本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−4)」

『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』吉永正義訳、新教出版社に基づく

 

カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/2 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−4)」(482−491頁) ――了――

 

引用文中の(≪≫)書きは、私が加筆したものである。また、既出の引用については、その文献名を省略している場合がある。
(論述における様々な重複は、今後も含めまして、それは、あくまでも、理解し易くするためのものでもありますが、私自身のその存在・その思考・その実践において、私自身のものとするためでもありますし、また私自身のためでもありますので、ご了承ください。正直に言えば、もうひとつあって、それは、バルトを、単純にしかし根本的にそして包括的に理解することを目指した拙著だけで、バルトを、根本的包括的に理解することができるのかどうかという実証的実験を行うためでもありますので、ご了承ください。また、引用の不備や誤字脱字等の不備はご容赦ください)

 

 

  バルトは、「十八節 神の子らの生活」について、次のような理性的な定式化を行っていた。

 

「神の啓示は、それが聖霊の働きの中で信じられ認識されるところでは、(≪――すなわち、恣意的独断的にではなく、単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方、神の子、神の言葉、啓示・和解、であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示の出来事とキリストの霊である聖霊の注ぎによる信仰の出来事という啓示に固有な証明能力に基づいて、それゆえにそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性である「神の言葉の三形態」を媒介・反復することを通して、認識されるところでは、――≫)神をイエス・キリストの中で尋ね求めること(≪すなわち、神への愛≫)なしにはもはや存在せず、また神が既に彼らを見出されたことを証しすること(≪すなわち、感謝の応答としての、神への愛を根拠とした、神の讃美としての隣人愛――隣人が現実的に福音を所有することができるための神の命令・要求・要請・律法であるイエス・キリストにおける福音の告白・証し・宣べ伝え≫)なしには存在することができない」「人間を造り出す」。(302頁)

 

 

「十八節 神の子らの生活」「三 神の讃美(その4−4)」
 最後に、「あなた隣人を、自分自身のように愛しなさい」という命令が、「神とわれわれの間の関係、神の行動とわれわれの行動の間の関係」の「総括的な命題の中で解明され」なければならない。

 

(4)ここで、「自分自身のように」という命令は、啓示に固有な証明能力に基づくキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」の命令を根拠とする「あなたの隣人」を愛しなさいという隣人愛の命令と並んだ、第三の命令、すなわち「隣人愛の尺度および原理」・隣人愛の「正規のひな型であり模範」としての「自我愛」の命令、自己愛の対象的な疎外の命令、自己愛の外化(表現)の命令、を意味していない。すなわち、そのような第三の命令として解釈することは、「拒否」されている。言い換えれば、「自分自身のように」という命令は、人間の隣人愛が、命を賭したそれであっても、どうしても不可避的に、本質的に、自己愛の対象的な疎外・自己愛の外化(表現)としかならないことに対する「自我愛の限界づけ」である。すなわち、「わたしはわたしの隣人を愛する時」、その現にあるがままの私たち人間の隣人愛は、本質的に、「自分自身を求め、自分自身に仕え、自分自身のことを考える」「自我愛」(「罪」)としかならないこと・自己愛の対象的な疎外としかならないこと・自己愛の外化(表現)としかならないことを「告白」しなければならないのである。したがって、バルトは、正当にも、「わたしがわたしの隣人を愛するならば、そのことはまさにわたしの自我愛に対する裁き(≪自己相対化≫)であるのであって、決して自我愛の間接的な正当化ではない」、と述べるのである、この認識・この自覚を契機として・媒介として、「はじめて、そもそも愛しはじめる」、と述べるのである、「実際には愛していないものとしてのわれわれに対し、われわれが現にあるがままの罪人としてのわれわれに対し、隣人を愛することが命じられている」、と述べるのである、「自我愛という実在、したがって罪の実在こそ、……現在の、過ぎ去りゆく世」における「神の子供たちの生活の実在でもある」、と述べるのである。なぜならば、人間的契機の直接性に依拠した無媒介的な社会的慈善家・善業家たちが、得てして、上目線になりがちなのは、また支配的で管理的になりがちなのは、そしてまた恣意的で独断的になりがちなのは、それらのことを認識し自覚していないからである。したがって、次のような認識と自覚が肝要なのである――@「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、A「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。B「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」、「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる。ただ、彼はそのことをまだ発見(≪啓示認識・啓示信仰≫)していないだけ」である(『バルトとの対話』)。
 隣人愛を命じられている「われわれは、一体誰であるのか」・「単に証しをすべきであるばかりでなく、むしろ証人であるべきわれわれ」は、その「言葉」・「行為」・「態度」において、「何をさし出し、提供すべくもっているのか」――「われわれはわれわれ自身をただ罪人としてさし出し、提供することができるだけである」。言い換えれば、「われわれがわれわれの隣人を愛する時」、「われわれ自身を愛するということ」、すなわち自己愛の対象的な疎外としかならないということ、それゆえに「そもそもわれわれの中に何の愛もない」ということ、それゆえにまた「罪の実在」しかみないということ、を告白し提供することができるだけである。なぜならば、その現にあるがままの人間の現実的存在・「われわれの現実存在は、生来、そして不断に、愛に対して不正を行うものの現実存在である」からである。したがって、「わたしがわたしの隣人を愛するならば、そのことはまさにわたしの自我愛に対する裁き(≪自己相対化≫)」を意味するのである。すなわち、その度合の差異はあるとしも、その現にあるがままの現実的な私たち人間の隣人愛は、自己愛の対象的な疎外でしかないこと、自己愛の外化(表現)でしかないこと、を認識し自覚させられるのである。「善意の欺瞞」は粉砕されるのである。親鸞は、次のような思想の言葉によって、市民的欺瞞から超出した――すなわち、親鸞は、宗教者・知識人・善人・誰であろうと、現実的な戦争とか愛憎問題とか利害対立とかの不可避な「機縁」・契機さえあれば、自分が意志しなくとも、人一人だけでなく多数の人を殺し得るという究極的観点(還相的観点)において、自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識(往相的観点)から超出した。(482−484頁)

 

 この「われわれが罪人である」ということ、すなわち本質的に「われわれの中には何の愛もないとない」ということ、の認識と自覚の下で、すなわち「自我愛の限界づけ」の認識と自覚の下で、自己相対化の認識と自覚の下で、、私たちは、同時的に、「われわれが隣人に対して、彼の困窮状態の仲間としてばかりでなく、彼とわれわれの困窮状態」からのキリストにおける「救いについて知っている者」として、隣人に「あえて接してゆこうとする」のである。なぜならば、キリストにあっての神は、「われわれが、この現在の、過ぎ去る世において」、その神の命令が、私たちを「愛へと召し出し」、イエス・キリストの「本当」の「証人の立場におく時」、そして「われわれに対する(≪その現にあるがままの現実的な人間の「自我愛」に対する≫)裁きを遂行する時」、「われわれを排除せず、むしろ含み入れており、われわれを神の子供として、困窮状態にあっての(≪キリストにある「偉大な」≫)助けを知っている者として、神からの委任を得、それを実行し得る者として」、「束縛」ではなく「自由」を与えられた「義トサレタ罪人」として、その神の「命令に対して従順であることを欲し給う」からである。言い換えれば、「神はわれわれの存在について決定的なことをご存知」だからである。このことは、「われわれに対し神の命令そのものを通して言われている」。したがって、恣意的独断的にではなく、あくまでも啓示に固有な証明能力に基づく、それゆえにそれ自体が聖霊の業である啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(不可避的なキリスト教に固有な類・歴史性)を媒介・反復することを通した、キリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」の命令を根拠とする、ということが肝要な事柄なのである。したがってまた、この「自分自身のように」という命令についての人間自身の、楽観主義的あるいは悲観主義的な自己吟味、人間論、人間学的な哲学原理・認識論・世界観、「善意の欺瞞」、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求に基づく恣意的独断的な支配的管理的な企て、は拒否されているのである。バルトは、『啓示・教会・神学』で、次のように述べている――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪人間自身が対象化した「存在者レベルでの神」の名と呼びかけによる、人間自身が支配し管理するプログラム≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救いの計画と救いの方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」。したがって、啓示に固有な証明能力に基づくキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を根拠とする神の讃美としての隣人愛の認識と自覚が肝要な事柄なのであって、「われわれの讃美が受け入れられ得る」のか、「われわれが隣人を愛する愛が本当である」のかということについての「心配」は「神に委ねてよい」のである。すなわち、「この命令の成就に関する心配をすべて神になげかけるように招かれているということは、この命令の中に含まれている福音である」。ここでも、神の命令・要求・律法は、福音を内容とする福音の形式としてのそれなのである。したがって、「われわれは隣人に対して一体何である得る」のか、と言えば、「われわれは彼を……われわれ自身のように、換言すれば、自分自身を愛する者として」、それゆえに「愛のない者として、愛する」ことができるだけなのである。私たちがあの「命令の裁きに本当に服するならば、われわれは命令に対しただ、命令によって裁かれた者としてのみ従うことができる……」、「またわれわれは命令に対しまさに命令によって裁かれた者としてのみ従うことがゆるされているということこそ、……この命令の中に含まれている福音である……」。ここには、「何も隠さなければならないものはないのである」、それゆえに「善意の偽善」は全くないのである。ここでは、「われわれは隣人をただ、(≪その「言葉、行為、態度」、その「語り、行為、存在」、において、その現に≫)あるがままのわれわれ(≪現実的な人間存在≫)として愛することができるし、愛すべき」なのである、それゆえに「『自分自身のように』愛すべきなのである」。言い換えれば、「徹頭徹尾、……愛のないわれわれに対し愛しなさいといって命じられる方こそが」、すなわち単一性・神性・永遠性を本質とする神の第二の存在の仕方(神の子、神の言葉、啓示・和解、完了された全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和)であるイエス・キリストこそが、「われわれの行動が本当の愛することであるであろうことに対し配慮をして下さる」ことに、「信頼しつつ、われわれに命じられていることを敢えてなすことができるだけなのである」。「われわれは、わたしの隣人とわたしが出会うこの出会いにおいて、イエス・キリストがその場にいてくださるということ、そこではイエス・キリストの事柄が問題であってわれわれの事柄が問題なのではないということ、また彼がご自分の事柄を正しく勝利へと導き給うであろうということ……、そのことに頼らなければならない」のである。なぜならば、イエス・キリストこそが、「わたしの奉仕をお用いになるであろう」からであり、「それと同時にわたしの奉仕を本当の奉仕になし給うであろう」からである。そして、不可視的なこのこと「すべて」は、啓示に固有な証明能力に基づく啓示認識・啓示信仰の授与において、「繰り返しただ信頼することであることができるだけ」である。(484−489頁)

 

 「ただひたすら」イエス・キリストにのみ「信頼」し固執するということ、具体的には聖書に絶えず繰り返し「聴従」するということは、次のような「二重の定義の中で解明することができる」。
(a)「人が、……言葉、行為、態度を通して証人であるべく隣人に向かう時」、「彼がもつ勇気はただ、彼が教会の奉仕、教会の使命および委任に自分を従わせる際にもつ謙遜の勇気でのみあることができる」。なぜならば、「個々の人間による和解の主体的実現という問題は、絶対に欠くことの出来ない問題」ではあるが、「イエス・キリストにおいて客観的に起った和解の主体的実現は、まず第一に教団において、イエス・キリストの聖霊の業として遂行される」からである(『カール・バルト教会教義学 和解論T/1』)。また、聖書は、旧・新約聖書における預言者・使徒の言葉と霊としてのイエス・キリストの出来事の証しであり証言であり、子なる神、イエス・キリストに関わるからであり、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の客観的実在であるイエス・キリストと共に、教会の宣教における原理であるからであり、イエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」として、教会に宣教を義務づけているからであり、それゆえに「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならない」からであり、それゆえにまた、聖書を規準として絶えず繰り返し、教会の宣教(説教と聖礼典)を自己吟味し・的確に「批判し、訂正」していかなければならないからである。したがって、「神的要素」と「人間的要素」の構造としてあるイエス・キリストの教会の宣教は、神の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける一回的な唯一無比の啓示・和解の出来事(啓示の客観的実在)にのみ信頼し固執した宣教に赴くべきであり、それ以外の一切から「無条件に開かれ、自由でなければならない」のであり、「神を恐れるべきであって、世を畏れるべきではない」のである。したがってまた、教会の宣教の「規準としての聖書の性格」・「聖書の自由な力」は、教会の宣教を「危険なものにしてしまう」次のような教会の宣教(その存在・思考・実践)を「批判」し、そうした在り方に対して「訂正」を迫るのである――
@「正しい注釈」を、「先ず第一義的に優位に立つ原理」としての啓示の客観的実在であるイエス・キリストに、そしてその証し・証言・証人としての聖書に基づくことをしないところの、教会の宣教(その存在・思考・実践)を「批判」し、そうした在り方に対して「訂正」を迫るのである。すなわち、啓示に固有な証明能力に信頼し固執することを迫るのである、「神の言葉の三形態」に聴従し信頼することを迫るのである。人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍や人間論や人間学的な哲学原理・認識論・世界観を「第一次化」・第一義化・価値化しないことを迫るのである。
A「正しい注釈」を、「最終的に……教会の教職の判決に、……間違うことはありえないものとして振る舞う歴史的――批判的学問の判決に、依存させてしまう」ことを「批判」し、そうした在り方に対して「訂正」を迫るのである。
B「福音が純粋ニ教エラレ、聖礼典が正シク執行サレルということ」がなされないままに、礼拝改革・社会的政治的実践・キリスト教教育とか、教会と国家および社会との関係とか、国際間の教会的な相互理解というような領域で、「何か真剣なことを企て遂行してゆくことができると考える」ことを「批判」し、そうした在り方に対して「訂正」を迫るのである。また、宣教の規準を、聖書と同時に、「最上の仕方で基礎づけられ、熟慮に熟慮を重ねられた人間的な判断」あるいは「哲学、道徳、政治」等におくことを「批判」し、そうした在り方に対して「訂正」を迫るのである。
C「特定の人種、民族、国民、国家の特性、利益と折り合」おうとすることを「批判」し、そうした在り方に対して「訂正」を迫るのである。
Dある「社会機構、あるいは経済機構の保持」・「廃止」に貢献しようとすることを「批判」し、そうした在り方に対して「訂正」を迫るのである。等々。
 バルトは、次のように述べている――@「教会は、(≪イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて≫)人間が神に聞くというこの一事によって――神が人間に語り給うゆえに聞き、神が人間に語り給うこと(≪新約聖書において聞く啓示・和解、イエス・キリストの死と復活の出来事、その内容である「インマヌエル、神われらと共にいます」≫)を聞くというこの一事によって、基礎づけられ、支えられているのである。(中略)このことが起こるところ、そこではたとえ二人三人の集まりであっても、またこの二人三人が決して選り抜きの人でなくても、また高い水準にさえ達していなくても、またむしろ人間の屑に属する者であるようなことがあっても、教会は存在する」、A「(≪したがって、そうでない場合は≫)、どのような大群衆をその中に擁し、どのように優れた個人をその中に擁していても教会は存在しない。またそれが、もっとも豊かな生命を示し、国家と社会において、どのように尊敬されようとも教会は存在しない」(『啓示・教会・神学』)。
 すべての人が福音を現実的に所有することができるために命じられた、イエス・キリストにおける福音を「証言するようにとの委任」は、「教会に対して与えられた委任である」。「イエス・キリストの現臨、人間的倒錯のさ中にあってなおかつ支配し給うイエス・キリストの支配、イエス・キリストによって語られた罪のゆるしの力、彼の名においてなされる行為――この「証言するようにとの委任に伴う約束も、……教会に与えられた約束である」。「教会を通し聖なる洗礼の中で、聖霊の約束のもとにおかれ、教会を通して教えられ、慰められ、導かれ、教会を通して聖なる晩餐の中で、キリストのまことのからだと血をもって永遠の生命に至るよう食物と飲物を与えられて」、その現にあるがままの「わたしの現実存在のこの聖礼典的な状態と秩序の中で、わたしはあの信頼をつかみ、あの信頼を実行に移すであろう」、啓示に固有な証明能力に基づくキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を根拠とする「わたしの隣人を愛する愛に向かっての、全く具体的な勇気をもつ」であろう。このように、「神の子供たちの生活は神の教会の生活以外のなにものでもない」のである。(489−491頁)
(b)「ただひたすら」イエス・キリストにのみ「信頼」し固執するということ、具体的には聖書に絶えず繰り返し「聴従」するということは、「祈りの中で神を呼び求めることを意味する」。この「祈り」や「隣人を愛すること」は、ちょうど「教会」や「洗礼や晩餐」が「信頼することの客観的な規定」であるように、「信頼することの主観的規定」である。このように、「教会に与えられた約束は、どうしてもそのひとりびとりの会員によって繰り返し受け取られることを欲している」。前述した「委任」と「約束」をもった教会は、「いうまでもなく、その罪深い会員たちの中で生きる」。主は、その「自由な恵み」の中で、「ひとりびとり会員に向かってそれぞれ個人的に語られる……」。「最後的には」、「われわれは隣人を、……われわれがわれわれのためおよび隣人のために祈るということ……とともに愛することができるだけである」。その祈りは、「イエス・キリストが約束にしたがってわれわれのためおよび彼のために、われわれの身にそして彼に身に、そのみ業をなしとげてください」というそれである。なぜならば、「すべての人間はキリストの実質上の兄弟である」からであり、「キリスト者になる以前でも、彼は、(≪その現にあるがままで≫)キリストにおける神との連続性の中にいる」からであり、「ただ、彼はそのことをまだ発見(≪啓示認識・啓示信仰≫)していない」だけだからである。啓示に固有な証明能力に基づくキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」を根拠とした、この神の讃美としての隣人愛の中で、「神を愛する神の子供たちは生きる」。なぜならば、「われわれが、……手をのばす前に、手をのばすことなしにも」、神ご自身が、「彼らをまず最初に愛して下さったからである」。(489−491頁)

 

――了――

 

次回からの予定――
カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/3 聖書』(聖書論)→カール・バルト『教会教義学 神の言葉U/4 教会の宣教』(教会論)
ここまで完了すれば、バルト自身が『バルト自伝』で、「イエス・キリストにおける私の恩寵の神学として組織だてる」という「私の仕事に生じた変化の意義を見かつ理解するためには、一九三二年と三八年に現われた私の『教会教義学』の最初の二冊」を、すなわち邦訳の『神の言葉』T/1、T/2、II/1、II/2、II/3、II/4を「研究する必要がある」と述べていたことを果たすことができる。因みに『教会教義学』第1巻第1分冊(1932年)と『教会教義学』第1巻第2分冊(1938年)の間に、『福音と律法』(1935年)が出版されている。これからも、拙くとも、倦み疲れず、やれるところまで頑張ってやっていこう。
必要に応じて、他の著作、他の著者、も扱うことがある。