその「出来事の総内容は、神の言葉が肉となった(≪その第二の存在の仕方、すなわちその言葉の受肉であって、その本質の受肉、すなわちその神性の受肉ではない≫)ということ、そして神の霊がすべての肉の上に注がれるということから成り立っている」、それゆえに「われわれが出来事として神の存在(≪神の行為の出来事としての神の存在≫)について語る時」、われわれは、神のその第二の存在の仕方、「行動、……行為について語っている」のである、「聖書に従えば」、イエス・キリストにおける神の自己「啓示の中でのすべての出来事の先端は、……(≪あの神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて≫)神がわれとして語り、また語りかけられた汝によって聞かれるということ(≪神語り給う故に神語り給うことを聞くということ≫)から成り立っている」のである。

 

(2)「神の愛においては、愛される者に既にある(≪理性力、悟性力、感情力、想像力、意志力、修練力、善性等の≫)適性やふさわしさがあるかどうかということを顧慮することなしに、交わりを求め造り出すことが問題である」。言い換えれば、神の側の真実としてある、常に、われわれ人間の外・彼岸から先行してやって来る「神の愛」は、「相手側(≪われわれ人間の側、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間の側≫)からの愛によって条件づけられていないばかりでなく」、「愛される者のその他何らかの愛に値するふさわしさによっても、また愛される者の側に既に存在している契約や交わりに対する能力によっても条件づけられていない」のである。したがって、「もしも、愛される者が、そのようなものを持っているとするならば」、例えば啓示認識・啓示信仰には、キリストの霊である聖霊によって更新された理性を必要とするのであるが、愛する者が、そのような更新された理性を持っているとするならば、また例えばそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言におけるそれ)を、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストの福音を、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、すなわち純粋なキリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連環と循環を志向し目指しているとするならば、「それ自体既に(≪われわれ人間との混淆・混合・協働・共働を全く必要としないところの、徹頭徹尾先行する≫)神の愛が造り出したもの」なのである(われわれの宣教は、あくまでも、感謝の応答であって、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従におけるそれ、態度・決断におけるそれなのである)。しかし、「神の愛の対象それ自体」は「神のみ心にかなう適意そのものにまさにふさわしくないし」・「まだふさわしくないところの」者たち(人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、われわれ人間)であるから、「それらのもの」は、「神の愛の条件ではないし、また条件とはならない」のである。それらは、「先行する(≪神の≫)愛の後に従う神のみ心にかなう適意の対象」なのである。「神の愛は、常に、(≪神の側の真実として、神の側から、神と人間との無限の質的差異の下で≫)深淵の上に橋を架ける」のである。神の側の真実として、神の側から、人間の側に架橋する。このように、「神の愛は、常に、闇から輝き出る光である」。「神の愛」は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示の中で、交わりが全く存在しないし、それ自体では交わりへの能力も全く存在しないところで」、また三位一体の「ひとりの神に相対して」「疎遠な」「被造物」が、換言すれば「敵意を持つ」「罪深い被造物が問題であるところで」、「交わりを求め造り出すのである」、神の側の真実として、神の側から、人間の側に架橋するのである。このように、神は、「他のもの、疎遠な者、いや敵対的な者を……愛し給う」。すなわち、「神が愛する時に見給うものは、まさに神ご自身とは全く別のもの(≪神と人間との無限の質的差異の下にあるもの≫)、そのようなものとして、それ自体では失われた」者、「神なしには死の手に引き渡される者である」。「神ご自身が、この死に引き渡される者のところにまで橋を架け給うということ、また神が闇の中の光であり給うということ、そのことが、神の全能の愛の奇蹟である」、神の全能の愛の出来事である、神の全能の愛の行為の出来事としての神の存在である。バルトは、『福音と律法』で、次のように述べている――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰(≪死≫)以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」。「それ故に、人の子は、『イスラエルの家の失われた羊に遣わされた』(マタイ一五・二四)。『健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。わたしがきたのは義人を招きためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである』(ルカ五・三一)。ルカ一五章によれば、失われた羊、失われた銀貨、失われた息子が、メシヤの業(≪メシヤの行為の出来事としての神の存在≫)の対象である」。したがって、「パリサイ人たちに対しては、ヨハネ九・四一……のように言われければならない」。パウロは、「われわれの心に注がれた……神の愛について、事情」は、「神はわれわれに対する愛を、『まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって』(ローマ五・八)示されたのである」、と述べている。このような訳で、ポラーヌスの「神ノ愛」についての「ミ心ニカナウトコロノモノデモッテゴ自身ヲ喜バセ……ルコトガ愛スルコト」であるという定義は、先行する神の愛・「愛される者に対する(≪われわれ人間の側の神のみ心に適う≫)先行する適意が、神的な愛を本来的に構成し動かすものである」という「言明も訂正を必要としている」のである。また、クエンシュテッドの「神ノ愛」についての「神ノ愛ハ、神ゴ自身ガ、愛スベキ対象トゴ自身トヲ優シク結ビツケ給ウトコロノモノデアル」という定義も、「キリストの十字架を、選ばれ、恵みを与えられたイスラエルの民の罪、あるいは不信心な者を義とすること(ローマ四・五)を、死人を生かし、無から有を呼び出される方(ローマ四・一七)を信じる信仰を考えているのではなく」、「(それ自身においてもひどく議論の余地のある)愛についての一般的な概念を考えている」それなのである。先行する「神の愛の根拠は、神によって愛された者の外に(≪彼岸に、神の側の真実として≫)、すなわち神ご自身の中にある」のである。三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である「わたしは、わたしを愛する者を愛する」(箴言八・一七)・(≪三位一体の神の第二の存在の仕方である≫)「わたしを愛する者は、(≪その起源的な第一の存在の仕方である≫)わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛するであろう」(ヨハネ一四・二一。なお二三節を参照せよ)・三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である「父ご自身があなた方を愛しておいでになる。それは、あなた方が(≪その第二の存在の仕方である≫)わたしを愛したため、またわたしが神のみもとから来たことを信じたためである」(ヨハネ一六・二七)・「イエスは、ご自身について、(≪三位一体の神の起源的な第一の存在の仕方である≫)『父は、(≪その第二の存在の仕方である≫)わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛してくださったのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである』(ヨハネ一〇・一七)とさえ言い給う」。三位一体の根本命題に即して理解すれば、三位一体の神の第三の存在の仕方である聖霊は、「三度目」に、父と子の二つの存在の仕方から生じる「一つの存在の仕方」である。したがって、この聖霊は、「特別な第二の啓示」ではなく、「父ト子ヨリ出ズル御霊」、「父なる神と子なる神の愛の霊」である。ここに、聖霊の「起源」がある。この聖霊において、父と子(≪神的な対≫)は、愛に基づく完全な共存的な関係・交わり(≪神的な共同性≫)において存在する。すなわち、聖霊は、その愛に基づく完全な共存的な関係・交わり(≪神的な共同性≫)の中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」(啓示者)であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」(啓示)であるところの業と「行為」(啓示されてあること、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」、キリスト教に固有な類・歴史性、その関係と構造・秩序性)である。ここに、神は愛・愛は神であることの根拠がある。「愛は神にとって、最高の法則であり、最後的な実在」である。愛は、自由がそうであったように、先ず以て「神ご自身においてのみ実在であり真理」である。

 

(3)「神が(≪われわれを≫)愛されるということは自己目的である」。したがって、「確かに神は、われわれを愛することによって、ご自身の栄誉とわれわれの救いを欲し給う」のであるが、しかし「神は、そのことを欲するがゆえにわれわれを愛し給うのではない」のであって、「そうではなくて、(≪父・子・聖霊として神は愛である・愛は神であるという≫)ご自分の愛の故に、……ご自分の栄誉とわれわれの救いを欲し給う」のである、そのように「意志され、達成され」給うのである。このような訳で、「神は、これらの目的を実行に移すことによって、愛し給う」のである、また神は、「これらの目的を実行に移すことなしにも」、「実行に移す前にも、愛し給う」のである。すなわち、「神は、永遠から永遠にわたって愛し給う」。その達成、その「実現が目的に適うものであるということ」は、「神の愛そのものの中に、すなわち父・子・聖霊の愛の中に基づいており」、その達成・「実現は、(≪あの神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)われわれが神を信じることによって(≪われわれが信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰によって≫)、われわれが神を愛し返すことによって(≪先行する神の愛の下で、われわれがあの後続する「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連環と循環を志向し目指すことによって≫)」、「ただこの神が愛し給うということそのものから理解されなければならない」。「ただ主があなた方を愛し、またあなた方の先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなた方を導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、贖い出されたのである」(申命記七・八)・「『遠くから』主は荒野の民に現れ、『わたしは限りなく愛をもってあなたを愛している。それ故に、わたしは絶えずあなたに、真実を尽くしきた』(エレミヤ三一・三)と言い給う」・「使者や天使ではなく、神ご自身が、その愛とあわれみとによって彼らを贖われた」(イザヤ六三・九)。「ここのところからして、A・リッチュル」の次のような「神の愛の教説」・「愛についての……一般的な定義」を首肯することはできないのである。そのリッチュルの愛についての一般的定義はこうである――「『神の国』は、換言すれば『人類(≪個体的自己としての人間の類≫)が一般的な隣人愛の動機によって、(≪個体的自己としての人間として≫)道徳的に結び合わされること』は、『世界の最終目標として、また造られた(≪個体的自己としての人間の≫)精神にとっての最高善(≪すなわち、「他の精神的な、……同じ種類の人格を、その本来的な最高の定めに到達するよう促し」、「愛する者が自分自身の最終目標を追求する『不断の意志』としての愛≫)として、神的な自己目的(≪神はわれわれを愛するということ≫)と必然的に相関関係を持つものであるということになる」。このような訳で、リッチュルによれば、「神が、……この世界の最終目標と、その中でそれと共に、神の本来的な最終目標」を「不断に意志し給うことによって、神は永遠の愛である」ということになる。このリッチュルの愛についての一般的な定義は、世界認識の方法から言っても首肯することはできず、ただ単なる形而上学的一面的固定的に抽象された隣人愛的道徳主義の空論に過ぎないということができる、ちょうど時代状況が全く許さなくなっている西洋近代を頂点としたその歴史と終末論を結びつけようとしたモルトマンの神学的な三段階的進歩史観のように。それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における第三の形態に属する全く人間的な教会の宣教の現在的課題を考えることは、その起源的な第一の形態の神の言葉にまで時間を遡って考えることであるように、人類史の原型・母型・母胎(例えば、先住の、北米インディアン、アイヌ人等)の段階にまで時間を遡ることと現在的課題(ミシェル・フーコーも吉本隆明も、時代状況的に成立し得なくなっている人類史の頂点として世界普遍性を獲得していた西欧の哲学・思想・革命・人間・社会の概念という「西欧の危機」を認識し自覚している)を止揚することとは同じ方法でなければならない、換言すれば現在的課題を止揚することを考えることは、人類史の原型・母型・母胎の段階にまで時間を遡って考えることである、と述べた吉本隆明は、次のように述べている――人類は、「人間のつくる観念と現実のすべての成果(それが<良きもの>であれ、<悪しきもの>であれ)を、不可避的に蓄積していくよりほかない」ものである・すなわち、歴史的現存性とは、人間の非有機的身体とされた全自然(現実的な観念的なそれ)を、それが良きものであれ悪しきものであれ、人類がそれらを人類的成果として歴史的に蓄積させてきたものの現存性のことである・したがって、個体的自己としての人間は、そうした人類史的成果としての制度や社会を不可避に生きる以外にないのである・したがってまた、個体的自己としての人間の「意志、判断力、構想」が通用するのは「ただ半分だけ」であって、いったんそうした「現実に衝突してからは」人は、「何々させられる」、「何々せざるをえない」、「何々するほかない」というように生きる以外にはないのであって、そのようにして個の現存性を刻んでいく・すなわち、人間の歴史は、「すべての個人としての<人間>が、或る日、<人間>はみな平等であることに目覚め、そういう倫理的規範(≪隣人愛的道徳主義≫)にのっとって行為すれば、ユートピアが<実現する>という性質のものではない」のである。小さな島国の日本の知識人においては、神学者や牧師を含めて、その「西欧の危機」の認識と自覚を持たないまま、またその現在的課題の止揚をその人類史の原型にまで時間を遡って考えることをしないまま、ただ箔を付けるためにだけ欧米留学をめざす軽薄な知識人がごまんといるのである。にもかかわらず、関田寛雄の『「断片」の神学』によれば、軽薄な日本のある教会は、「後任牧師の選任」基準を「外国留学」と「学位」においているということである。これ、本当に、イエス・キリストを主・頭とする<教会>かな? これ、ただ単なる軽薄な党派的知識人集団にしか過ぎないのではないか? 論述を元に戻せば、リッチュルは、「『神が永遠に神の国の教会を愛し給う時に』(エペソ一・四、六)、神はまたその中で結び合わせられるべき個々の者を、常に既に神が彼らを神の国(≪前述したそれ≫)に受け入れようと意図される限り、愛し給う」、「さて、そのような者が罪人として前提されなければならない時に、神はまた罪人たちをも、(≪前述したことの≫)(その実現のために彼らを選び給う)彼らの理想的な定めを顧慮しつつ、愛し給う」、このような「思惟行為は『決して難しいものではない』」、と主張する。なぜならば、このような「思惟行為は、『その類比を、われわれの道徳的意志自体の高められた瞬間にわれわれのものであって、われわれは善に向かうわれわれの自己規定の力を、われわれの中に、われわれの外に存在しているすべての障害を除去しつつ、体験するところの自己感情と自己評価の中に』持っている」からである、とリッチュルは主張する。この主張に対してバルトは、次のように批判する――すなわち、「この思惟行為は、その対象がこの高められた瞬間におけるあのよく知られたわれわれ人間の自己感情の実証とあまりにもよく類似しているが故に、あまりにも安易になされた思惟行為であると言ってよい」、と。このように、リッチュルの主張においては、「神は、……人間の自己感情の行為として……理解されることを可能とする」それである。言い換えれば、リッチュルの神は彼によって対象化され客体化された「人間の自己感情の行為」としてのそれである。この場合、「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(『キリスト教の本質』)・「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない(『フォイエルバッハ全集第12巻 宗教の本質にかんする講演 下』)。このような訳であるから、われわれは、父・子・聖霊としての神は愛である・愛は神であるところの「神が愛の中で為されることを」、愛し給う神の行為の出来事としての神の存在を、倫理的「合目的性の中に解消してしまう」ことはしないで、その「行為の神的な所以を、換言すればその行為を神聖で恵みに満ちた行為として」・「崇拝すべき祝福をもたらす行為として」「特徴づけるところのことを、再発見」しなければならないのである、神の存在としての愛し給う神の行為の出来事を、「すべての可能なその他の出来事のプラグマティズムから区別」しなければならないのである、そしてその先行する「主体の主権的な行為として明らかに」しなければならないのである。