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『教会教義学 神論T/1 五章 神の認識』「二十七節 神認識の限界 二 人間の神認識の真理性」(その4−4)−1

『教会教義学 神論T/1 五章 神の認識』「二十七節 神認識の限界 二 人間の神認識の真理性」)(449−468頁)

 

『教会教義学 神論T/1 五章 神の認識』

 

「二十七節 神認識の限界 二 人間の神認識の真理性」(その4−4)―1
 われわれは、あの、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる人間が人間的に所有する人間の「人間的な神認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)の真実性」を、すなわち終末論的限界の下で人間の言語を介した直観と概念を用いての神認識の真実性を、@聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己「啓示の中での神の真実性……として定義した」、またAその啓示から措定されてくる「外的ナ譲与ノアナロギア」、「恵ミノ類比」(啓示の類比、信仰の類比、関係の類比)、類似性、「アナロギアヲ与エルモノ」と「アナロギアヲ受ケルモノ」との「部分的な対応と一致」において、「神の真実性にあずかるこのわれわれの参与を感謝の態度……として解明した」、そしてまたBその「類似性を、その起源からして、それの成立の過程からして、その実在からして説明した」、「それと共に、われわれは再び啓示そのものの実在の前に、すなわち神の隠れから顕われへと通じる啓示の道」、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」という「啓示の道……の前に立った」。総括的に言えば、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえにあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」のであるから、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続ける」道の前に立ったのである。このように後続するわれわれは、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性を志向し目指すのである。何故ならば、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)――われわれの、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者は、徹頭徹尾、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言)だからである、それゆえにわれわれは、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに基づいた「最後の保証と確認を必要としている」からである。「人は、……またこう言うこともできるであろう、最後の保証撤廃と保証除去を必要としている」、と。また、「人は、……またこう言うこともできるであろう」、日本基督教団立東京神学大学の実践神学者・小泉健のように、人間自身教会自身が「わがまま勝手に」、恣意的独善的に、神学者ルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と、聖霊や聖霊の言葉を実体化させることは決してできない、そこには「保証撤廃と保証除去」しかない、と。第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)――われわれは、先ず以て、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異の下で、自由・主権は「神ご自身においてのみ実在であり真理である」ということ――この神の自己還帰する対自的であって対他的、他在であって自在、全き自由と、人間が肉体的身体的および精神的意識的な類的な活動や生活を為すということ、身体と精神を介した普遍的で実践的な全自然(自己身体、他者身体、天然自然、人間化された自然である人間的自然)との相互規定的な対象的活動を行うということ、人間が自由な自己意識・理性・思惟の類的活動の無限性を持っているということ――この人間の自由との無限の質的差異についての認識と自覚を必要とするのである。「われわれは、結局、疑いもなく、(その中で、われわれが、神認識の出発点を見出した)神の隠れから出発し、また神認識の目標を確認するに際して、まさに神の隠れへと戻った」「円環」・「循環」の認識と自覚(「われわれの神認識の真実性」の「間接的証拠」)を必要とするのである。言い換えれば、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける啓示こそが、われわれ個体的自己としての全人間の、その類・歴史性と個・現存性の生誕から死までのすべてを見渡せ、また「この世の偽り、通俗の偽りを偽りと呼び、世俗的真理をも正直に受け取ることができる」場所なのである。徹頭徹尾、この関係を転倒させることはできないのである。したがって、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)の恣意的独善的嗜好的な宣教、その思惟と語りが、「保証撤廃と保証除去」される対象として、「理念へと、有神論的形而上学へと、われわれに管理されるプログラムへと」、「鋭さをなくした」「十字架象徴論へと」、「イエス・キリストはたかだか<暗号>にすぎ」ない「神秘主義へと変わって行く」ことが見渡せる場所でもあるのである。あの二重の「円環」・「真理ノ循環」が、「何らかの抽象をもって始められ何らかの空論に終わるところの」「形而上学的に深められた人間的な自己認識のさまざまな形式」循環と「混同することを防止する」のである。したがって、そうした「形而上学的に深められた人間的な自己認識のさまざまな形式」循環に対して限界づけを行いそれらを防止するのは、われわれが「啓示」、「恵み」、「啓示と恵みの神学」という概念を「中心的に、どんなに注意深く体系的に使」うとしても、そのようなわれわれの「人間的な概念」ではないのである。言い換えれば、そうした「形而上学的に深められた人間的な自己認識のさまざまな形式」循環に対して限界づけを行いそれらを防止するのは、~の側の真実としてのみあるイエス・キリストにおける啓示の出来事、その客観的な啓示自身に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、三位一体の唯一の啓示の類比としての~の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「~の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性、そのものである。われわれは、「神認識の真実性を問う問い」において、「神認識は現実のことであり、可能であるということを前提」していたのであるが、ここでは「『神認識の限界』の問題全体がもう一度提示されている」のである。「われわれはすべてのことを、信仰の中で、まさにそれ故にこそ真実な神認識の中で考え語ったと主張するだけでは決して十分ではない」。「ここで最後的な保証と確認があるとするならば、……それは確かに同時に、最後的な保証撤廃と保証撤去から成り立っていなければならない」。「もしもわれわれが信仰の中で、(≪まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示としての≫)<神>ノ真理ノ循環の中を、(≪神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる神認識、啓示認識・啓示信仰としての≫)神ノ<真理>ノ循環の中を、動いてきたのであれば」、われわれは、「われわれの思想の歩み全体のこの最後的な保証と保証撤去」は、「われわれによって遂行されることのできる行為ではないということについて明らかでなければならない」のである、われわれの宣教、その思惟と語りが、キリスト教的な思惟と語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」なのであって、われわれ人間自身教会自身の決定事項ではないということについて明らかでなければならない。~の側の真実、イエス・キリストにおける啓示の側からやって来る「われわれは、実際に信じているのか、そして信じる者として、真実に神を、神を真実に認識(≪信仰≫)しているのかという問い」は、「徹底的で根底から土台を揺り動かさずにおかないものである」。われわれ人間の不信を包括し止揚し克服したキリストにあってのわれわれの「信仰の中では、人はただ、再び信じ、初めから信じ、続けて信じることができるだけである」。したがって、信と不信の二元論的なあるいは二元主義的な「すべてのそのほかのことは、まさに真剣ではなく、ただ(≪「無思慮な敬虔性」として≫)宗教的な、あるいは(≪「無思慮な不敬虔性」として≫)非宗教的な気取りに、あらゆる種類の経験主義的な、あるいは自由思想家的な高級な詐欺に導くことができるだけである」。したがって、バルトは、次のように述べたのである――@第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)における宣教、その思惟と語りは、またその一つの機能としての教会教義学は、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度に対し神が応じて下さるということに基づいて成立している」のである、A「『もちろん福音をわたしは聞く、だがわたくしには信仰が欠けている』その通り――一体信仰が欠けていない人があるであろうか。一体誰が信じることができるであろうか。自分は信仰を『持っている』、自分には信仰は欠けていない。自分は信じることが『できる』と主張しようとするなら、その人が信じていないことは確かであろう。(中略)信じる者は、自分が――つまり『自分の理性や力(≪悟性、感情、意志、想像、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する。聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略) 『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』」 という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」(『福音主義神学入門』)。したがって、総括的には、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)における、<神>ノ真理ノ循環と神ノ<真理>ノ循環が肝要なことなのである――@「<神>ノ真理ノ循環」は、神の側の真実としてある、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による客観的な啓示の出来事――すなわち、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的には第二の形態の聖書的啓示証言における神の言葉、客観的な啓示の「概念の実在」)――と、その出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事)、この「啓示と信仰の出来事」・「啓示と信仰の奇蹟」という仕方で存在している、またA「神ノ<真理>ノ循環」は、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)が、その人間の言語を介した直観と概念を用いての神認識、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者を、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリスト(具体的には第二の形態のイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命された預言者および使徒たちのその人間性と共に神性を賦与され装備された直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)に置いて、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、<純粋>なキリストの福音を、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「~への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要請・要求、)――すなわち「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会(≪その牧師、その神学者、その成員≫)が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」、すべての人々が<純粋>なキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを志向し目指して行くという仕方で、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指して行くという仕方で、「神への愛」――「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関と循環の中で、存在している。
 前述したように、聖書的啓示証言における~の側からする、イエス・キリストにおける啓示からする「われわれの信仰を問う問い」は、「それが、神から来るが故に、われわれの信仰に肉迫する」のである。したがって、われわれが、「信仰」を、われわれの側において第三者的立場で「外から考察し、……わがまま勝手に、敬虔性に向かって、あるいは不敬虔性に向かって」行くために、「信仰から身をひいてしまう時には、その問いは、決してわれわれの身に肉迫することはない」のである。この時には、神は、「われわれを、ただわれわれの最後的には確かに真剣でない、実りを結ばない、(≪人間自身教会自身の恣意的独善的嗜好的な≫)自己吟味と自己判決に任せることができるだけである」。われわれが、「真剣にわれわれの信仰を問」い、それゆえにわれわれの神認識に関してあの二重の「神ノ真理ノ循環の中にわれわれが立ち」、われわれがあの二重の「神ノ真理ノ循環の中を進んでいるかどうかを問う」には、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる啓示認識・啓示「信仰が必要」なのである。「われわれの信仰に肉迫する」ところの、~の側からやって来る「神的な業」――すなわち「われわれの信仰に対し働きかけ給う神ご自身の業であるところの祝福された」「最後的な保証」と「保証撤廃」・「保証除去」の「試練にあずかるためには」、啓示認識・啓示「信仰を必要としているのである」。このことを、「イスカリオテのユダの……信仰」と「区別」されたところの、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」、「神的な業」に基づいた「洗礼者ヨハネ……またペテロ……の信仰」は、「疑わない」のである――否、その洗礼者ヨハネとペテロの「信仰は、(≪客観的な啓示と聖霊の注ぎにより人間的主観に実現された神の恵みの出来事として≫)疑うことはできない」のである。そこにおいては、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求、不信仰・無神性・真実の罪は「取り去られてしまう」のである、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続ける」のである。「信仰は試練に遭うが、そのことが起こる時、『むしろ非常に喜ばしいことと思う』(ヤコブ一・二以下)」。神は試練を堪え忍ぶ力も与え給うから、「信仰は、『試練を耐え忍ぶ人は、幸いである』(ヤコブ一・一二)と告白する」。「何故ならば、試練は、信仰がそこにあるかどうかを問う神の問いだからである。信仰にとっては、この問いを受ける以上に喜ばしいものはない」。「試練の中で信仰は人間から取り去られる、それは信仰の対象からその人間に(≪試練を包括し克服した信仰が≫)再び与えられるためである。試練の中で信仰は殺される、それは信仰が信じる方を通して(≪不信を包括し克服した信仰において≫)新たに生かされるためである」。このような訳で、われわれが、聖書的啓示証言を媒介・反復することを通して為した「神認識についての吟味検討」を、人間自身教会自身が「何らかの批判的な哲学」、何らかの人間学的な哲学原理・認識論・世界観を「原理」として、「問いに付」すべきだとみなすことによって、あるいは「批判的に括弧にくくることによって」、換言すれば人間自身教会自身が「自分自身をいわば裁く神の傍らに並べ」ることによって、「試練」としての「信仰がそこにあるかどうかを問う神の問い」に対して、その「圧力を軽減し」、「良心の安らぎを得、肩の荷を下ろ」そうとするならば、そのような教会(その牧師、その神学者、その成員)は、具体的には神の言葉の第二の形態の聖書的啓示証言を、その宣教、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で為さなければならないところの、その宣教、その思惟と語りの「自己吟味」と的確な自己「批判と訂正」を後景へと退けてしまうところの、「恐るべき誤解」の陥穽に陥っているのである。したがって、そのような教会には、「われわれの信仰に対し働きかけ給う神ご自身の業であるところの祝福された」「最後的な保証」と「保証撤廃」・「保証除去」との同在的同時的な「試練」は存在しないのである。
 このような訳で、あの二重の「神ノ真理ノ循環(≪「円環」≫)を念頭に置いて何らかの積極的な結論をひく際の真剣さに関して、……人は思い違いをしてはならない……」。何故ならば、「神学が、まことの信仰とその真実な神認識を問うに際して」、その「認識が動いている円環」が、神の人間化、人間の神化、有限と無限との「究極的同一性」を主張したヘーゲルのように、自己還帰する対自的であって対他的、他在であって自在、自由な「絶対的な精神の円環と同一であるということを自分で自分に保証することによって、(≪自分で自分を慰め≫)自ら気をしずめようとした時代があった」からである、「神学が、自分の避難所を、信仰はそれがいわば人間的な自己意識の原行為として、最後的な精神的な実在の裁きの座の前で、自らが自分の保証人であるが故に信仰であり、……真実な神認識であるということの中に、見出した時代があった」からである、すなわち「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」の時代が、「神の自由」と人間の自由を「取り違えるという混淆」の時代があったからである(このような時代は、今なお依然として続いている、それゆえにわれわれは、ブルトマン、モルトマン、ベルトルート・クラッパート、パンネンベルク、エーバーハルト・ユンゲル、ルドルフ・ボーレン、A・E・マクグラス等々、「シュライエルマッハー以外の他の人々の所でも」、また彼らを賞賛し彼らに依存する牧師、神学者等々のところでも、このような「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する……」のである)。言い換えれば、次のような時代があった――「人間は自分の本質を対象化し、そして次に再び自己を、このように対象化された主体や人格へ転化された存在者(本質)の対象とする。これが宗教の秘密である」・「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」・「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……。(中略)こうして、この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』……」・「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『キリスト教の本質』および『宗教の本質にかんする講演 下』)という時代があった(このことは、今なお依然として続いているのである)。「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活である。人間は思惟する、すなわち人間は会話をする、人間は自分自身と話をする。動物は自分以外の他の個体がいなければ 類の機能をひとつもはたすことはできない、しかし(≪対自的で対他的な自由な自己意識の無限性の中で≫)人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」・「もし君が無限者を思惟するならば、そのとき君は思惟能力の無限性を思惟し且つ確証しているのである。そして、もし君が無限者を情感するならば、そのとき君は感情能力の無限性を情感し且つ確証しているのである。理性の対象とは自己自身にとって対象的な理性であり、感情の対象とは自己自身にとって対象的な感情である」(『キリスト教の本質』)――このような人間の自由な自己意識の無限な類的活動に依拠して、「人が、信仰およびその神認識は、……人間存在の、いや、そもそもすべての存在の、最高価値あるいは最高善に対応するということによって確認され正当化されるということでもって、(≪自分で≫)自らを慰めた」のである(このことは、今なお依然として続いているのである)。このような事態の中で、「聖書的、教会的な響き」を持った「積極的な答えが考え出され、……しばしばいろいろな表現でもって言い表された」のである――すなわち、「人は、(≪神の自由、神の自己運動を人間のそれと取り違え混淆して、≫)絶対者の代わりに聖霊をして最後の言葉たらしめることができる」、また「すべての問いに対して、それらの問いは、聖霊の現臨と働きを通して答えられ、聖霊を通してわれわれの信仰はまことの信仰であり、われわれの神認識は真実な神認識であるということに依拠することができる」、と主張されたのである。このバルトの批判的な言葉は、~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)に過ぎないルドルフ・ボーレンの全く恣意的独善的な「神律的相互関係」の概念に依拠して、恣意的独善的に「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」、と聖霊や聖霊の言葉を実体化させて述べた、自然神学の段階で、自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返し続ける日本基督教団立東京神学大学<実践神学者>・小泉健に対してすぐさま適用できるものなのである。「人は、……その、神についての、また神的な事物についての教えは確かに啓示によって基礎づけられ確証されており、したがってそれの現実存在を通してわれわれの信仰と(≪あの二重の≫)神ノ真理ノ循環を問う問いが決定され解決されている(≪第三の形態に属する全く人間的な≫)教会を引合いに出すことができる」、「また実際的な経験、あるいは聖なる三位一体を、またイエス・キリストを引合いに出してそれに頼ろうとすることができる」、また人間論的な自然的人間に、教会論的なキリスト教的人間に、人間の感覚と知識を内容とする経験的普遍に、人間学的な哲学原理・認識論・世界観に頼ろうとすることができる。しかし、「われわれの信仰に対し働きかけ給う神ご自身の業であるところの祝福された」「最後的な保証」と「保証撤廃」・「保証除去」との同在的同時的な「試練」と「慰め」の事柄においては、それら「<すべて>」を混淆・混合・混在させたそれを「引合いに出して頼ろうとすること自体が不真面目なものであって、悪から出ていることを見てとることは大切」なことなのである。何故ならば、われわれの「まことの信仰とその真実な神認識」は、徹頭徹尾、客観的な啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、神の言葉自身の出来事の自己運動、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的にはその第二の形態の直接的な最初の第一の預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示の信仰の出来事」、に基づいているからである、換言すれば終末論的限界の下でのそれの可能性と現存は、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意ができているところの、「人間に対する神の愛と神に対する人間の愛の同一」(『ローマ書』)であり、「永遠の(神との人間の)和解」(神と人間との無限の質的差異の下で、それゆえにあくまでも神の側の真実からする、神の人間との架橋)であり、神との間の「平和」(ローマ五・一)であり、それゆえに神の認識可能性である聖性・秘義性・隠蔽性において存在する単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおいて、「神の用意の中に含まれて、人間にとって、神に向かっての、したがって神認識に向かっての人間の用意が存在する」ということにのみ基づいているからである、すなわち先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということにのみ基づいているからである、それゆえにこのことに「感謝し、また感謝し続ける」、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性・同時性(決断と態度)が前提されているからである。したがって、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、客観的な「啓示の実在」そのもの(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言、客観的な啓示の「概念の実在」)をその思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者としないで、あのように恣意的独善的嗜好的に「人が頼ろうとして引合いに出すところ、人が自分自身で答えるところ、そこでは人は、その答えが内容的にどれほど真剣なものであろうと」、最後的には「自分自身で(≪自分を≫)保証することができると考えているのである」。「もしも人が、信仰を、また信仰と共に彼が為す神認識の真実性を、自ら確認し保証することができると考えるとすれば、人はひそかに信仰から身をひいてしまっているのであり、神がその答えを携えつつわれわれを見出したいと望んでおられる(≪前述したような≫)場所にいないことになる」のである。それに対して、~の側の真実から、すなわちイエス・キリストにおける神の自己啓示から、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「お前は信じているのかという徹底した、根底を揺り動かす問いを投げかけられ、試練をまともに受けた者、そのようにして神的な救助に対して準備のできたものにされた者」は、「自分で自分を救うことができないことを(≪知らされ≫)知っている」のである。その者は、「『自分の理性や力(≪悟性、感情、意志、想像、自然を内面の原理とした禅的修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白する」のである。したがって、その者は、「『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみ」、「聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』」と告白するである。われわれの宣教、その思惟と語りが、キリスト教的な思惟と語り語りの「正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項」であって、われわれ人間自身教会自身の決定事項ではないように、「この人間的態度に対し神が応じて下さる」かどうかということも、「神ご自身の決定事項」なのである。すなわち、「われわれの信仰の確認」、われわれの「神認識に関する……体系的な考察と確定の必要な保証」は、徹頭徹尾、~の側から、「外からわれわれのところにこなければならない」のである、換言すればあの三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、聖性・秘義性・隠蔽性において存在する三位一体の神の第二の存在の仕方であるまこととの神にしてまことの人間イエス・キリスト(具体的には、その第二の形態のイエス・キリストによって直接的に唯一回的特別に召され任命されたその人間性と共に神性を賦与され装備された預言者および使徒たちの直接的な最初の第一のイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」、聖書的啓示証言における~の言葉、イエス・キリスト、客観的な啓示の「概念の実在」)を、その思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、それに根拠づけられなければならないのである。このような訳で、われわれの「まことの信仰とその真実な神認識」は、それとしての人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間(その牧師、その神学者、その成員)、人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍、人間学的な哲学原理・認識論・世界観からはわれわれのところにはやって来ないのである。何故ならば、やって来るとするならば、その信仰、その神認識は、人間自身教会自身が恣意的独善的嗜好的に対象化し客体化した「存在者レベルでの神への信仰」(偶像崇拝)に過ぎないからである、それゆえにハイデッガーがブルトマンたちを揶揄したように、人は、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」と言うであろう、「フォイエルバッハ(≪の根本的包括的な原理的なキリスト教批判を≫)を、(≪聖書的啓示証言に信頼し固執して根本的包括的に原理的に≫)批判する」ことはできないと言うであろう、「神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識」に過ぎないと言うであろう、「神の啓示の内容は、神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した……」ものに過ぎないと言うであろう、それゆえに「この対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』 ……」と言うであろう。われわれは、「慰めにあずかるためには、換言すれば……信仰を持っており、信仰の中で真実な神認識を持っているという確認にあずかるためには、(≪あの神の言葉自身の出来事に自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる≫)信仰を必要としているのである」。この信仰は、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続ける」というそれであるから、キリストにあっての啓示に対して、啓示とは独立に、恣意的独善的嗜好的に「主張しないし、また頑強に抵抗することもしない」のである、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求に基づいた「すべての公理や保証をつかもうとして手をのばすことをやめるのである」、「人間は自分自身を慰めることが出来ないということ、慰めは試練と同じように神のみ業であるということを知っている」のである。しかし、人間の信や知の往相過程を一方通行的に突き進み信や知の頂点を目指そうとする信や知の自然過程を生きる信仰者や知識人は、手を伸ばすことを止めないのである――否、止められないのである、人間学的神学・哲学的神学を目指した滝沢克己ややモルトマンやエーバーハルト・ユンゲル等々のように。信や知の往相過程(自然過程)を生きる信仰者(牧師、神学者、成員)は、「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求」に、「自分で満足させ得る要求」に変えて、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げるのである――このような神に対する「熱心さの無知」は、人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求(不信仰、無神性、真実の罪)に基づいており、「神の要求」を、人間によって恣意的独善的嗜好的に曲解された「十誡・預言者の言葉・ソロモンの処世上の知恵・山上の垂訓また使徒の報告」に過ぎないものへと変えてしまうのである、そしてある者は「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜」し、ある者は「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行」い、ある者は「大規模な世界改良の偉大な計画」に邁進し、ある者は「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義」に邁進するのである(『福音と律法』)。あの神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)は、~の側の真実としてある、イエス・キリストご自身が信じる信仰というあの主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」における不信を包括し止揚し克服した信、すなわち信と不信を架橋した信である。このイエス・キリストの信仰においてわれわれは、徹頭徹尾、「自分が――つまり『自分の理性や力によっては』――全く信じることができないことを知りって」いるということ、「全く信じることができない」ということを「告白する」のである、「『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願いの中でのみ、その願いと共に」、「『わたくしは信じる』と……言う」のである。このところで、「信じる者は救われる。この慰めによって信仰は生きる」と言うのである。言い換えれば、信仰は、「われわれから取り去られ、まさにそのようにしてこそわれわれに実際に与えられるために」、「そのようにしてこそ基礎づけられ生かしめられるために、取り去られ殺されるところでこそ、はじまる」のである。「慰め」は、「信仰を、自分自身を超えて望み見、自分自身を超えて指し示すよう教示することによって、慰める」、「信仰を、信仰の外にある真理でもって」、すなわち「神の真理として……そのようにしてこそ信仰の真理(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰≫)として、信仰の上に、高きところにある真理でもって」、「慰める」、それゆえに「慰めは、信仰を、(≪終末論的信仰における≫)希望でもって慰める」。このようにしてこそ、その慰めは、「すべての自分で自分を慰める行為とはちょうど天と地が違っているように、ちょうど試練と疑いが違っているように違っているところの、実際の神的な慰めである」。新約聖書によれば、神の恵みの賜物である「聖霊を受け」、「満たされた人」は、「召されていること、和解されていること、義とされ、聖とされ、救われていることについて語る時」、「すでに」と「いまだ」の啓示の弁証法において「終末論的に語る」のである。ここで、キリストの復活からそのキリストの再臨、終末、<完成>までの聖霊の時代において「終末論的」とは、われわれ人間の感覚と知識を内容とした経験的普遍にとっての<いまだ>であり、神の側の真実としてある啓示の客観的現実性・客観的実在、<完了>・「成就と執行」、「永遠的実在」として<すでに>ということである。このような訳で、「神認識についてのわれわれの教えの積極的な結論」――すなわちあの二重の「神ノ真理ノ循環を問う未決な問いに対するわれわれの答え」は、「われわれによって遂行されなければならない総合の行為とは何の関わりもない」ものなのである、あの神の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)における「神の答えに対する(≪われわれの≫)告白としてわれわれの答えである時にだけ答えである」ところのそれである。
 このような訳で、「それによってわれわれの最後の言葉を語るためではない」が、「結論としてもう一度、ただイエス・キリストが指し示されなければならない」。何故ならば、終末論的限界の下に生きるわれわれは、あの二重の「神ノ真理ノ循環に関して」、「最後の言葉を語ることができない」からである。すなわち、われわれは、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、イエス・キリスト(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言における神の言葉、啓示・和解、イエスキリスト)を、われわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同時性・同在性において、終末論的限界の下であの「神ノ真理ノ循環」を「ただ繰り返すことができるだけである……」。このように、「われわれは、われわれの神認識の限界について、またそもそも神認識について結論的に語りたいと思う時にこそ、まさにいかなる結論にも到達しはしない」ということを認識させられ自覚させられるのである。すなわち、われわれは、「繰り返し」、「いかに神が、その真実な啓示の中で、神がなさる認識の真実性にわれわれをあずからせ給い、そのようにして(それから……われわれは果たして信仰の中に立っているのかということが問われ、問われ続けるべく)われわれの認識に対して、神の認識との類似性を与え」、換言すればその存在と本質は隠されたままでの神的存在(神の存在)とわれわれ人間の言葉(人間的な言語を介した直観と概念を用いての信仰の認識としての神認識)との「部分的な対応と一致」、類比を与え、「まさにそれと共に真実性を与え給うか、ということを語ることができるだけである」。ここで、「われわれは、確かに、最後的な言葉を持っていない」のである。したがって、「まさにそれであるからこそ、(≪聖性・秘義性・隠蔽性において存在する三位一体の神の第二の存在の仕方、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのものである≫)イエス・キリストを指し示す指示も、いかなる場合にも、決して最後的完結的な言葉という性格を、(≪終末論的限界の下で生かされている≫)われわれの側で持つことはできないし、そのようなことは許されない」のである。したがってまた、われわれは、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、あの<純粋>なキリストの福音、<純粋>なキリストにあっての神を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」の連関と循環を志向し目指さなければならないのである、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を志向し目指さなければならないのである。このように、「問いに際しても、答えに際しても、イエス・キリストが問題」であって、人間論的な自然的人間、教会論的なキリスト教的人間、第三の形態に属する全く人間的な教会(その牧師、その神学者、その成員)における人間、「われわれ自身が問題なのではない」のである。したがって、「われわれ自身が問題である」時には、「自分を無にしつつ」、「ただ……イエス・キリストが問題であるということに基づいてのことである」、先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ということに耳を傾け「感謝し、また感謝し続ける」ということに基づいてのことである。このような訳で、われわれが「指し示さなければならないのは、キリスト論の諸命題ではない」。何故ならば、「それとしての(≪即自的な≫)キリスト論そのものは、信仰の試練でもなければ、信仰の慰めでもない」からである。したがって、われわれは、「それによって(われわれがその中で運動している)神ノ真理ノ循環が包まれている神的存在としての神の試練および慰めについて語ったことによって」、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、「主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい」という祈りに対して応じられる神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言)を、われわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶えず繰り返し、神の言葉に対する奉仕としての他律的な服従と自律的な服従との同在性同時性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、起源的な第一の形態の神の言葉、啓示・和解、客観的な「啓示の実在そのもの」(具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言におけるそれ)に感謝をもって信頼し固執して「キリスト論的に語りつつ、イエス・キリストご自身を指し示す」のである。ここで、「神的存在」は、「まさに(≪「顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストご自身である」。