本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

拙著『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』、はじめに(2−2)

拙著の『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』について正直言えば、内容的な推敲不足を否むことはできませんので、この記事は、この拙著<以降の論述>との関連でお読みください。

 

 ここまで理解できれば、全キリスト教を、バルトの「超自然な神学」におけるキリスト教・教会の宣教・信仰・神学と、自然神学の系譜に属するローマ・カトリック主義的な信仰・神学・教会の宣教、近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教、アジア的日本的な自然原理に依拠した近代主義的プロテスタント主義的な信仰・神学・教会の宣教、アウグスティヌス→トマス・アクィナス→ルター→シュライエルマッハー→ブルトマン、滝沢克己等々として、単純にしかし根本的にそしてトータルに把握できるわけです。さまざまな神学者や著述家等の発言や言説が、いかに根本的な「誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語」(吉本)られているかが分かるわけです、「何らかの抽象を以って始められ何らかの空論に終わるところの神学」(バルト)・キリスト教・教会の宣教でしかないことが分かるわけです。
 最後に、1)から3)までの事柄から、取り敢えずですが、バルトの「超自然な神学」におけるその認識方法および概念構成は以下のように言うことができます。
A)神の側の真実=神の自己啓示=神の自己認識・自己理解・自己規定=イエス・キリストにおける啓示の出来事=啓示の実在=啓示の真理、永遠=超歴史=啓示の時間=救済史は、常に、人間が人間的に所有する人間の啓示認識・概念・教義、人間の自己認識・自己理解・自己規定、人間の時間・歴史の、彼岸・外にある、ということです。このことをバルトは、終末論的限界と言いました。ドストエフスキーは、このことを、「ただ万人を憐れみ、万人万物を解する神さまばかりが、われわれを憐れんで下さる」、「神さまは万人を裁いて、万人を赦され」、「最後の日にやって来て」、「われわれに、御手を伸ばされる。その時こそ何もかも合点が行く!……誰も彼も合点が行く」、とマルメラードフに告白させています。またこのことは、神は「隠蔽性・秘義性」を本質としており、その神に対して人間の理性・感情・実存・意志等は「全く闇に閉ざされ」た「盲目」性を本質としている、という「神の不把握性」を意味しています。これらのことは、神の存在の本質=単一性・神性・永遠性についての「信仰命題」であり、一般的真理ではなくて、啓示の真理・信仰の真理である、ということです。
B)言い換えれば、これらの認識は、神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて初めて人間が人間的に所有することができる人間の啓示認識であり、その啓示認識に依拠した信仰の比論・関係の比論・啓示の比論を通して初めて得られる人間の自己認識・自己理解・自己規定、ということです。ここで啓示の比論・類比とは、自然神学的な啓示の主観的現実性に基づく人間の啓示認識・人間の経験的普遍(人間の感覚や知識を内容とする経験)の直接性に依拠した類推・存在の比論ではなくて、啓示の客観的現実性に基づく人間の啓示認識を媒介とした類推・啓示の比論のことです。
C)神の言葉は、先ず以て、人間に向かって語られる神の自己啓示=神性を本質とするイエス・キリストにおける啓示の出来事=啓示の実在そのものです。そして、それは、啓示の出来事と信仰の出来事に基づいた聖書の証言・証しおよび教会の客観的な信仰告白・教義としての啓示の「概念の実在」(歴史性・時間的連続性)においてあります。したがって、これに連帯する、ということは不可避性としてある、ということです。もちろん私たち人間は、個・現存性と類・歴史性の交点で生き生活し信仰し神学し思想をするわけですから、一方で個性や時代性も刻んでいきます。したがって、バルトも述べているように、神の側の真実=啓示の客観的現実性にのみ基づくことを目指す「超自然な神学」の認識方法および概念構成においては「誤謬は可能」であるけれども、神だけでなく人間の自主性もという神と人間・神学と人間学との混淆論・共働論=啓示の主観的現実性を目指す自然神学の系譜に属するその神学の認識方法および概念構成においては「誤謬は必然」となるわけです。しかし、自然神学の系譜に属する神学者・著述家たちは、そうした誤謬に「普遍性や組織性の後光をかぶせて語」るわけです。良質で自立的な思想家の吉本は、次の言葉を置いています――「わたしは、個人がだれでも誤謬をもつものだということを、個性の本質として信じる。しかし、誤謬に普遍性や組織性の後光をかぶせて語ろうとするものをみると、憎悪を感じる。(中略)弱さは個人の内部に個性としてあるときにだけ美しいからだ」。私は、この言葉が好きです。
D)とは言っても、そうした「超自然な神学」における啓示認識も終末論的限界等の下での人間が人間的に所有するそれでしかない以上、私たちは、やはりバルトも述べているように、その認識と語りが「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神」自身の決定事項なのであって、私たち人間の決定事項・自由事項ではないことについて自覚的である必要がある、ということです。
 さて、私は、世界のどこかには、まだ見ぬまだ知らぬ、少なくとも二割前後の同朋がいるに違いない、という希望を持って書いています。そういう人たちに会えるに違いない、という希望を持って書いています。それから、このサイトの更新(掲載記事)計画について書かせて頂けば、少なくとも月に1度は更新していきたい、と考えています。先ずは拙著の内容の概略を述べていく作業をしていき、それが終わったら次には、あくまでも単純にしかし根本的に、バルトの著作論をやっていきたいと考えています。それで、今回の内容は「神学・知識の課題」についてです。そして次回の内容は、序論― バルトを単純に根本的にそしてトータルに把握するための八つの視座について、は省略して、バルトのほんとうの読み方・ほんとうの分かり方についてです。