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3の3(その3−1).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(234-301頁)

3の3(その3−1).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(234-301頁)
再推敲・再整理版です。

 

「十七節 宗教の揚棄としての神の啓示――一 神学の中での宗教の問題」(234-301頁)

 

 バルトは、「まことの宗教」について、次のように述べている。
(ア)イエス・キリストにおいて自己啓示された「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を持ってはいない」ことからして、また生来的な自然的な「『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等≫)によっては』――全く信じる(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰する≫)ことができないこと」からして、教会論的なキリスト教的人間における宗教を含めて、「いかなる宗教も、それ自体で、そのまま、まことの宗教であるわけではない」。いかなる宗教も、それ自体では、そのままでは、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者レベルでの神」であり、「存在者レベルでの神への信仰」に過ぎない。したがって、ルドルフ・ブルトマンが「新約聖書の釈義に役立つ新しい哲学的な鍵」を、前期ハイデッガーの哲学に見出したということに対して、そのような、「『いわゆる存在者レベルでの神への信仰は、結局のところ神を見失うこと……』」になるから、「それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』」(木田元『ハイデッガーの思想』)、とハイデッガーが述べた時、その根本的包括的な原理的な「揶揄」・批判は、客観的な正当性と妥当性を持っているのである。このような訳で、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、キリストの霊である聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断によるあの総体的構造(下記の【注】を参照)に基づいて生起するバルトの「まことの宗教」の規定は、当然にも、生来的な自然的な「人間自身の本質と存在」、「人間的な実在と人間的な可能性」「それ自体で、そのまま」、「まことの宗教に属しているわけではない」ということを包含している。言い換えれば、教会論的なキリスト教的人間における宗教を含めて「まことの宗教となる」その根拠と可能性は、「それの前ではいかなる宗教もまことの宗教としては成り立つことができず、それの前ではいかなる人間も正しくはない」ことからして、それ故に「死と裁きのもとにある」われわれ人間を、「死人を生命へと、罪人を悔い改めへと呼び出すことができる」し、それ故にまた「偽りの宗教だけが存在する広大な領域の中に」、「まことの宗教を造り出すことができる」ところの、神の側の真実としてある神の側からするイエス・キリストにおいて自己「啓示された神の事実」、あの総体的構造を持っている「イエス・キリストの名」、「本源的な客観性」にのみある。もしもそうでないならば、主観的にどのように反批判をしようとも、客観的には、フォイエルバッハやマルクスやハイデッガーのキリスト教批判の対象そのものとしてのキリスト教(宗教)でしかないであろう。したがって、「まことの宗教」は、神の側の真実としてある神の側からするあの総体的構造に基づいた「恵みの被造物」として生起することができるのである。したがってまた、キリスト復活から復活されたキリストの再臨(終末、「完成」)までの聖霊の時代におけるその途上性において、絶えずくり返し「まことの宗教」であろうとする「宗教は、啓示によって支えられ、啓示の中で救い出されることができる」。このような訳で、イエス・キリストにおける神の自己「啓示を通しての宗教の揚棄」は、「ただ、宗教の否定、ただ、宗教は不信仰であるという判決(≪「恵み」に包括された「裁き」≫)を意味しているだけでは」なく、宗教を「助け起こし」、「まことの宗教」を「造り出す」こと(≪「裁き」を包括した「恵み」≫)も意味している。したがって、「まことの宗教」は、教会の宣教(その一つの補助的機能としての神学)における思惟と語りが、「キリスト教的語りの正しい内容の認識として祝福され、きよめられたものであるか、それとも怠惰な思弁でしかないかということは、神ご自身の決定事項であって、われわれ人間の決定事項ではないのである」、それ故にそれは、「『主よ、私は信じます。私の不信仰を助けて下さい』というこの人間的態度(≪「祈り」の態度≫)に対し神が応じて下さる(≪「祈りの聞き届け」≫)ということに基づいて成立している」ということを認識し自覚しているのである。何故ならば、もしもその認識と自覚がないならば、東京神学大学の実践神学者の小泉健のように、ただの人間として神学者のルドルフ・ボーレンの「神律的相互関係」の概念に依拠して、人間の側から「わがまま勝手に」、恣意的独断的に、「聖霊が説教者に言葉を与え、語ることへと導く。説教者は聖霊の言葉を伝え、聖霊の言葉に導く」と、聖霊や聖霊の言葉を、人間の決定事項として実体化させてしまうことになるからである。ここにおいては、まさに「(中略)神の意識は人間の自己意識であり、神の認識は人間の自己認識である」、「(中略)神の啓示の内容は、(≪イエス・キリストにおいて自己啓示された≫)神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」、換言すれば「存在者レベルでの神」から発生した、それ故に「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>を持たない、その「対象に即してもまた、『神学の秘密は(≪生来的な自然的な「人間自身の本質と存在」、「人間的な実在と人間的な可能性」における「いつわりの宗教」を対象とした、「人間学の後追い知識」にしか過ぎない≫)人間学以外の何物でもない!』」(『キリスト教の本質』)。

 

【注】
イエス・キリストにおける神の自己啓示は、自己自身である神としての(ご自身の中での神としての)自己還帰する対自的であって対他的な(完全に自由な)聖性・秘義性・隠蔽性において存在している(それ故に、人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、われわれは、神の不把握性の下にある)「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする「父なる名の内三位一体的特殊性」・「三位相互内在性」における「一神」・「一人の同一なる神」・「三位一体の神」の(それ故に、「三神」、「三つの対象」、「三つの神的我」ではない)、われわれのための神としての「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」の中での三つの存在の仕方(性質・働き・業・行為・行動)、すなわち起源的な第一の存在の仕方としてのイエス・キリストの父――啓示者・言葉の語り手・創造者、第二の存在の仕方である子としてのイエス・キリスト自身――啓示・語り手の言葉・和解者、第三の存在の仕方としての神的愛に基づく父との交わりとしての聖霊――「啓示されてあること」・キリスト教に固有な客観的に存在しているイエス・キリスト自身を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)・救済者なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事全体における第二の存在の仕方、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉そのものであり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間、「真に罪なき、従順なお方」「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」(「ただイエス・キリストの名だけ」)において、その内在的本質である「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性の認識と信仰を要求する啓示である。
 そのような訳で、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、神は、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化され第一義化・価値化・絶対化された人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質に過ぎないものであるであろう、すなわち「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下でのキリストにあっての神としての神ではないであろう。
 「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるしである」、換言すれば人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」である。したがって、それは、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

 

 そのような訳で、われわれは、神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事を、「そのままの仕方ではっきりと言い切ることをためらってはならないのである」。したがって、「キリスト教宗教はまことの宗教であるという命題は、それが内容にみちた命題でありたいと望むならば、ただ神の啓示に(≪その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づいて≫)聴従しつつ、あえて主張されることができるだけである」、「感謝をもってそのまま受けとるという仕方における神の啓示に(≪その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づいて≫)聴従しつつなされた命題は、……ただ信仰命題であることができるだけである」。この時、われわれは、「宗教は不信仰であるという啓示の(≪その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づいた≫)判断を、非キリスト者に対してだけ向けるのではなく、むしろキリスト教宗教(教会や神の子どもたち)そのものに向けるのである」。キリスト教会にある、われわれキリスト者自らにある「内なる不信」に、「内なる異端に向けるのである」。この時、バルトは、フォイエルバッハの根本的包括的な原理的なキリスト教批判を、客観的な正当性と妥当性のあるものとして、教会の一つの機能としての神学的課題として、われわれキリスト者自身の課題として、自らの立場において(「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉である「ただイエス・キリストの名だけ」に立脚することおいて)包括し止揚し克服しているのである(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)。したがって、クラッパートが『バルト=ボンヘッフーの線で』(寺園喜基編)で、パンネンベルクが「他の諸宗教をフォイエルバッハ流に説明し、キリスト教は例外だとするようなやり口の(バルトの)戦術は、結局のところキリスト教神学それ自身を台無しにしてしまう」という思惟と語りが、バルトを全く誤解し誤謬し曲解したそれであるかを知ることができるであろう。このような誤解と誤謬と曲解しかできないパンネンベルクには、「人間論のレベルと哲学的論証によって」さえも、「無神論的宗教批判との対決をなす」ことができないことは自明的なことなのである。何故ならば、同じ人間学的土俵上にある、「人間学の後追い知識」に過ぎない自然神学(クラッパート、パンネンベルク、寺園喜基等々)は、人間学的領域におけるフォイエルバッハのキリスト教批判を根本的包括的に原理的に包括し止揚することはできないからである。クラッパート(および寺園喜基)は、パンネンベルクによってバルトの批判を企てたのであろうが、しかし、自然神学を自らの立場において包括し止揚し克服しているバルトの神学における思想水準と、「何らかの抽象を以て始められ何らかの空論に終わるところの」「すべての大学社会の神学」(『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』)として、自然神学の段階で停滞と循環を繰り返しているクラッパートやパンネンベルクやバルト研究者の寺園喜基の自然神学性の間には段階的な雲泥の差があるのである。

 

(イ)「神がご自分を現わされ明示される自己啓示の傍を通り過ごし、神ご自身によって遂行された和解の傍を通り過ごし、和解に逆らいつつ、神の慰めと指示を軽くあしらい、踏みにじりつつ、大きな、あるいは小さなバベルの塔をうち立てようとする人間的な不信仰」――すなわち、「われわれが信仰を実証する際の実証の仕方全体、神および神的事物についてのわれわれのキリスト教的考え、われわれのキリスト教的神学、われわれのキリスト教的礼拝、われわれのキリスト教的交わりと秩序の形態、われわれのキリスト教的道徳、詩、芸術、個人的および社会的な(≪政治的な≫)キリスト教的生活を形成してゆこうとするわれわれの努力、キリスト教的事柄のために戦うわれわれのキリスト教的戦術と戦略としての人間の業」は、「イエス・キリストにおける神の啓示に対する反抗」であり、それ故に人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神への信仰」、「偶像礼拝と業による義への欲求である」。したがって、バルトは、『啓示・教会・神学』において、次のように述べている――「ドストエフスキーの書いたあの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪「人間の内的生活は、自分の類・自分の本質に対する関係における生活」であり、「人間は他人がいなくとも考えるとか話すとかという類的機能……を果たすことができる」から、彼の善意は、恣意的独断的に対象化され客体化された彼の自由な自己意識・理性・思惟の類的本質、意味世界、物語世界である≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された(≪人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された≫)救いの計画と救いの方法(≪平和の計画と平和の方法≫)が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救いの計画と救いの方法(≪平和の計画と平和の方法≫)の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」、と。

 

 前述したことが「聖書にとって……自明的であることを理解するためには、イスラエルの民、ないしは新約聖書に出てくる弟子の一団」が、「ヤハウェ、ないしは、イエス・キリストの具体的な恵みの現臨から切り放された時に生起することに注意を払う必要がある」、「啓示の恵みから抽象された(≪神だけでなくわれわれ人間も、われわれ人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もという≫)彼らの人間的な現実存在に注意を払う必要がある」。「出エジプト三二章」(「シナイ山のふもとで、契約の締結と律法授与にすぐつづいている場面」)――「モーセと共に」、「宗教をまことの宗教たらしめるであろうヤハウェの具体的な恵みの現臨が欠けた時」、「イスラエル、ヤハウェ教団、啓示の民」は、そして「その祭司のかしらであるアロン自ら、鋳物の子牛を造り・それを拝み・それに犠牲をささげるという主の祭りを行った彼らの人間的な現実存在に、注意を払う必要がある」。事実的に、神の側の真実としてある主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのものであるイエス・キリストを「律法の目標としない」ことが起こった時、キリストの福音を内容とする福音の形式としての「律法の目標」は、人間的な「自然法」や「抽象的理性」や「民族法」という形に転倒されてしまった。また、その時には、「盲目的に仕事へと没頭する」ことを、「人目をひくような簡素さと寡欲さに沈潜する」ことを、「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行う」ことを、「大規模な世界改良の偉大な計画に邁進する」ことを、「大衆や時代の傾向と手をたずさえて、ある種の正義に邁進する」ことを「律法の目標」とするということが起こるのである(『福音と律法』)。このことは、神に対する「熱心さの無知」のなせる業である。何故ならば、その時、彼らは、「アロンの言う通りに、献身的な熱心さをもって……皆、自分たちのもっているもののうちの最上のものを……さし出した」からである。そして、彼らは、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」、と叫んだ。「主はモーセに言われた」――「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らに向かって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう」。ここに、「彼らの人間的な現実存在の中での」、「人間的な実在と人間的な可能性の中での」、「啓示の恵みから抽象された(≪不信仰としての≫)啓示<宗教>がある」のである。「どうしてあなたがたは、『われわれには知恵がある、主のおきてがある』と言うことができようか。見よ、まことに書記の偽りの筆がこれを偽りにしたのだ。知恵ある者は、はずかしめられ、あわてふためき、捕えられる。見よ、彼らは主の言葉を捨てた、彼らになんの知恵があろうか(エレミヤ八・八以下)」。

 

 このような「悔改めと裁きの説教は」、「旧約聖書的宗教からの逸脱」に対して、「啓示の恵みから抽象された(≪不信仰としての≫)啓示<宗教>」に対して、「啓示の贋造」や「祭儀的不誠実と道徳的荒廃に対して向けられている」。このことは、預言者を媒介とした、「明らかに」「真剣な意味で宗教的な民における啓示の恵みから抽象された(≪不信仰としての≫)啓示<宗教>に対して戦う(≪あの総体的構造を持っている≫)啓示の必然的な戦いの遂行である」。したがって、「救いの約束」(「裁き」を包括した「恵み」)は、「必然的に裁きの言葉」(「恵み」に包括された「裁き」)との全体性においてある、すなわち区別を包括した単一性(「単一性と区別」の総体)においてある。ヤハウェの「言葉、……契約」は、神の側の真実としてある「本源的な客観性」として、「イスラエルの民によって破られ、踏みにじられたとしても」、「そのまま続くのである」。したがって、「イスラエルは民でありつづけるし、イスラエルの宗教は(≪啓示認識・啓示信仰としての≫)啓示宗教でありつづける」のである。その啓示認識・啓示信仰としての「啓示宗教は神の啓示に拘束されているが、しかし神の啓示は啓示宗教に拘束されていない」のである。したがってまた、神の側の真実としてある「客観的な本源性」としての(≪あの総体的構造を持った≫)啓示そのものが、人間的な実在と人間的な可能性における不信仰としての人間的な「いつわりの宗教」・「偶像礼拝」・「業による義」・「啓示の恵みから抽象された(≪不信仰としての≫)啓示<宗教>」、「その根拠と対象を奪われた」「(≪不信仰としての≫)啓示<宗教>」、「空疎化された宗教」、「ユダヤ宗教」を、「多くのそのほかの宗教と同じひとつの宗教でしかないものとして、暴露し裁くのである」。それは、「神の自由な恵み」――すなわち、「功績なしに与えられる自由な赦し」(「裁き」を包括した「恵み」)を通して、それ故に絶えず繰り返し、「いつわりの宗教としての仮面をはがされ、判決が下されるということ(≪「恵み」に包括された「裁き」≫)を通して、(≪あの総体的構造に基づいて、終末論的限界の下でのその途上性において≫)まことの宗教である」ことを目指すためである。

 

 「エレミヤの警告」は、「新約聖書においても妥当する」。何故ならば、「イエスの言葉から切り放されるや否や」、「弟子たちは不信仰」の陥穽に陥っていくからである――「ペテロが彼自身の足(≪彼の自主性・自己主張・自己義認の欲求、換言すれば無神性・不信仰・真実の罪≫)で立つ時」、彼は、「神のことを思わず、人間のことを思(マタイ一六・二三)う者」であり、「思いきってことをなすがその後すぐ駄目になってしまう疑う者(マタイ一四・二八以下)」であり、「マルコスの右の耳を切りおとすが(ヨハネ一八・一〇)、その後直ちに……イエスを三度知らないといって否定してしまう者である」。また、弟子たちは、「天国で誰がいちばん偉いのだろうかと問う(マタイ一八・一)者たち」であり、「天国でイエスの右と左に座りたいと願う(マルコ一〇・三五以下)者たち」であり、「海上の嵐にうろたえる」「信仰がない(マルコ四・三五)者たち」であり、「ゲッセマネの園で居眠り(マルコ一四・三七以下)してしまう者たちである」。ここで「最高に原則的なこと」は、「彼らは、イエスが彼らを召されたにもかかわらず、彼らを召された時に、彼らはイエスに従ったにもかかわらず、イエスに従ったことによって、自分自身が不信仰な世に属する者である」ということを、内在的な外在的な信にある不信を認識させられるという点にある。「彼らの信仰は不信仰である」。したがって、マタイ16・13以下におけるペテロの告白(教会の信仰告白、すなわち「あなたはメシア、生ける神の子です」)は、「直ちに恵みとして特徴づけられる」――何故ならば、「(中略)信じる者は、自分が――つまり(≪生来的な自然的な≫)『自分の理性や力(≪知力、感性力、悟性力、意志力、想像力、自然を内面の原理とする禅的修行等≫)によっては』――全く信じることができないことを知っており、それを告白」せざるを得ないからである」、「聖霊によって召され、光を受け、それゆえ自分で自分を理解せず(中略)頭をもたげて来る不信仰に直面しつつ(中略)『わたくしは信じる』とかれが言うのは、『主よ、わたくしの不信仰をお助け下さい』という願い(≪「祈り」≫)の中でのみ〔マルコ九・二四〕、その願いと共にのみであろう」からである(『福音主義神学入門』)。

 

 そのような訳で、「啓示された神の事実」、「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉である「イエス・キリストの名」から離れては、キリスト教宗教(教会や神の子どもたち)は、何一つできないのである、「まことの宗教となる」ことはできないのである――「あなたがたは、(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉である≫)わたしが語った言葉によって既にきよくされている。(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉である≫)わたしにつながっていなさい。……枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたも(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉である≫)わたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。……(≪「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉である≫)わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである(ヨハネ一五・一以下)」。したがって、「Tコリント一三章」における「愛」を、「啓示された神の事実としてのイエス・キリストという名に置き換える時」、「『愛』の概念を最もよく理解することができる」のである。「異言を語ること、預言、奥義の認識、山を移すほどの信仰、自分の全財産を貧しい人に施すこと、最後に、自分のからだを焼かれるために渡すこと、それらすべてについて……、『その際』もしもキリスト者が愛を持たないならば、それらのことは彼にとって何の役にも立たない、いっさいは無益である」。パウロは、人間的な実在と人間的な可能性に偏向した「宗教的自己意識」を持っていなかった。したがって、パウロは、次のように語るのである――「わたしは自ら省みて、なんらやましいことはない……。……『だが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。……主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう』(Tコリント四・二以下)」。パウロは、「ローマ四・一以下において、神の前でアブラハムが義とされるということはただ不敬虔なものの義認であり、アブラハムの信仰はこの義認を信じる信仰であり、それ故決して自分の行い、割礼および律法を信じてより頼むことではなかった」と述べている。すなわち、それは、人間的な実在と人間的な可能性に偏向した「宗教的自己意識」のそれではなかった。このような訳で、第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会のわれわれ成員は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造の中での三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」)を、自らの思惟と語りと行動における原理・規準・法廷・審判者・支配者として、終末論的限界の下で絶え繰り返し、それに対する他律的服従とそうした態度と決断としての自律的服従との全体性において、それに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋な教えとしてのキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」(この「隣人愛」は、自己欺瞞に満ちた市民的観点・市民的常識における通俗的なそれではなく、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請のことである)――すなわち、主格的属格として理解された「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものであるイエス・キリストを信ぜよ、イエス・キリストに感謝をもって信頼し固着せよ、すべての人々が純粋な教えとしてのイエス・キリストの福音を現実的に所有することができるためにイエス・キリストの福音を告白し証しし宣べ伝えよという連関・循環において、イエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を目指さなければならないであろう、それ故にわれわれ成員は、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階で停滞と循環を繰り返すことはできないであろう。

 

 そのような訳であるから、「宗教的自己意識の……限界づけの問題」は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づいて、人間的な実在と人間的な可能性に偏向した不信仰としての「偽りの宗教である教会や神の子どもたち」・「キリスト教<宗教>が、……相対化される」というその問題のことである。「ただ単に神の前にあってのわれわれの確実性だけでなく、またわれわれの存在と活動の確実性を、それであるからまた人間との関係の中でのわれわれの確実性を、われわれが安全にまもろうとすることを『禁止させる』限界づけと相対化についての認識の出来事」は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、あの総体的構造に基づいた「信仰(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)の中で、その信仰を通して生起する」それである。この事柄について、「パウロは、Tコリント一三章においてなしたように、単にキリスト教会の宗教について語っているばかりでなく、最高に個人的な、自分ひとりだけの固有な宗教経験についても語っている」。「(Uコリント一二・一以下)『わたしは』……『キリストにあるひとりの人』(二、三、五節)を知っている」。「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ(≪主格的属格として理解された「神の御子の信じる信仰」、すなわち神の御子が信ずる信仰に由って生きるのだ≫)>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)――「わたしはこういう人について誇ろう。しかし、わたし自身については、自分の弱さ以外に誇ることをすまい(五節シュラッター訳)」。パウロは、「彼の特別なもろもろの啓示」、「一回的な唯一無比な啓示を通して」、まさに「主イエス・キリストを通して、全く仮借ない仕方で限界づけられていること、『わたしは弱い時にこそ、わたしは強い』ということ……に根ざしている」。