本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

カール・バルトの『福音と律法』論および『神の恵みの選び』統合版 その1

カール・バルト『福音と律法』・『カール・バルト著作集10』「福音主義神学入門」・『バルト自伝』・『カール・バルト著作集3』「神の恵みの選び」・『教会―活ける主の活ける教団』「証人としてのキリスト者」・『教会教義学 神の言葉』、「ルドルフ・ブルトマン」、ゴッドシー編『バルトとの対話』、エーバハルト・ブッシュ『バルトの生涯』、吉本隆明『カール・マルクス』・『アフリカ的段階について 史観の拡張』、イザベラ・バード『日本奥地紀行』(金坂清則訳、平凡社)、野村達郎『民族で読むアメリカ』講談社に基づく

 

 この書物は、この私の・全人間・全世界・全人類のイエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)を、すなわち主格的属格としての「イエスの信仰」を・その「死と復活」の出来事の啓示を・その内容であるインマヌエルを、その啓示の客観的現実性を、私自身に・私たち自身に関わるものとして実感し認識し信仰し神学し思想することができるようにさせてくれる、神学書であり、思想書である。現在から未来に生きる説教や神学や教会の宣教とは、このような位相にあるものを言うのである。バルト神学のその原理、その認識方法と概念構成は、イエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づく人間が人間的に所有する人間の啓示認識、この啓示認識に依拠した信仰の比論・関係の比論・啓示の比論を通した人間の自己認識にある。もちろん、それが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項ではない。
 さて、徹頭徹尾全面的に、神の側の真実にのみ・イエス・キリストの名にのみ・啓示の客観的現実性にのみ信頼し固執する「超自然な神学」者で思想家でもあるバルトとは違って、神と人間・神学と人間学との混淆と共同と協力を目指す、神学としても人間学としても中途半端で非自立的な、自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教は、どのような位相にあるのだろうか? フォイエルバッハによれば、人間の外にある自然を対象とする自然についての意識は、自己意識と異なっている。また、芸術についての意識は、対象化された人間の自由な自己意識の無限性であり、作品はその外化であり、この場合、その意識は自己還帰する自己意識として、無限者・価値・第一義性・至上者・神と人間という両義性は自己意識内部に存在しない。しかし、宗教についての自己意識は、対象化された人間の自由な自己意識の無限性・価値・第一義性・至上者・神を人間の現実的本質として自己還帰させることができないから、この場合、その意識は神と人間という両義性として自己意識内部に存在する。また、自然は人間の基底であるから、人間が自然から対象的になり得ていない場合、神も自然神である。したがって、自然の人間化の度合いに応じて、神の人間化の度合は増していき、最終的には神や信仰や神学は対象化された人間の自己意識の類的本質となる。
 フォイエルバッハは、キリスト教に対する宗教批判を、次のような言い方でしています。

 

  人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である。(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である。
(中略)神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、「神学の秘密は人間学以外の何物でもない!」……。
  もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である。(L・フォイエルバッハ『キリスト教の本質 上・下』岩波書店)
  神とはまさに、人間の(《自由な自己意識の無限性》)想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、…と考えられ表象されたもの以外の何物でもない。(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」船山信一訳、福村出版)

 

 ハイデッガーは、ブルトマンやブルトマン学派の人間学的神学の原理に対する宗教批判を、次のような言い方でしています。

 

  ブルトマンの方はともかく、ハイデッガーの方では、ブルトマンをはじめとするマールブルクの神学者たちに次第に距離をとってゆく……。(中略)『存在と時間』やその前後の講義には、神学への言及はほとんど見られない。たまにあっても、それは神学者たちへの皮肉っぽい当てこすりである。たとえばマールブルク大学での最後の講義(1928年夏学期)には、こんなくだりが見られる。「今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している」が、それよりは「むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい」、「いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか」……。(木田元『ハイデガーの思想』岩波書店)

 

 バルトは、ブルトマンの人間学的神学における原理的な方法に対する宗教批判――人間学的神学における神・信仰・啓示・神学は、不可避的に、フォイエルバッハの宗教批判の対象そのものの位相に・ハイデッガーが揶揄・批判した「存在者レベルでの神への信仰」そのものの位相に陥っていきます――を、次のような言い方でしています。シュライエルマッハーは、人間学的に「教会とは、『ただ自由な人間的行為を通して発生し、またただそのような自由な人間的行為を通して存続することのできる共同体』であり、『敬虔性と関連した共同体』である」と言う。またシュライエルマッハーおいては、信仰も、人間実存の歴史的存在の一つの在り方として理解される。神学における「近代主義的思惟は、人間が、誰かによる呼びかけを受けることなしに、(中略)人間がじぶんを相手に自分だけでひとりごとを言っているのを聞く――「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる(ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ『キリスト教の本質 上』)。したがって、近代主義にとっては、宣教は、『教会』と呼ばれる人間的な共同体の一つの必然的な生の表現」となる。シュライエルマッハー等近代主義者は、人間の「精神的な促進〔霊的な奨励〕のために、自分と彼らに共通な宝庫からくみ取りつつ、この宝庫をさらに豊かにするために」、人間の自由な自己意識の意味的世界、感情・理性・実存等の人間的契機の直接性、人間学的な哲学的原理や認識論や世界観に信頼し固執して、自分自身の恣意的なプログラム・「自分自身の歴史」と「現在の解釈」を表現しようとする。すなわち、「自己表現としての宣教」を企てる。これらは、バルトの根本的なシュライエルマッハー批判である。さらに続けて、バルトは次のように、述べています――「私と同時代の神学者たちが試みかつ遂行した神学的企てのなかで、最も私の注意をひいて来たのは、ルドフル・ブルトマンの新約聖書の『非神話化』である。と言っても、それが提示する具体的な問題のため」ではなく、それがルターの宗教改革を出自とし、そして「シュライエルマッハーによって育成されたタイプの神学の主題と方法(《人間の神化・神の人間化、神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論・「神人協力説」に基づく人間の啓示認識、それに依拠した存在の比論を通した人間の自己認識という主題と方法》)を再び採用している点で、非常に印象的であるからである」。「私はその特殊な主題について、ましてその原理的な方法について、ブルトマンに従うことはできなかった」。なぜなら、「そこでは、神学は……新しく特定の哲学にとらわれて、エジプト捕囚ないしバビロン捕囚の身になっているのを、私は見た」からである。すなわち、そこでは、神学は、絶えず繰り返しいつも、人間学の後追い知識として、中途半端で非自立的な人間学的神学に過ぎないものに陥っているのを見たからである。また、私たちは、ブルトマンの「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」という知識的に上昇する知識の往相過程だけしか持たない信仰・神学が、近代主義的なキリスト教的教養人には受け入れ可能であっても、そのあるがままの不信や非キリスト者や非知や一般大衆に対しては全く閉じられていく以外にないことを知るだろう。まさしく、ブルトマン等々の人間学的神学は、エリート主義の神学であることを知るだろう。したがって、バルトは、知的に上昇する信・神学の往相過程しか持たないブルトマン(その学派)等々に対して、「『現代人』が実際に存在するのは」、「ただ教養人の間だけではない」のであるから、「実存主義への特別な拘束力が生じるべきだ」と語ったのです。私たちは、教養人振ったよほどの偏屈者でない限り、このバルトの言葉を首肯できるでしょう。

 

  (中略)この(新約聖書の)使信が、まさにイエス・キリストについての使信として、神と人間との間に起った出来事を内容としていることが確かであり、また、この使信が、その形式において、この出来事についての人間による証言であることも確かであるかぎり、われわれがこの使信の人間学的内容にも問いかけることは可能であり、またそうしなければならないことは明瞭である。(《しかし、第一次的な》)(中略)他のすべてのものを基礎づけ、制約し、支配するキリストの出来事としてのキリストの出来事を、この証言から取り去って(《この証言から啓示の実在を取り去って》)――その結果、(《啓示の実在を取り去った》)この証言を、そこでは第二次的なもの、あの第一次的なもの(《ハイデッガーの哲学的原理・「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって対象化された人間の自己意識の意味的世界である啓示・存在者・存在者レベルでの神》)に従事することにおいてのみ真であり、重要であるもの、に形式変換し、転釈するという場合、その使信をゆがめ、切りちぢめること
にならざるをえない……。 (『カール・バルト著作集3』「ルドルフ・ブルトマン」小川圭冶訳、新教出版社)
  私の思想はいかなる場合にも一つの点において常に同じであるということである。いわゆる「宗教」が私の思惟の対象・根源・規準ではなく、むしろ、……神の言葉こそ私の思惟の対象であるという点では少しも変わってはいない。キリスト教会、その神学、その説教、その伝道を基礎づけ、維持し、支えてきた神の言葉、聖書において人間に……あらゆる時代、あらゆる国、生のあらゆる段階と状況の人間に語りかける……神の言葉、神との関係における人間の秘義……ではなくて、人間との関係における神の秘義である神の言葉……それこそが常に私の思惟の対象なのである。 (カール・バルト『バルト自伝』佐藤敏夫訳、新教出版社)

 

 これらの根本的なブルトマン神学批判におけるバルトの言説、原理、認識方法と概念構成は、フォイエルバッハの宗教批判やハイデッガーの「存在者レベルでの神への信仰」や自然神学的なブルトマン等々の信仰・神学・教会の宣教・キリスト教を根本的に包括し止揚した神学における思想の言葉です。したがって、バルトにおいては、人間が人間的に所有する人間のその啓示認識が、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいたそれであっても、啓示の実在そのもの(第一次的なのも)は、常に、その人間の啓示認識(第二次的なもの・新約聖書の使信・啓示の「概念の実在」)の彼岸・外にあることに対して、全く以て自覚的です。したがってまた、バルトにおいては、この秘義性・隠蔽性を本質とする神の不把握性と終末論的限界(自己相対化視座)の認識に対しても、全く以て自覚的です。しかしブルトマン神学の原理、認識方法および概念構成は、そうした事柄を揚棄してしまって、そしてさらに前期ハイデッガーの哲学的原理・「容易に修得しえない」「先行的理解と言語〔表現〕」によって対象化された啓示・存在者・存在者レベルでの神を第一次的なものに形式変換し、新約聖書の使信・証言を、その第一次的なものに「従事することにおいてのみ真であり、重要であるもの」に、すなわち第二次的なものへと形式変換してしまいました。この場合、イエス・キリストの啓示の出来事に関わる認識において、その最初から「誤謬は必然」となります。したがって、ハイデッガーが、「今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している」が、それよりは「むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい」、「いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うことではなかろうか」と述べたことは、正当性のある根本的な批判・揶揄の言葉として成立するのです。 
 このように、一切の近代主義および自然神学の系譜に属する信仰・神学・教会の宣教・キリスト教に対する正当性のある根本的なフォイエルバッハの宗教批判等々を包括し止揚した『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』論を経由させた『福音と律法』論は、終末論的限界の下においてではあれ、バルト神学の原理であり、キリスト論的集中神学の原理であり、根本的で究極的な宗教改革の原理と原動力です――(《私たちは神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示、この》)一つの事柄に仕えなければならないのであって、ひとつの党派(《学派・教派・思想傾向・時流や時勢・社会的政治的な言説や運動》)に仕えなければならないことはない……、一つの事柄に対して自分の立場を区別しなければならないのであって、別な一つの党派に対して自分の立場を区別しなければならないわけではない……(カール・バルト『教会教義学 神の言葉』)。

 

1)バルト神学の核である主格的属格としての「イエスの信仰」
 バルトのキリスト論的集中神学の核、バルトのその信仰・その神学の認識方法および概念構成の核、根本的かつ究極的な最後の宗教改革の核は、次に引用する言葉に尽きると言っていいです。

 

  神は、神なき者がその状態から立ち返って生きるために、ただそのためにのみ彼の死を欲し給うのである……しかし誰がこのような答えを聞くであろうか。……承認するであろうか。……誰がこのような答えに屈服するであろうか。われわれのうち誰一人として、そのようなことはしない! 神の恩寵は、ここですでに、恩寵に対するわれわれの憎悪に出会う。しかるに、この救いの答えをわれわれに代わって答え・人間の自主性と無神性を放棄し・人間は喪われたものであると告白し・己に逆らって神を正しとし、かくして神の恩寵を受け入れるということを、神の永遠の御言葉が(肉となり給うことによって、肉において服従を確証し給うことによって、またこの服従において刑罰を受け、かくて死に給うことによって)引き受けたということ―これが恩寵本来の業である。これこそ、イエス・キリストがその地上における全生涯にわたって、ことにその最後に当たって、我々のためになし給うたことである。彼は全く端的に、信じ給うたのである(ロマ3 ・22 、ガラテヤ2・16等の「イエスの信仰 は 、明らかに主格的属格として理解されるべきものである )。(カール・バルト『福音と律法』)
  「私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば 、〈私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ 〉ということである)」(ガラテヤ2・19以下)。
  (中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ―そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである。 (前掲書)
  人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは 、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ―これが神の恩寵である。(同書)
  われわれは 、われわれの主としてのイエス・キリストに固執することにより 、またイエス ・キリストがわれわれのかしらであるということに固執することにより 、(中略)この主とかしらのもとで 、またこの主とかしらとともに 、……これからは神の義 、神の子の義、神自身の義をまとっている者として生きることを許される 。 (『カール・バルト著作集15』「ローマ書新解」)

 

 先ず以て、重要な点は、バルトはこの『福音と律法』で、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」を、「福音と律法」の「真理性」と「現実性」の構造において把握しているということです。そして、私たちは、ここにのみ、一切の近代主義・自然神学的な神学や教会の宣教に抗することができ、不信とむなしさと不確かさと不安の只中にある現在から未来に生きることのできる唯一無比の信仰・神学・教会の宣教の根拠と原理と原動力があることを知ります。したがってそれは、自然神学的な神と人間との混淆論・神との「共働者」論・「神人協力説」に基づく目的格的属格理解に依拠した既存の旧来訳聖書や新共同訳聖書・その信仰・その神学・その教会の宣教・そのキリスト教に対して、180度のベクトル変容を迫るものであります。すなわちそれは、全キリスト教に対して、根本的かつ究極的な最後の宗教改革を迫るものでもあります。しかし、現在までのところ、そのことを、近代主義を骨肉にまで受け入れた自然神学的な全キリスト教のそれは、全く認識し自覚していない、というのが現状です。また、その対極にあると同時に、それと同じ自然神学の系譜に属するエコロジー神学群も土俗的神学群等々も全く自覚していません。したがって、神自身が、根本的で究極的な宗教改革を決定されるその時まで、私たち人間は待たなければならということでしょう.

 

2)「福音と律法の真理性」における福音の内容とは何か?
 啓示の真理によれば、人間は、自主性・無神性・不信仰(「真実の罪」)を本質としており、神の恩寵を嫌悪し回避する存在である。この人間に対して、神は、神の恩寵を嫌悪し回避する人間が生きるためにのみ、その死を欲する。しかし、人間はその神の要求(律法)に対してさえも、聞き従おうとはしない。したがって、「福音と律法の真理性」における福音の内容は、神の自由な愛によって、神性を本質とするまことの神でありまことの人間であるイエス・キリスト自身が、その神の要求に対して然りと言い、人間のために人間に代わって、人間の「神の恩寵への嫌悪と回避」に対する神の答えである刑罰(死)を、「唯一回なし遂げ給うた」(律法の成就)という点にある。すなわち、このインマヌエルの出来事は、私たち人間からは「何ら応答を期待せず・また実際に応答を見出さず」とも、「神であることを廃めず」に、何ら価値や力や資格もない「罪によって暗くなり・破れた姿」の「人間的存在を己の神的存在につけ加え、身内に取り入れ、それをご自分と分離出来ぬよう」に、「しかも混淆されぬように、統一し給うた」ということを内容としている。言い換えれば、福音の内容は、主格的属格としての「イエスの信仰」そのもののことである。

 

3)「福音と律法の真理性」における福音の形式としての律法とは何か?
 「福音と律法の真理性」における福音を内容とする福音の形式としての律法は、神の側の真実であるイエス・キリストが信ずる信仰による神の義・福音の内容・インマヌエル・イエス・キリストにおける完了された究極的包括的総体的永遠的救済(史)としての、そのイエス・キリストを信ぜよ、という神の「要求と強請」であり、「恩寵への召喚」のことである。このことは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいて初めて認識し定義することができる。恩寵が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、イエス・キリストにのみ固着せよ、という福音の形式である律法が建てられる。なぜなら、この律法がなければ、私たち人間は、現実的に福音を所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするもの」という事実において、福音を内容とする福音の形式である。したがって、この神の律法(神の人間に対する要求)は、人間はただの人間でしかない以上、神性を本質とするイエス・キリストを模倣することではない。また、それは、イエス・キリストが信じたように信ずるということでもない。すなわち、それは、「福音の中核」であるイエス・キリストが、「律法を満たし・すべての誡めを遵守し給うたという事実」から考えられなければならないから、素直な感謝の応答・告白・証し・宣べ伝えにある。したがって、それは、
ア)主格的属格としての「イエスの信仰」による神の義にのみ信頼し固着すること、すなわちその神の義としての「十字架につけられ甦り給うたイエス・キリスト」に信頼し固着すること、そしてその告白と証しと宣べ伝えにある。
イ)「われわれには絶対に実現出来ぬイエスの代理的な信仰を、承認し受け入れる」ということである。
ウ)「われわれの生命がキリストと共に保管されている」ことを承認し受け入れるということである。
 これらアからウまでの事柄が、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が教会自身と世に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」である。この誡命を人間に対しておくことによって、イエス・キリストの出来事は、この「福音と律法の真理性」の「現実化」を目指している。すなわち、全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的救済(史)は、徹頭徹尾全面的に、神の側の真実=主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性においてのみ成就されることを目指している。そのために、まず、福音の形式である律法が、「真実の罪人」の手に、「にもかかわらず」与えられたら、どのような状態になるのかを、啓示の出来事に即して論じられなければならない。ここにおいて、バルトは、ルターと同様に、律法→福音という順序で語るのである。