本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』、バルトの読み方・分かり方(その6)

拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』について正直言えば、内容的な推敲不足を否むことはできませんので、この記事は、この拙著<以降の論述>との関連でお読みください。

 

 クラッパートと寺園喜基は、「時代の現実との関連における神学」=「状況連関神学」について、それは、「キリストと同じ形になること」を目指す形成倫理学だと言います。またそれは、「神学的なもの」と「政治的なもの」=「倫理―隣人愛―仕える教会―信徒―民主主義的社会主義―平和運動」との「必然的関係」および「正しい関係」に仕えるものだといいます。例えば、「神によるイエスの復活」は、人類史に「限定された時と愛を贈与する」。したがって、「第三帝国の死の偶像化という文脈の中で」、「それに対する抗議」を意志させる、と言います。このように述べるクラッパートは、一方通行的・往相的に、私的利害の優先を目指す制度としてのブルジョワ階級が政治的権力を主導するブルジョワ民主主義に対して、「民主主義的社会主義」が理想的な政治形態だ・「平和運動」も必要だと言うだけで、究極的永続的課題である国家・政治的権力の無化を伴う人間の社会的現実的な人間の解放の構想については全く語らないのです。人間学的神学の神学においても人間学においてもです。したがって、クラッパートの場合は、第三帝国の死のための権力闘争が新たな政治的権力の構成で終わってしまうだけのものなのです。また、クラッパートは、観念の共同性を本質とする「政治的なもの」と、それとは位相の異なる「倫理・隣人愛」を直接的無媒介的に地続きで結びつけてしまっています。そうした思想的な問題以前に、いったいそれらがほんとうに「キリストと同じ形になること」でしょうか? いったい私たち人間は、神性を本質とする「キリストと同じ形」になれるのでしょうか?クラッパートや寺園とは違って、神学における往還思想を持つバルトの場合は、やはり、その社会的政治的領域における発言や神学的実存の在り方に限ってみても、断然質がいいですし、断然優れています。「私は……『今日の神学的実存』誌の第一号において……何も新しいことを語ろうとしたのでは……ない。すなわち、われわれは神と並んで、いかなる神々をも持つことはできないということ、聖書の聖霊は、教会をあらゆる真理へと導くのに十分であること、イエス・キリストの恵みは、われわれの罪の赦しとわれわれの生活の秩序にとって十分であることを語った。但し、私がまさにこのことを語ったのは、それがもはやアカデミックな理論などといった性格にはとどまりえず、むしろ、私がそういうものにしようともせず、また実際にそうしなかったのに、それが呼びかけ、要求、戦いの標語、信仰告白にならざるをえなかったという状況においてであった(エーバハルト・ブッシュ『バルトの生涯』小川圭冶訳、新教出版社)。

 

 バルトの場合は、神の側の真実である神性を本質とするイエス・キリストにおける福音にのみ信頼し固執する説教や宣教の繰り返しの言葉が、「おのずから」状況に抗する神学的実存へと駆り立てて行く、というものでした。したがって、バルトは、他者に対して、社会的政治的な参加や発言や実践が必要である、と声高に叫ばないのです。だからこそ、バルトの場合は、他者がたとえ無関心であっても、発言しなくても、動かなくても、自らは牧師・神学者として、自らが語った説教や神学における福音の言葉を媒介として、おのずから神学的実存へと駆り立てられていくのです。バルトの場合、政治的なドイツ教会闘争・反ナチ闘争も、またバーゼルの刑務所での社会的な説教奉仕等も、その位相にあるものなのです。佐藤優は、、バルトとキルシュバームとの対関係が日本では封印されていることを、「火宅の人、バルト」などと得々と意味ありげに述べていましたが、その佐藤を含めて誰もが、次のようなバルトの政治的実践については封印してしまっています(バルト自身は、『バルトとの対話』で正直に述べています)――「スイス(《自由および直接民主制と武装永世中立》)をナチズムからまもるために私は軍隊に参加」し、「両国を区分しているライン河にかかっている橋を護衛」するために、「もしもドイツのキリスト者の友人の一人が、その橋を爆破しようとしたら、私は射殺しなければならなかったであろう」・「規準はただ方向を与えることしかできない。(中略)ある特定の瞬間になした決断はおそらく、もっとも重要なキリスト教の教義よりもっと重要であるかもしれない」、とバルトが語っていることが封印されています。これは、バルトの神学における還相過程からの言葉であるにもかかわらずです。そのことが、彼らには理解できないわけです。すなわちバルトは、このことで、往相的な教義では答えが得られない不可避な場面、すなわち民族国家が存在する限り戦争の可能性はあるからそうした場面に立たされた場合、教義の還相過程を意識的に下降してその答えと実践の決断を逼られることがある、ということを語っているのです。
 前述したバルトにとっては、ステパノの殉教の本質は、その苦難の「行為」にはなく、その福音にのみ信頼し固執する「言葉」にあるのです。それに対して、ヒトラー暗殺計画の陰謀を企てたボンヘッファーの神学的実存の在り方は、彼の『説教と牧会』に即して言えば、「キリスト証言は、言葉と行為とをもってする説教者と聴衆とを要求する」というところにあります。しかも、そのボンヘッファーの信仰・神学のベクトルは、バルトとは違って、この世における、キリストの許しのもとでの、神との「共働者」論に基づいたキリストを範型とした「行為」、イエスへの従順と服従の「行為」、正義の体現「行為」にあったから、ボンヘッファーのそのイエスへの従順な服従行為は、事実的にはヒトラー暗殺計画へと向かう権力闘争・政治的実践にありました。しかし、それは、果たしてほんとうに従順な服従行為なのでしょうか? 私たちは、この両者の根本的な差異を、バルトの神学的実存の根拠が「超自然な神学」における主格的属格としての「イエスの信仰」=啓示の客観的現実性にあるのに対して、ボンヘッファーの神学的実存の根拠が自然神学的な「イエスの信仰」の目的格的属格理解・啓示の主観的現実性にある点に見出すことができます。したがって、ボンヘッファーとは違って、バルトは、次のような良質な神学的実存における思想的原則を持っています。
1)「世界の救いを何かある国家的、政治的、経済的または道徳的な諸原理や理念や体制の内に求め」ようとしないで、「私たちの主であり、救い主であるイエス・キリストを、いっさいのものにまさって恐れ、かつ、愛すること、神を、大きな問題においても、小さな問題においても、彼がかってあり、いまあり、やがてあり給う権威のままに肯定し、是認すること、私たちの個人的、社会的生活を敢えて律して、すべての善きものを神から、神からすべての善きものを期待」するべきである。
2)「不毛な反抗や反論を避けて」、「西でも東でも等しく通用し、西でも東でもひとしく稀であり、人々に好まれぬ福音に、無償の恩寵によって、素直に止まる」べきである。
3)「われわれは平和を維持するためにできる限りのことをしなければならない」。しかし、「このことは、われわれは平和主義者でなければならないということを意味しない。平和主義は一つの絶対主義だ(すべての主義のように)。われわれは神には服従するが、一つの原理や理念にはしない。したがって、われわれは最後の手段のために、(《民族国家・政治的近代国家が存在する限り》)戦争の可能性はあけておかなければならない」。このように、自然神学的な神〈学者〉や牧師や著述家とは違っ
て、神学における思想家でもあるバルトは、教条主義者ではないのです。
4)「西の獅子に全力をあげて抵抗しないような人びとは、決して東の獅子にも抵抗しえないし、また事実、抵抗しない」。
5)「人間の公私の生活においては、絶えず新たな支配が行われるような仕組みになっている」・「国家は支配であり、文化は支配」である。したがって、「どのような国家形態にも、どのような文化傾向にも、無条件に『然り』とは言わぬ」。
 さて、権力を実体的に考えていたボンヘッファーの権力闘争が成功しないことは、最初から明らかなことです。なぜなら、権力は実体ではないからです。観念の共同性・無意識の共同性にあるからです。また、ボンヘッファーは、ヒトラー暗殺計画を企てたのですが、国家・政治的権力の無化を伴う社会的現実的な人間の解放という究極的総体的永続的な還相課題を持っていませんでした。したがって、ボンヘッファーの権力闘争は、たとえそれが成功したとしても、新たな権力の構成でもって終わってしまうものでしかなかったのです。ボンヘッファーとは違って、バルトの場合は、神の側の真実であるイエス・キリストにおける福音にのみ信頼し固執する説教と宣教の繰り返しの「言葉」が、「おのずから」政治的実践へと駆り立てただけでなく、バーゼル刑務所における社会的な説教奉仕にも駆り立てたのです。それは、「誰も、他人の重荷を取り除くことも、また、その人が自分にするところの厄介も、取り除くことはできはしない」が、他者の重荷を負う行為でした。
 一般的に政治好きや闘い好きや戦争好きでない限りは、誰も民族国家による戦争や様々な地域紛争や日常の争い事も好まないに決まっています。しかし、空想的に考えない限り、人間が情念を持つ限り愛憎の悲劇や惨劇は繰り返されるのであり、民族国家が軍事部門を構成し一部上層の意思によって戦争が行われ得るという意味で、現在のところ戦争の可能性はあるのであり、もし私たちが本当の意味で、戦争が起こらないように決意したならば、その戦争無化の可能性である民族国家を包括し止揚し得る革命論の構築を必要とするわけです。また核兵器は軍事的にも最後的な戦略兵器であるから、もしもそれを実際的に使用したとすれば、バルトも述べているように、その最初の瞬間からすべてが終わりとなり、したがって戦争遂行それ自身が不可能となるでしょう。また資本主義の制度的必然による貧困格差等の問題を解決しようとするのであれば、吉本に依拠して言えば、史観の拡張によって現在の尖端的な資本主義的生産様式を包括し止揚する以外にないわけです。