本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

「平和に関するバルトの書簡」(寺園喜基の私訳、『バルト神学の射程』)についての補正として

「平和に関するバルトの書簡」(寺園喜基の私訳、『バルト神学の射程』)についての補正として

 

拙著やこのホームページにおけるこの書簡についての論述で説明不足があったので、次のように補正します――

 

 ベルトールト・クラッパートの「状況連関神学」に傾倒している寺園が、日本基督教団立東京神学大学の学長だった桑田秀延の手紙に対する返答であるバルトの「平和に関するバルトの書簡」をわざわざ私訳した契機は、次のような点にあるに違いないのである――すなわち、「政治・経済・社会の問題は『表面』であり、説教は『基礎』である」・「バルトにおける十字架の神学(≪後述するが、このバルト神学の部分を全体化した抽象的空論的な理解は全くの誤謬である≫)の基調の一つに、神学の政治的課題がある。これは『基礎』と『表面』の関係というよりも、神学の質の問題としてある……。桑田秀延にあてたバルトの手紙はそれを端的に示している。十字架の出来事における和解の現実性(≪バルト神学の部分としての十字架の出来事を全体化した抽象的空論的な理解は、バルトと決定的に異なっている。キリストの死と復活の出来事をその同在性・構造性において理解し啓示認識し啓示信仰しているバルトにとって、~の側の真実としてのみある「和解」の客観的現実性・客観的実在の根拠は、~の恵みの「答えに屈服しない」「神の恵みに敵対する」人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、不信仰・無神性・真実の罪、死、を包括し止揚し克服したキリストの死と<復活>の出来事にある≫)と、教会に委託された平和の問題との関係について、神の平和と人間の平和運動について、神学と実践の問題について、バルトは桑田(≪後述するが、寺園もこの桑田に含まれる≫)とは……決定的な違いをもって述べている」という点に、寺園がバルトの書簡を私訳した契機があるに違いないのである。寺園は、「~の平和」だけでなく「人間の平和運動」を導入したいのである、神学だけでなく政治的課題・実践を導入したいのである、~だけでなく、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求も導入したいのである。
 先ず以て、ここで、<読み手>は、桑田や寺園が「バルトにおける十字架の神学」というように、「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語」っているということ、その思惟と語りは、バルト神学の部分を拡大鏡にかけて全体化したそれであるということ、それゆえにそれは、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)におけるそれでしかないということ――この認識と自覚を必要とする。したがって、それは、バイアスが掛かった形而上学的一面的皮相的なそれでしかないから、それをそのまま鵜呑みにしたり模倣したりしない方がいいのである。言い換えれば、近代<主義>が脳裏を掠めたところで、「死と復活」の同在性を後景へと退け「死」にのみ形而上学的に一面化し皮相化して、「十字架の神学」の概念を前面化したバルト研究者の寺園(クラッパートの状況連関神学に傾倒している)や桑田は、バルトを人々に「誤解させ」、バルトに「迷惑をかけている」のである。この事態は、日本に限ったことではなく、ドイツにおいても垣間見ることができる。すなわち、それは、バルト神学の部分を拡大鏡にかけて全体化し、自由な~の他在性に根拠づけられた「近代的な自由および自律の意識の加工処理」・「近代的自律の神学的加工処理」を主張するヘーゲル主義者でありユンゲル・ハーバーマス的なバルト研究者エーバーハルト・ユンゲルの『神の存在 バルト神学研究』にも垣間見ることができるのである。付言すれば、『人類の知的遺産 バルト』で、バルトの『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』にある「人間の精神や良心や内面性だけを問題にする人は、本当に神を問題にしているのか、人間の神化を問題にしているのではないか、ということを問われなければならない」という言葉を引用して、私たち読者にそのことへの注意喚起をしたにもかかわらず、まさにバルトが批判した対象そのものであるユンゲルを、またバルトのそのフォイエルバッハ論を包括し止揚し克服していないユンゲルを、自分のユンゲルの翻訳本を売るためにインパクトのある言葉で「バルト後を確定した」と主張した一貫性なき神学的実存を生きる大木英夫にも垣間見ることができる。
 さて、バルトの神学の基調は、徹頭徹尾、~と人間との無限の質的差異、聖性・秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性、終末論的限界、~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、~の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものであるまことの神にしてまことの人間イエス・キリスト、「イエス・キリストの信仰」(ローマ書3・22、ガラテヤ書2・16等)の属格の<主格的>属格理解(啓示認識・啓示信仰)、イエス・キリストの死と復活の出来事(完了・成就された時間)、インマヌエルにあるのである――イエス・キリストの現臨の出来事、イエス・キリストにおける啓示の時間、「われわれのための~の時間」は、イエス・キリストの受難と死および復活(完了・「成就された時間」、「あの四〇日(使徒行伝1・3)」)のことである。「新約聖書の証人たち」は、このキリスト復活の40日をおぼえる想起において、「キリストの死」と「キリストの生涯」を想起する時、「光を得」たのである。彼らは「甦えりの証人」である。その彼らは、「既に来た方」、イエス・キリストは、「またこれから来たり給う方」(再臨のキリスト)であることを語るのである。その彼らは、「時の全くの厳格な相違性の中で、神の言葉は一つであり、同時的である」ということを、「イエス・キリストは、きょうも、きのうも、いつまでも変わることがない」ということを語るのである。また、「新約聖書の信仰」は、「想起の時間」である「聖霊降臨日のあとの時代」である。したがって、この「想起の時間」、聖霊降臨日以降の時間は、完了・「成就された時間」、キリスト復活の40日ではない。しかし、その「想起の時間」は、「甦えられた方」、復活のキリストをおぼえる「想起の時間」として、必然的に「甦えられた方を待ち望む」「待望の時間」、終末、キリストの再臨、完成・救贖を待望する時間でもあり、そのようにしてそれは、完了・「成就された時間」(キリスト復活の40日)に参与するのである。したがって、ここで、「すべての以前と以後においても」「同一の方であり給う」イエス・キリストにおいて、未来(終末、キリストの再臨、完成・救贖)を考えること、「待望」することは過去(キリスト復活の40日)を考えること、「想起」することであり、過去(キリスト復活の40日)を考えること、「想起」することは未来(終末、キリストの再臨、完成・救贖)を考えること、「待望」することであると同時に、「成就された時間」の前のすべての「過去」を考えることでもあるのである。したがって、バルトは、前回でも扱ったように次のように述べたのである――説教者が、また教会の宣教の補助的奉仕を為す教義学者が、教義学の実質的原理(規準、法廷、審判者、支配者)を、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ存在している、必然性不可避性としてある「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリストに、具体的には第二の形態のその直接的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストにのみ置かないで、説教者や教義学者の嗜好性・恣意性・独善性に置いて、ある者は「自分の教義学を『~中心』(≪の体系≫)であると言いふらそうとし、それに対してほかの者がその代わりにむしろ『十字架中心』(≪の体系≫)であろうとし、その後さらに『罪中心』(≪の体系≫)でさえあろうとしたということは」、またそうあろうとすることは、「ほとんど喜劇的」なことでしかないのである。このバルトによれば、日本のバルト研究者たち、桑田にしても寺園にしても、「ほとんど喜劇的」なことをしているに過ぎないのである。それだけであればいいのであるが、人々にバルトを「誤解させ」、バルトに「迷惑をかけている」ことに対しては見過ごすことはできないのである。なぜならば、私の知る限り、第三の形態に属する全く人間的な領域において、バルトの神学は最善最良のそれである、と言うことができるからである。
 「私は、福音宣教から独立し、それと接触しない、『自己決定の権利』を国家に与えている、いまわしいルター派の教説をこれまで決して承認しようとはしなかった。(中略)私の神学的思惟は、神の主権と、キリスト教の使信全体の終末論的性格と、キリスト教会の唯一の課題としての(≪具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストを原理・規準・法廷としてそれに絶えず繰り返し聞き教えられることを通した≫)純粋な福音の宣教の強調に中心があり、またそれにこれまで中心をおいてきた。現実の人間を考慮しない(『神はすべてであって人間は無である!』)抽象的な超越神、現代にとっての意義を伴わない抽象的な終末の待望、この超越的な神にのみに専念し、深淵によって国家や社会から分離された同様に抽象的な教会――それらすべては私の頭に存在したものではなくて、私の本を読んだ多くの人々の頭のなかに、また特に私についての評論をしたり、一冊の本を書いたりした人々(≪バルト神学の部分を拡大鏡にかけて全体化し、何らかの抽象を以て始め、何らかの空論に終わらせるところの神学者、牧師、著述家たち≫)の頭のなかにのみ存在していたのである」(『バルト自伝』)。第三の形態に属する全く人間的な教会におけるバルト自身は、徹頭徹尾、起源的な第一の形態の~の言葉、イエス・キリストに、具体的には第二の形態のその直積的な最初の第一の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリストに聞き教えられることを通して、純粋な教え、すなわちキリストにあっての~を尋ね求める「~への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、~の命令・要求・要請、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、他律的な服従と自律的な服従の同在性における~の言葉に対する服従的な奉仕、個体的自己としてのすべての人々が、キリストの福音を<現実的>に所有することができるために、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを為していくことの「必然性」不可避性を述べているのである。しかし、その現にあるがままの現実的な人間存在におけるキリスト教会、キリスト者は、不可避的にある歴史的現存性に強いられてしか生きることができないから、すなわちある社会構成・支配構成・文明的文化的構成の歴史的な時代状況に強いられてしか生きることができないから、「イエス・キリストの名」(福音)にのみ感謝を持って信頼し固執したバルトにおいては、寺園や桑田等のように、二元論的に、~だけでなく人間も、神の平和だけでなく人間の平和運動も、説教だけでなく意志的な社会的あるいは政治的実践も、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もと声高に叫ばなくても、「かつて語った説教の一貫した繰り返しが、(ある状況下において、その状況に抗するそれとして)<おのずから>実践に、決断に、行動になって行」ったのである。したがって、不可避的な「神学者」でもあり「政治家」でもあるバルトにおける社会的あるいは政治的実践は、桑田や寺園のような「神の平和と人間の平和運動」、「神学と実践」という二元論におけるそれでは全くないのである――「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは ……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった」・「私が(≪他律的な服従と自律的な服従との同在性における≫)神学者として、そしてまた(≪不可避的な≫)政治家としても、語るべき最後の言葉は、……一つの名前、イエス・キリストなのです。この方こそ恩寵であり、この方こそ、この世と教会とそしてまた神学との<彼岸>にある、究極のものなのです……」(『バルトの生涯』)。言葉と行為、神学と実践、説教と社会的あるいは政治的実践という二元論においてではなく、「教会の存在と現状」が、キリストの「<福音>から考え・行動し・処理されているということを語っていないならば、教会の説教も福音宣教も虚しいものとなるであろう」(『キリスト者共同体と市民共同体』)。「(中略)キリスト者は、政治生活において神の正義が人間によって誤認され・蹂躙される場合にも、神の正義は、……天地の一切の力が与えられているイエスの苦しみのゆえに、優越しているということを確信している。悪しき矮小なピラトが、結局は無駄骨折をするというように、配慮がなされているのである。その場合、キリスト者が、どうして、ピラト(≪一切の、政治的権力、民族国家、擬制民主主義としての議会制民主主義、資本主義社会・近代市民社会――観念の共同性を本質とする政治的近代国家の枠組み、その法的言語や政策的言語の枠組み≫)のともがらと成ることができようか(『教義学要綱』)。「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配」である・したがって、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」(『啓示・教会・神学』)。「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない(≪「幼稚な反共主義者」――ラインホルド・ニーバーを見よ≫)」(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)。「教会は、(≪具体的には、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての、それゆえにキリスト教に固有な類・歴史性としての、客観的な対象として与えられ可視的に存在している第二の形態の聖書的啓示証言のことであるが、その客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)人間が神に(≪起源的な第一の形態に、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に≫)聞くというこの一事によって―― 神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪イエス・キリストにおける死と復活の出来事、インマヌエル≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)(≪したがって、そうでない場合は、≫)どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)。このような訳で、バルトは、二元論的に「神の平和と人間の平和運動」・「神学と実践」の問題を論じた「桑田とは……決定的な違いをもって」いるように、クラッパートの状況連関神学に傾倒した寺園とも「決定的な違いをもって」いるのである。
 さて、徹頭徹尾、~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、イエス・キリストの死と復活の出来事において完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和(キリストの福音)に感謝を持って信頼し固執したバルトは、聖書的啓示証言を介して、個体的自己としてのすべての人々が<現実的>にその福音を所有することができるために、救済・平和そのものであるキリストの福音を告白し・証し・宣べ伝えるということを、キリストの復活からキリストの再臨(終末、完成)までの聖霊の時代における、教会の生、キリスト者の生として規定したのである、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会(≪その成員≫)が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」として規定したのである、あの「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――キリストの福音を内容とする福音の形式である律法、~の命令・要求・要請として規定したのである(『福音と律法』・『教会教義学 ~の言葉T/1』)。ここには、言葉と行為、説教と社会的あるいは政治的実践、宣教Aと宣教Bという二元論は全くないのである。したがって、バルトは、次のように述べたのである――イエス・キリストにおいて救済・平和(包括的な救済概念と同じ)は、「神ご自身が 世界史のまっただ中に創造し見えるものとして下さった現実性」である。「この贈り物」は、「われわれがこれを受けとることを待っている」。したがって、キリスト教会、キリスト者を含めて人が、「この事実に向かって、眼と耳を閉ざして生きているということが、悲惨」なのである。そうした中で、私たちは「平和は戦争より善いものであるということを」繰り返し「断言せねば」ならないが、「それらのことは究極的に何の助けをももたらさない」ことは「明白」である。なぜならば、現存する世界は、経済の世界性と民族国家の一国性を単位として動いているからである。したがって、終末、キリストの再臨、完成・救贖においては、一切の国家は無化されてしまうという終末論的観点を持っていたバルトは、次のように述べたのである――「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」・しかし、「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(≪民族国家が存在する限り≫)戦争の可能性はあけておかなければならない」(『バルトとの対話』)。マルクスの革命の究極像も、観念の共同性を本質とする政治的国家の無化を伴う人間の社会的現実的な解放の永続性にあった。このような訳で、キリスト教に固有な信仰・神学・教会の宣教にとっては、「世界が必要としている……革命的認識」は、「世界はイエス・キリストにおける神の愛によってすでに解放された世界である」ということに感謝を持って信頼し固執して、「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求めようとしない」ところにあるのである。言い換えれば、それは、第三の形態に属する全く人間的な教会(その成員)が、@具体的には第二の形態の聖書的啓示証言に聞き教えられるということをしないで、それゆえに「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、「礼拝改革」・社会的あるいは政治的な実践・「キリスト教教育」、「教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域」で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考え」ないところところにあるのである、教会の宣教の原理・規準・法廷を聖書的啓示証言と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」等に置かないところにあるのである(『教会教義学 ~の言葉T/1』)、A「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」するところにあるのである(『共産主義世界における福音の宣教 ハーメルとバルト』)。このような訳で、「キリスト者やキリスト教会自身」にとって、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会(≪その成員≫)が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」は、あの「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――すなわち、個体的自己としてのすべての人々が<現実的>に福音を所有ることができるために、救済・平和そのものであるキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを為して行くところにあるのである。しかし、「キリスト者やキリスト教会自身」は、このことに対して、現実の事実として、あの「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」に対して、「非情に怠惰」だったのである。近代<主義>の陥穽に陥った現存する「キリスト者やキリスト教会自身」は、さらに「非情に怠惰」なのである。こうした停滞した事態は、擬制民主主義である議会制民主主義、私利・私意を精神とする資本主義社会(近代市民社会)――政治的近代国家の枠組みにおける法的言語や政策的言語を即自的に介することとでその一切合切がその枠組みに包摂されてしまった、一昨年の日本基督教団の「平和を求める祈り」やカトリックの「抗議声明」を見てみればすぐに分かることなのである。したがって、寺園の私訳が正しいものとして述べれば、バルトが、「諸民族は……イエス・キリストを信ずる信仰へと呼びかけられている」、それゆえに「キリスト者とキリスト教会は諸民族を、……イエス・キリストを信ずる信仰へと呼び出す」ということが起こらなければならない、と書いた時、「諸民族は……イエス・キリストを信ずる信仰へと呼びかけられている」ということは、~だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己義認もという、~と人間との共働・協働における人間の<直接的>無媒介的な「イエス・キリストを信じる信仰による~の義」(目的格的属格)ではなくて、~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」(「イエス・キリストが信じる信仰による」「~の義、~の子の義、神自身の義」――『ローマ書新解』)としての<媒介的>な「イエス・キリストを信ずる信仰へと呼びかけられている」ということであり、「キリスト者とキリスト教会は諸民族を、……(≪そういう≫)イエス・キリストを信ずる信仰へと呼び出す」ということは、個体的自己としてのすべての人々が<現実的>に福音を所有することができるために、聖霊の時代におけるキリスト教会、キリスト者は、あの「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――すなわちキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを為して行くということなのである。したがって、一方通行的に信の上昇過程へと向かう往相的な信に導くということではないのである、「上から目線」で信ぜよとか信じさせるとか往相的<信>に導くということではないのである。なぜならば、聖書的啓示証言におけるキリスト教的<信>の本質から言ってそうだからである――@「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪人間的自然≫)『自分の理性や力(≪意志力、感情力、修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、(≪主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」の下で≫)「主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい」という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)、A終末論的限界の下で人間が人間的に所有する、換言すれば聖霊によって更新された人間の理性(それゆえに、更新された理性も聖霊では全くない)を介して所有する人間の啓示認識・啓示信仰は、人間自身教会自身の自由事項・裁量事項・決定事項では全くないのであるから、すなわちあくまでも~のその都度の自由な恵みの決断によるところの、客観的な啓示(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト)の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事(客観的な「啓示の出来事の中での主観的側面」)に基づいて与えられるものだからである――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。このバルトとは決定的に違って(なぜならば、バルトは、徹頭徹尾、首尾一貫して、「イエス・キリストの信仰」を主格的属格として理解して論じているのだが、寺園は「イエス・キリストの信仰」を目的格的属格として理解しているから)、第三の形態に属する全く人間的なクラッパートの自己意識・思惟の類的活動の自己表現としての状況連関神学に傾倒し・その状況連関神学を前提し、一方通行的に信の上昇過程へと向かう往相的<信>しか持たないところで私訳した寺園は、「~の平和」と同時に第三の形態に属する全く人間的なキリスト教会、キリスト者の意志的な社会的あるいは政治的実践を念頭に置いているだろうし、それゆえに寺園は私訳しながら、一方通行的に信の過程を上昇して行く往相的<信>において、信ぜよあるいは信じさせるあるいは往相的<信>へと導くということを念頭に置いているだろう、ということは確かなことなのである。ここで、確かなことと言うのは、寺園の場合、論理的にそうなるという意味である。クラッパートの「状況連関神学」を評価しそれに傾倒している寺園は、桑田と同じように、二元論的に、第三の形態に属する全く人間的な、キリスト者、キリスト教会の意志的な社会的あるいは政治的な責務を強調することは明らかである――なぜならば、寺園は、@「イエス・キリストの死の理解」における「終末論的な希望の構造」の三点目に「イエスの信仰」の<目的格的>属格理解に基づくイエスを信じる信仰に含まれている約束と希望を挙げているからである。したがって、さらに問題が生じているのであって、それは、バルトの「キリスト論は啓示の客観的現実性を問う」と述べながら、換言すればそれは~の側の真実としてのみある、それゆえに客観的現実性・客観的実在としてある、イエス・キリストの死と復活の出来事における、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和の事柄を問うと述べながら、その根拠である<主格的>属格としての「イエス・キリストの信仰」、すなわちバルトにおける「イエス・キリストの信仰」の<主格的>属格理解(トータルな聖書的啓示証言の認識、啓示認識・啓示信仰)については全く述べることをしない点にあるのである。このように、寺園には論理的な一貫性がないのである。このバルトの<主格的>属格理解を正直に正確に翻訳したのは、井上良雄の『福音と律法』だけである。バルト自身は『福音と律法』で、「イエスの信仰」について、明確に、それは「明らかに主格的属格として理解されるべきも」と書いているにも拘わらず、井上訳よりもっと以前の誰か(名前は忘れてしまった)の『福音と律法』の翻訳では、<目的格的>属格として理解されるべきもの、と訳されていたことを覚えている、その翻訳者が神学者か牧師かは覚えていないが平然と意識して<虚偽的>翻訳をしていたのである――このことを、井上訳を通して知った、A彼らは、第三の形態に属する全く人間的な教会に現存しているにもかかわらず、絶えず繰り返し、具体的には第二の形態の聖書的啓示証言を原理・規準・法廷としてそれに聞き教えられることを通して自己吟味し・的確に「批判し、訂正」して行く過程を持たないばかりでなく、さらに人間、社会、世界、歴史との連関が必要だと主張しながら、その人間的領域における現実性と妥当性を持った過渡的――究極的な革命像を提示することもしないで、それゆえにその革命像を原理・規準とした運動過程も持つこともしないで(なぜならば、わが国に例をとれば、あの一昨年の日本基督教団の「平和を求める祈り」やカトリックの「抗議声明」を見ればそうとしか言えないから)、ただ「キリストと同じ形になること」を目指す第三の形態に属する全く人間的な形成倫理学を提示して、そしてその全く人間的な形成倫理学を原理・規準として、「神学的なもの」と「政治的なもの」、すなわち「倫理―隣人愛―仕える教会―信徒―民主主義的社会主義―平和運動」の「必然的関係」および「正しい関係」に意志的に仕えることを志向し目指すだけだからである。寺園は、このクラッパートの「状況連関神学」を評価しそれに傾倒しているのである。このような訳で、彼らが主張する「隣人愛―仕える教会」は、第二の形態の聖書的啓示証言に絶えず繰り返し聞き教えられることを通した「~への愛」を根拠とした「~の讃美」としての「隣人愛」――他律的な服従と自律的な服従の同在性・構造性において~の言葉に奉仕する「仕える教会」ではなくて、第三の形態に属する全く人間的なクラッパートの自由な自己意識・思惟の類的活動が対象化した自己表現としてのそれでしかないものなのである。バルトとは違って、彼らには、この認識が全く欠損しているのである。
 因みに、不可避的に近代以降の歴史的現存性のただ中を生きながら、一切の近代<主義>的なものから対象的になって距離を取っていたバルトの復活理解は、次の点にある――バルトは、バーゼルの刑務所で、「ただ単に考えや夢の中にではなく、何か精神的にではなく、身体的に見、聞き、つかまえることできる形」における弟子への顕現の出来事(イエス・キリストの復活の出来事)について説教をしている。復活の出来事が「どのようにして……起こりえたか、また起こったか、……私はあなたがたと同じように、その理由を知らない。それは(≪バルトを含めて誰もが、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に依拠して考えれば≫)人が信じないようなことだと言う以外に、単純な言い方はほかに存在しない。事実、当時でさえも、解き明かすことは愚か、書き記すことや説明することはできなかった」。~の側の真実としてのみある「イエスの復活は、徹頭徹尾神の業であって、そのようなものとして、最高度に良くなされたが、しかし最高度に理解し難いもの」なのである。したがって、「当時でさえも、ただ認識(≪あの~の言葉の出来事の自己運動において啓示認識・啓示信仰≫)され、告白され、証しされ、宣べ伝えることができた」だけなのである。今日でも、「ロシアにおいて、キリスト者は、お互いに、『イエス・キリストは甦られた!』と挨拶し、それに対して相手は、『まことに彼は甦られた!』と答える」。このことは、説明ではなく、「告白」・「証し」・「宣べ伝え」なのである。福音は「魂と体、天と地、内的と外的いのちのため」にあり、身体的存在と精神的存在という全体的人間を考えなければならないから、終末、キリストの再臨、すなわち完成・救贖は全的人間のそれであり、身体的復活である。このように、復活の事柄は、全く説明なしの、素直な告白・証し・宣べ伝えなのである(『主を見た時 ヨハネ』)。