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14の3『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」

14の3『教会教義学 神論Ⅰ/1 神の認識』「五章 神の認識 二十七節 神認識の限界」「二 人間の神認識の真理性」(395-424頁)
再推敲・再整理版です。

 

「二 人間の神認識の真理性」
 「……われわれは今、……ゆるされるということがわれわれの認識の行為そのものにとって何を意味しているのかを、さらに正確に考察しなければならない」。「われわれは、これまで語られたことすべてを既に知られ・承認されたとして前提する」。「その時、われわれの手に与えられた手段に基づいた」、換言すれば神の側の真実としてあるあの総体的構造における「存在的なラチオ性」としてのそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性に連続するということに基づいた(下記の【注1】を参照)、「われわれによって用いられた直観、概念、言葉と、それらの対象としての神との間の関係」は、「認識するものと認識の働きおよび認識されたものとの間に現実的な交わりが成り立っている関係として判断されなければならないことは確かである」。このことをバルトは、神学における党派性(教派、学派、思想傾向、主義等)において述べているのではなく、あの総体的構造における第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした、その思惟と語りの総体性における一貫性の下で述べているのである。すなわち、バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、自らの立場において、次のように述べている――われわれは、自己自身である神としての聖性・秘義性・隠蔽性において存在している「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(下記の【注2】を参照)における第二の存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち起源的な第一の形態の神の言葉であり、「啓示ないし和解の実在」であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」、「ただイエス・キリストの名だけ」)という「一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(≪学派、教派、思想傾向、主義等々≫)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……」、と。人間学的領域においては、詩人であり、文芸批評家であり、思想家である吉本隆明は、『思想の基準をめぐって』で、「対立する双方に真理があるというような俗説(≪多元論、多元主義も党派的思想、党派主義的思想である≫)が、世界史的に流布され、流通している」中で、「自らの立場」において、両者を「包括し止揚しなければならないということが思想的な問題である」と述べている。何故ならば、神学領域におけるそれであれ、人間学的領域のそれであれ、「思想は、物質ではなく外化された(≪表現された≫)観念である」からである。その「観念の運動は観念によってしか埋葬」されないから、「甲の観念は、乙の観念がそれを包括し、止揚することによってしか」、「いいかえれば甲の観念を生かして袋に入れることによってしか」、すなわち乙の観念が甲の観念を否定的に媒介することによってしか、「滅びないからである」(『カール・マルクス』)。「『今日まさにこのマールブルク(≪ブルトマン、ブルトマン学派≫)では、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、≫)『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか』」とハイデッガーが「揶揄」・批判した時、それが、客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的なそれであるが故に、ハイデッガーは、これだけの思惟と語りで、根本的包括的に原理的に、ブルトマン(ブルトマン学派)の観念(神学)を埋葬したのである。このことを理解できないのは、神学における思想の問題を認識し自覚していない神学者や牧師たち等である。

 

【注1】
 神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造としてのそれである

 

【注2】
 自己自身である神(ご自身の中での神)としての、自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在する「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の起源・根源としての父は、「子として自分を自分から区別する」し、「自己啓示する神として自分自身が根源である」、それ故にその区別された子は、父が起源・根源であり、神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は、父と子が起源・根源である――この神は、「子の中で創造主として、われわれの父として自己啓示する」のであるが、この神が「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とすることからして、父だけが創造主なのではなく、子と霊も創造主であり、父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもあるのである。それからこの神は、その区別を包括した単一性において、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方(性質・業・働き・行為・行動・活動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊――啓示されてあること・それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神としての神の自由な愛の行為の出来事全体である。
 ここで、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第三の存在の仕方である、神的愛に基づく父と子の交わりとしての「聖霊」は、キリスト復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代において、その交わりの中で、「父は子の父」・「言葉の語り手」、すなわち啓示者であり、「子は父の子」・「語り手の言葉」、すなわち啓示である、換言すれば「啓示されてあること」――第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)の連続性のことである。

 

 そのような訳で、われわれが人間の言語を介した直観と概念を用いて認識された神についての「認識の真実性」、換言すれば「われわれが、人間的な……ふさわしくない言葉」を、その「ゆるしの下でそれにもかかわらず……神に適用する際の真実性」は、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして(下記の【注】を参照)、「われわれが、言葉を、今は被造物に基づいて、今は神の啓示に基づいて、神に適用する時、そこでは全く、内容と意味の同一性は成り立っていない」のであって、徹頭徹尾神の側の真実としてあるあの総体的構造における「神の隠れ」の中での「啓示と信仰の出来事」に基づいて成立しているのである。したがって、人間の側からする形而上学的に一面だけを抽象され固定化された、人間の言語を介した直観と概念を用いた神についての認識と、その認識の対象としての神との間の「同一性についての主張」の下においては、また「畏敬の念の余りに人間的な誇張からする両者のただ単なる不同一性についての主張」の下においては、「われわれの神認識の真実性について語ることは不可能である」。したがってまた、「われわれの神認識の真実性について語る」時には、先ず以て聖書的啓示証言から規定されてくるところの、神の側の真実としてある常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それ故に神の認識可能性である起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリストにおける啓示の出来事において、換言すれば神の側の真実としてあるあの総体的構造における三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)において、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」という認識と自覚を必要とするのである。言い換えれば、終末論的な途上性におけるわれわれは、キリスト教に固有なあの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに対する他律的服従とその決断と態度という自律的服従との全体性において、それに連続して行かなければならなうという認識と自覚を必要とするのである、すなわち人類史、世界史の、それぞれの世紀において、キリスト教に固有なその深化と豊富化としての個体的自己の信仰的成果の世代的総和を目指して行くべきである、その世代的成果としてのキリスト教に固有な類を、キリスト教に固有な歴史性に時間累積させて行くべきであるという認識と自覚を必要とするのである。

 

【注】
 イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある。Ⅰコリント13・8以下)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動――父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体)における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。

 

 「昔の神学」は、神と人間との「交わりを言い表す表示の仕方として、類比(アナロギア)という概念を選び」取った。この類比概念は、「同一性と不同一性と違って」、「同一性と不同一性のいずれをも限界づけている(二つの、あるいはそれ以上のものの間の)」、「類似性」、「換言すれば部分的な……対応と一致ということを意味している」。われわれは、「とにかく……われわれの神認識の真実性の根拠としてのキリストの啓示の中での神の真実性を通して、さし当たって先ずこの概念を手に取る以外に……選択の余地はないのである」。したがって、われわれは、人間の言語を介した直観と概念を用いて「<神について語ること>と<神が現にあり給うこと>との間の関係を言い表すために、類比という概念を選択する」のである。「われわれの神認識の真実性の根拠としてのそのキリストの啓示の中での神の真実性を通して、さし当たって先ず」、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における「存在の類比」の概念ではなく、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、あの総体的構造から規定されてくる「啓示の類比」、「信仰の類比」、「関係の類比」という概念を選び取るのである。

 

 われわれは、「それ自身ただ(≪神とは全く異なる≫)被造物的なものを言い表すに過ぎないわれわれの言葉を用いて(≪われわれ人間の言語を介した直観と概念を用いて≫)神について(≪思惟し≫)語りたいと願っていること」と、「神が現にあり給うところのこととの間の関係を問う」のである。そこにおいては、人間論的な自然的人間あるいは教会論的なキリスト教的人間の側からする「存在の類比という言葉は退けられ」、また形而上学的に一面だけを抽象され固定化された「同一性あるいは不同一性という言葉は退けられ」、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、神の側の真実としてあるあの総体的構造から規定されてくる「類比(≪啓示の類比、信仰の類比、関係の類比≫)という言葉の選択が起こる」のである。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下において、キリストにあっての神としての「神は、ほかの何ものとも比較されることのできない対象であり給う」。しかし、「もしも(≪父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体としての≫)神の存在と人間的な言葉との間の類比的関係」が、徹頭徹尾「神の真実な(≪キリストの≫)啓示の中で、事実成り立っているとしたら」、また神の側の真実としてあるあの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」に基づいて終末論的限界の下で「われわれに対して真実な神認識を伝達することによって、事実成り立たせているとしたら」、それ故に「もしもこの真実な認識に」、「類比的な関係の認識が属しているとしたら」、それ故にまた「類比的な関係を言い表すための言葉が属しているとしたら」、「神がご自身を比較し得る対象として措定し給う際の神の真実な啓示の『にもかかわらず』の故に」、われわれは、「同一性」、「不同一性」、「類比性」という「三つの言葉の領域へと駆り立てられ入れられている」のであるが、しかし、「われわれは、以前と同様以後においても、これらの言葉と取り組むのではなく、これらの言葉に対して……背中を向けて、真実な(≪キリストにあっての神としての≫)神の啓示の方に視線を向けるのである。そして、その神の啓示を通して同一性や不同一性という言葉から遠ざけられるのである。何故ならば、神の真実な啓示の中に措定されている関係」は、イエス・キリストにおける神の啓示からして、神のその内在的本質は隠されたままであるから、「同一性……不同一性という表示の仕方をゆるさないからである」、それ故に「存在の類比」という表示の仕方もゆるさないからである。しかし、「この具体的な、(キリストの啓示を通して立てられた)問いに答えてゆくためには」、それ自体としては形而上学的に一面だけを抽象され固定化された「同一性や不同一性という言葉と比べて決して特に立ちまさった性質を持っているわけではないとしても」、「真実な神の啓示に根拠づけられた類比という言葉」(類比概念、啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)を要請させられるのである。このような訳で、「類比という言葉」(類比概念)は、「それ自身で正しいわけではなく、またここでも正しいわけではないが」、「神の真実な啓示の中で措定された関係」が、「まさにこの言葉に対してこそ、その関係の神的な実在を言い表す表示としての性格を与えるが故に、この類比という言葉がここで正しいものとなるのであり、そのようにしてここでの関係は同一性と不同一性の関係ではなく」、類比性・「類似性の関係であると言えるのである」、ちょうど三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における起源的な第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(客観的な「啓示ないし和解の実在」そのもの)、そのイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教(教会の<客観的>な信仰告白および教義――Credo)が、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方、起源的な第一の存在の仕方であるイエス・キリストの父(「啓示者」・言葉の語り手)、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身(「啓示」・語り手の言葉)、第三の存在の仕方である神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊(「啓示されてあること」・「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性)と類比性・「類似性の関係であると言えるように。

 

 われわれは、キリストにあっての「神の真実な啓示の中で措定された類似性」が、われわれが「信仰の中で」「『類似性』として知っているすべてのこととは同一ではないということを知っており、そのことを念頭においているにもかかわらず(≪何故ならば、「類比という言葉」は、例えば「神とキリストの関係を言い表すためのものとしては、確かに全く転倒した言葉である」から≫)」、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の真実な啓示が、類比的な関係の「神的な実在を言い表す表示を与えるが故に、類比という言葉が正しいものとなるのであり、そのようにしてその関係」は、「同一性と不同一性の関係ではなく、むしろ類似的な関係であると言えるのである」から、キリストにあっての「神の真実な啓示の中で措定された」類比的な関係を、「真実な神認識として言い表すのである」、「同じように、再び信仰の中で」、類似性・類比性という「言葉で呼んでいることの中で、自分自身を映し出すことが意に適うことを知っているし、念頭に置いていることによって」、キリストにあっての「神の真実な啓示の中で措定された」類比的な関係を、「真実な神認識として言い表すのである」、ちょうど神の側の真実としてあるあの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示信仰に依拠した信仰の類比を通して、イエス・キリストにおける啓示の出来事(主観的な「認識的な必然性」を包括した客観的な「存在的な必然性」)が、「生来人間は、神の恵みに敵対し、神の恵みによって生きようとしないが故に、このことこそ、第一に恵みが解放しなくてはならない人間の危急であったということ」を、われわれに自己認識・自己理解・自己規定させるように、またそれは、われわれに、「神の選びをイエス・キリストの復活において認識」させ・信仰させ、「神の放棄をイエス・キリストの十字架において認識」させ・信仰させるように。「そのようにして、われわれの思惟と語りの中での類似性が、(神の真実な啓示の中で措定された)類似性に、(それに対してわれわれの思惟と語りの中での類似性はそれ自身では類似していないにもかかわらず)類似したものとなり、そのようにしてわれわれがあの関係を類似性の関係として言い表す時」、換言すればそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、「神の真実な啓示の中で措定された」直観と概念と言語を用いて「神について語りたいと願っていること」と「神が現にあり給うところのこと」とを「類似性の関係として言い表す時」、「われわれは偽りの仕方で思惟し語ってはおらず、むしろ正しい仕方で思惟し語っていることを知っているし、念頭に置いている」のである。このような訳で、われわれは、神の側の真実としてあるあの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられるところの、徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのものという啓示認識・啓示信仰(『福音と律法』)に依拠した信仰の類比を通して、生来的な自然的なわれわれ人間は、それが、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によっては』全く信じることができない」ということを自己認識・自己理解・自己規定させられるのである、それ故に「自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう」と言うのである(『福音主義神学入門』)。

 

 「われわれが、(≪終末論的限界の下において≫)この類似性という言葉をこの意味で正しいものであることを信じ、それに基づいてこの言葉を口にする時、そのことは決して人間と人間的な言葉の神化を意味しない」(何故ならば、われわれは、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固執するという<方式>の下で思惟し語らなければならないからである――この方式は、バルトにおいては、前期の『ローマ書』「第2版」から『福音と律法』、『ルートヴィッヒ・フォイルバッハ』、『教義学要綱』を経由した晩年の『神の人間性』、『シュライエルマッハー選集への後書』まで揺ぎ無く貫徹されている)。したがって、「われわれは、われわれあるいはこの言葉に、内在的な表現能力に」、それ故に「この言葉の内在的な正しさに対して信頼を寄せているのではない」、「われわれは、……(≪神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、あの総体的構造を持っているキリストにあっての≫)神の啓示に対して信頼を寄せるのである」。何故ならば、神の側の真実としてあるあの総体的構造を持ったキリストにあっての神の「啓示の故に、人間と彼の人間的な言葉は、原理的な無神性の無の中に見捨てられてしまうことは……ない」からである。また、人間、その人間的な言葉は、あの総体的構造を持ったキリストにあっての「神の真実な啓示の中で、神が啓示の中で人間およびその人間的な言葉に参与し給うようになるということでもって措定される類似性にあずかるようになる」からである。したがって、人類史の、世界史の、それぞれの世紀において、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした聖書的啓示証言の「注釈的な決断であったのであれば、その時、その限り、その決断は、正しい決断であったし、今も正しい決断である」。これらのことは、「われわれが(≪人間の言語を介した直観と概念を用いて≫)神について語ることと神が現にあり給うこととの間の関係を言い表すために、類比という概念を選ぶ際の過程の分析」である。このような訳で、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、神の側の真実としてあるあの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書を、自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下での途上性において絶えず繰り返し、それに対する他律的服従とその決断と態度としての自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」に根拠づけられた「神の讃美」としての「隣人愛」(通俗的な意味でのそれではなく、純粋な教えとしてのキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、すなわち純粋な教えとしてのキリストの福音をすべての人々が現実的に所有することができるためになすキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指す時、「われわれの神認識の出発点、神の隠れは、除去され……否定されることはないであろ」、それと同時に「その隠れを損なうことなしに、……われわれが概念でもって把握する働きの内部で理解できるものとすることがみ心に適ったし、み心に適うということを否定しはしないであろう」。

 

 前述したように、神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいた「われわれの直観、概念、言葉と、それらの対象としての神との間に、(≪キリストにあっての≫)神の真実な啓示に基づいて類比、類似性、部分的な対応と一致の関係が成り立っている」。「この類似性に基づいて、真実な、人間的な神認識にまでくる。したがって、人間がなす神認識は、その目標にまでくるのである」。それでは、「どのようにして、そのような部分的な対応と一致にまでくるのであろうか」。自己自身である神としての「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の根源・起源としての「父は子として自分を自分から区別する」し、「自己啓示する神として自分自身が根源」・起源であり、その「区別された子は父が根源」・起源であり、「神的愛に基づく父と子の交わりとしての聖霊は父と子が根源」・起源であるということの中に、それからまたこの神は、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的なその「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方における第二の存在の仕方(起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示ないし和解の実在」、語り手の言葉、和解主)である「子の中で(≪起源的な第一の存在の仕方である≫)創造主(≪啓示者、言葉の語り手≫)として、われわれの父として自己啓示する」のであるが、それ故に「父だけが創造主なのではなく、子と(≪神的愛に基づく父と子の交わりとしての第三の存在の仕方である≫)霊(≪「啓示されてあること」、「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性の連続性、救済主≫)も創造主」であり、「父も創造主であるばかりでなく、子に関わる和解主であり、聖霊に関わる救済主でもある」から、「ただ部分的にだけでもそのような対応と一致にまでくるとしたら」、イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、その「啓示の中で、ご自身を啓示し給う主体および主として」の「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の「神ご自身……の啓示の中で、ご自身の業を支配し給う創造主としての神ご自身の中で、成り立っているということを確認しなければならない」。その時、キリストにあっての神が、「神ご自身の業(≪父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体≫)の中で現にあるところのものであり給うということ」と「われわれの業(≪あの総体的構造に基づいて、人間の言語を介した直観と概念を用いて神について思惟し語ること≫)の中であるのとは全く違っている」としても、それ故に「神がご自身の中であり給うことと、神が(≪あの総体的構造に基づいた≫)われわれの業の中であり給うこととの間の関係は、ただ類似的な関係でしかないとしても」、神は、「ここでもあそこでも、ご自身の中においても、われわれの業の中においても、決して違った方ではあり給わない」のである。あの総体的構造に基づいた「われわれの業(≪人間の言語を介した直観と概念を用いて神について思惟し語ること≫)は、人間的な直観、概念、言葉を神に対して適用することから成り立っている」。このあの総体的構造に基づいた「われわれの業が、神の啓示に基礎づけられつつ成功しつつある業となるならば、換言すれば……それらがその全くの不適当さの中でしかも正しい真実なものとなることができるとするならば」、「神がこの関係の中で、神であり、あくまでも神であり続けつつ、人間を取り上げ給うことによって、純粋な対応と一致にまで来るのである」。

 

 「神は、そのすべてのみ業において正しくいます」。このことの中で、「われわれ人間的な直観、概念、言語の適した対象である被造物は、言うまでもなく神の創造によるものである」。また、「被造物的対象に対して用いられるのに適している性質を持った」「われわれの思惟と言葉も、神の創造によるものである」。したがって、キリストにあっての神の啓示の真理の中で、あの総体的構造におけるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)の連続性に連続するという仕方で認識する真理は、すなわち「われわれに適した対象をわれわれに適した仕方で認識する真理」は、「創造主が被造物と違う違い全体の中において神の真理である」、「われわれの真理であるのとは全く違った仕方で、神の真理である」。その時、それは、「(創造者的な仕方でそうであるが故に)起源的な、主要な、自主独立な、本来的な神の真理であり」、「(被造物的な仕方でそうであるが故に)ただ後から、副次的な、依存的な、非本来的な仕方でだけ、われわれの真理である」。このように、「われわれの真理は、神の真理としてではなく、ただわれわれの真理としてだけ、われわれに知られるようになることができ」、それ故に「関係の逆転、人間が神に関して自由に処理するということはあくまで排除されていて、不可能であり、それであるから後に従うことが先行することに変わってしまうことはあり得ないのである」、キリストにあっての神が常に先行し、われわれ人間はそれに後続して行くだけである。したがって、バルトは、教会の宣教における思惟と語りが、その一つの補助的機能としての神学における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではない」、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」の態度≫)に対し神が応じて下さる(≪「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」と言うのである。その時、「神の真理はわれわれの真理ではない」が、神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいた「われわれの真理は神の真理である」。したがって、キリストにあっての神の啓示の真理、神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいて与えられた信仰の認識として神認識(啓示認識・啓示信仰)としての真理は、「われわれの表向きの神理念、またわれわれの最も深い心の中での感情の対象」、すなわち「世の、最後的には人間の理念に過ぎないそれとしての真理ではない」。何故ならば、それらは、「常にわれわれ自身の映像、われわれの思惟と言葉の実体化に過ぎない」からである、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」に過ぎないからである。その時には、まさに「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、それ故に「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものである、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」ものである(『キリスト教の本質』)。そのような訳で、「(実は既にアウグスティヌスの教えであったところの)A・リッチュルの教え……最高価値あるいは最高善の理念」は、まさしく自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の立場に立脚した人間自身の「映像、……思惟と言葉の実体化に過ぎない」のである。「宗教とは、すべての神崇拝の本質的なものが人間の道徳性にあるとするような信仰であるとしたカントは、本源的であるゆえに、すでに前もってわれわれの理性に内在している神概念の再想起としての神認識という点で、(≪自然神学の段階にある≫)アウグスティヌスの教説と一致する」(『カント』)。

 

 われわれが、終末論的限界の下であの総体的構造に基づいて人間の言語を介した直観と概念を用いて啓示の真理について思惟し語る時、その思惟と語りは、「神の中では起源的な、主要な、自主独立的な、本来的な真理として、われわれによっては、後からの副次的な、依存的な、非本来的な真理として、また神の中では偽ることのない仕方で、われわれによっては(なぜといって、われわれはただ単に被造物であるばかりでなく、神から堕落した、罪深い被造物であるから)常に誤謬を持った仕方でなす思惟と語りである」。徹頭徹尾あの総体的構造に基づいた思惟と語りであれ、そのわれわれ人間の思惟と語りは、「誤謬は可能」であるところのそれである。したがって、徹頭徹尾あの総体的構造に基づかない、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における思惟と語りは、その最初から「誤謬は必然」としてのそれである。何故ならば、キリストにあっての神は、「われわれの直観、概念、言葉の真理として、ひとつのご自分の真理(≪神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいてひとつのご自分の真理≫)をたて給う」からである。「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における三つの存在の仕方、すなわち父、子、聖霊なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体において、キリストにあっての「神は、われわれの直観、概念、言葉の真理として、ひとつのご自分の真理(≪神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいてひとつのご自分の真理≫)を立てたて給うことによって」、「ご自身を確認し給う」、自己認識・自己理解・自己規定し給う。何故ならば、「それらが神の被造物を対象として持っていることが確かである限り、それらがそれ自身神の被造物であることが確かである限り」、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の起源・根源としての「創造主なる神は、それらすべての中でご自身を知り、それらすべてでもって……ご自身を描き、宣べ伝え給う」からである。

 

 「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の起源・根源としての「神、創造主(≪起源的な第一の存在の仕方、父≫)は、その啓示(≪第二の存在の仕方、子≫)の中で、われわれを、それと共にそれらの直観、概念、言葉を要求し給う」。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「例えば、『父』および『子』という言葉」は、「その真理」を、「先ず第一に、本来的に、それらの言葉がわれわれの言葉としては確かに目を向けることができないところに、しかし神の啓示の恵みに基づいて目を向けることがゆるされるし、創造主である神の当然の要求に基づいてまさに目を向けなければならないところに、……それらの言葉を神に適用することの中に、換言すれば三位一体論の中に持っている」。イエス・キリストにおける神の自己啓示からして、「父および子」は、「われわれにとって理解を絶した隠れた仕方で、……創造主が被造物に相対して持ち給う議論の余地のない優先性の中で、(≪「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の≫)神ご自身である」。「それであるから、われわれが、(≪神の側の真実としてあるあの総体的構造に基づいて≫)これらの言葉を神に適用する時、われわれは……これらの言葉の起源的な真理の中で語っているのである」。したがって、「支配」は、「先ず第一に、本来的に、……イエス・キリストの中で行使され、啓示された神の支配のことである」。すなわち、起源的な第一の形態の神の言葉であり、「啓示ないし和解の実在」であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストが、われわれ人間に対して、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によって(≪あの総体的構造に基づいて≫)われわれに語られるところ」においては、「われわれは神の支配のもとに入ることを承認し確認する」のである、「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会として承認し確認する」のである、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけであることを承認し確認する」のである(『教会教義学 神の言葉』)。したがって、「ただイエス・キリストだけ」が、われわれ人間の、その個と現存性――類と歴史性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所であり、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教における福音が、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎない神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所なのである。したがってまた、「忍耐」は、「先ず第一に、本来的に」、「神がわれわれに対して、あくまでも神を信じるための時間をゆるし与え給うことの中で明らかとなるところの神の理解を絶した存在と態度のこと(≪その存在の仕方のこと≫)である」。したがってまた、「『愛』……の真理」は、「父なる神と子なる神の間で聖霊を通して起こること、換言すれば神がみ子にあって世を愛し給うた愛の光の中で理解することができる」。子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事(存在の仕方、働き・業・行為)の中で理解することができる。「イエス・キリストにおける神の愛は、神自身の人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一である」(『ローマ書』)。したがってまた、「『腕』とか『口』という……感覚的な内容を持った言葉」も、「その真理」を、「神の行為と言葉(≪その存在の仕方≫)について語られるところに持っている(「詩篇九四・九」、「イザヤ四九・一五」、「マタイ七・一一」)」。