カール・バルト(その生涯と神学の総体像)を理解するためのサイト

3の2(その2).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』

3の2(その2).『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』(180-233頁)
再推敲・再整理版です。

 

「十七節 宗教の揚棄としての神の啓示――一 神学の中での宗教の問題」(180-233頁)
3の2(その1)の続き
 「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)、すなわち「啓示ないし和解の実在」そのものであり、起源的な第一の形態の神の言葉であり、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間イエス・キリストにおける神の自己啓示は、神の側の真実としてある神の側からする「神についての徹底的教示であると同時に」、「正しくなく、聖くなく、それ故断罪されており、破滅した状態にある」われわれ人間に対する、「神の徹底的な救助である」――「福音書の中ではすべてのことが受難の歴史に向かって進んでおり、しかもまた同様にすべてのことは受難の歴史を超えて甦り・復活の歴史に向かって進んでいる」、すなわち「旧約(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)から新約(≪「神の恵みの啓示」・福音≫)へのキリストの十字架でもって終わる古い世」・時間は、復活へと向かっている、この「実在としての成就された時間」・「本来的な実在としてのイエス・キリストの新しい時間」としてのキリストの復活(使徒行伝1・3のキリスト復活の「あの四〇日」)、「まことの現在」は、「新しい世」・時間のはじまりである。「神の像に似せて造られているという意味で、正しくなく、聖くなく、それ故断罪されており、破滅した状態にある」われわれ人間は、まことの「人間の本質と概念の中にもともと含まれている」のではない、換言すれば「否定された時間」・世、「否定的判決の時間」・世、「失われた非本来的な古い時間」・世に存在するその現にあるがままの現実的な人間存在である肉体・身体と精神・意識を持ったわれわれ人間は、まことの「人間の本質と概念の中にもともと含まれている」のではない。「単一性と区別」(区別を包括した単位性)における死(「神の放棄」)と復活(「神の選び」)の出来事におけるイエス・キリストにおける啓示の真理においては、われわれ人間は「今なお」「神の像」的状態の中に「何らかの仕方で存在しているのではない」。そこにおいては、われわれ人間は、「神の像」的状態の中に「もはや存在しておらず、そこから自分のあやまちを通してぬけ出してしまった状態として、語りかけられることができるだけである」――この認識は、イエス・キリストにおける神の自己「啓示自身が持っている啓示の固有な証明能力」、あの「総体的構造」(下記の【注】を参照)における「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる「神の啓示された認識(≪信仰の認識としての神認識、啓示認識・啓示信仰、人間的主観に実現された神の恵みの出来事≫)としてはじめて真理である。それは(≪まことの神にしてまことの人間≫)イエス・キリストにあって真理である」、ちょうどまさに常に先行する神の用意に包摂された後続する人間の用意という「人間の局面」は、「全くただキリスト論的局面だけである」ように。「イエス・キリストは、神がキリストにあって世をご自分と和解させ給う時に」、「神と世とを和解させようとするすべての人間の企てに対して、人間がなすすべての義認、聖化、回心、救出の企てに対して」、恵みに包括された裁き・「否をもってわって入られるのである」。何故ならば、「イエス・キリストにあっての神の啓示は、われわれの義認と聖化、われわれの回心、われわれの救出が、イエス・キリストにあって一度ですべてにわたって力を奮う仕方で起こり、なしとげられた」からである。イエス・キリストが、「ナザレのイエスという人間の歴史的形態」だけが、「ただイエス・キリストの名だけ」が、徹頭徹尾神の側の真実としてある、主格的属格として理解されたローマ3・22、ガラテヤ2・16等のギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」そのもの、すなわち「神の義、神の子の義、神自身の義」そのもの、それ故に成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(この救済概念は、平和の概念を包括している)そのものである。すなわち、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方(働き・業・行為、子なる神の存在としての神の自由な愛の行為の出来事)であるまことの神にしてまことの人間「イエス・キリストにあっての(≪その死と復活の出来事における≫)神の啓示」は、「神の義と聖」が、「われわれの義と聖とされ、われわれの罪が彼の罪とされること、彼がわれわれのために失われ、断罪されるものとなり、われわれが彼の故に救われたものとなるということである」――「この交換(Uコリント五・一九)と共に、啓示は、立ちもすれば倒れもする」。したがって、キリストにあっての神の「啓示は……イエス・キリストノ贖罪トトリナシでないならば、実際に力を発揮し人を救うところの神ご自身を現わし、明示し給うことではない……」のである。その第二の存在の仕方である「啓示と和解」が「キリストの神性」の根拠ではなくて、その内在的本質である「キリストの神性」が「啓示と和解を生じさせる」のである。「赦す神」は、「聖書の主題であり、同時に哲学の要旨である」神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下で、たとえその人がまことの人間であっても人間に内在することは決してないのである。バルトは『バルトとの対話』で、「神はすべてのものを見られ、はなはだ良しとされた」が故に「その本性は良い」、しかし、その「良い本性に対抗してわれわれ(≪人間≫)が罪をおかしている」が故に、「私は人間の内にある『善性ののこり』については語らないのだ」と述べている。それが人間論的な自然的人間であれ、教会論的なキリスト教的人間であれ、誰であれ、生来的な自然的なその現にあるがままの現実的な人間存在におけるわれわれ人間は、その「良い本性に対抗して……(≪際限なく≫)罪をおかしている」から、またキリストにあっての神から遠ざかり・遠ざかり続けている(すなわち無神性・不信仰・真実の罪のただ中にある)し、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に「存在者レベルでの神」を際限なく増産し続けている(罪を新たな罪を犯し・犯し続けている)のであるから、また経済社会構成が高度化し、科学や技術が発達しても、情念の世界、愛憎の世界、権力と地位と富への欲望、市民社会における社会的な現実的な貧富の差、地域紛争、自国の利害を最優先させ一部国家支配上層の意思によって巨大で強力な軍事組織を動員できる戦争の元凶である民族国家等々を克服でき得ていないのであるから、「『善性ののこり』については」語ることができないのである。したがって、われわれは、教会論的なキリスト教的人間を含めて、次のようにしか告白することはできないであろう――「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、(≪徹頭徹尾神の側の真実としてある主格的属格として理解された≫)神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」、「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかしそれと同時に、人間的存在が(≪あの総体的構造に基づいて≫)イエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」(『福音と律法』)。

 

【注】
 神の側の真実としてあるイエス・キリストにおける神の自己啓示は、その「啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力」、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、「復活され高挙されたイエス・キリストから降下し注がれる霊である」聖霊の証しの力、神のその都度の自由な恵みの決断による主観的な「認識的な必然性」(客観的な「啓示の出来事」の中での主観的側面としての「聖霊の注ぎ」による「信仰の出来事」)を包括した客観的な「存在的な必然性」(客観的なイエス・キリストにおける「啓示の出来事」)を前提条件とした主観的な「認識的なラチオ性」(徹頭徹尾聖霊と同一ではないが、聖霊によって更新された人間の理性性)を包括した客観的な「存在的なラチオ性」――すなわち、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事である、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性として客観的に可視的に存在している第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする「神の言葉の三形態」(換言すれば、キリスト教に固有な類と歴史性)の関係と構造(秩序性)における第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)、その聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)という総体的構造を持っている。そうでないならば、「神とはまさに、人間の想像能力・思惟能力・表象能力の本質が、現実化され対象化された……絶対的な本質(存在者)、……と考えられ表象されたもの以外の何物でもない」(『フォイエルバッハ全集第12巻』「宗教の本質にかんする講演 下」)であろう、キリストにあっての「(中略)神の啓示の内容は、(≪キリストにあっての≫)神としての神から発生したのではなくて、人間的理性や人間的欲求やによって規定された神から発生した」ものに過ぎないであろう、それ故にその「対象に即してもまた、『神学の秘密は人間学以外の何物でもない!』」であろう(『キリスト教の本質』)。
 「まさに(≪イエス・キリストにおける神の自己≫)啓示の中でこそ、まさにイエス・キリストの中でこそ、隠れた神は、ご自身を把握できるものとし給うた」。しかし、そのことは、「決して直接的にではなく、間接的にである」、あの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる「信仰に対してである」、「その本質の中においてではなく、しるしの中においてである」、このように「とにかくご自分を把握できるものとし給うた」。その内在的本質が肉となったのでは決してなく、その「外に向かって」の外在的な第二の存在の仕方における「言葉が肉となった」――「これが、すべてのしるしの最初の、起源的な、支配的なしるし(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化されたに過ぎない「存在者」では決してなく、徹頭徹尾神の側の真実としてある、イエス・キリストにおける神の自己啓示としての、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方における言葉の受肉としての「存在者」≫)である」(それ故に、人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」ではない、それ故にその対象からして「存在者レベルでの神への信仰」ではない)。「このしるしに基づいて、このしるしのしるしとして」、「そのほかにも神の永遠の言葉の被造物的なしるしが存在する」。先ず以て第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書(その最初の直接的な第一の「啓示ないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している、また「教会に宣教を義務づけている」聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)が「しるしのしるし」として客観的・可視的に存在している。「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間「イエス・キリストと地上における可視的なみ国」――「これこそ、神ご自身によって造り出された……神を直観と概念を用いて把握し、したがってまた神について語ることができる」「偉大な可能性」である。

 

 今まで述べてきたことから、キリストにあっての神の「啓示は宗教に抗し、宗教は啓示に抗するという循環が明らかになってくる」。何故ならば、キリストにあっての神は、その第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおいて、「世の罪を担われ、われわれのために心をくだかれるが故に」、「われわれすべての罪をそのままご自分の身に負うことを欲し給う方」であり、自己義認の欲求に基づいて「人間が自分で自分の存在を仕上げ、自分で自分を義とし、聖化しようとすることを欲し給わない」からである。それに対して、キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき宗教は、キリストにあっての神の啓示に「反逆しつつ神に向かって突進しようとする企て」、「神を(≪神とは全く異なる人間の≫)われわれ自身と和解させようとする敬虔な努力における企てである」。したがって、バルトは、最後的には完敗するそのような「敬虔な人間には、この世での称賛を得させるがよい」と述べたのである。この「敬虔な人間」は、「アダムの子」、「換言すれば、地上的な人間であり、罪と死の下に立っているし、……立ち続けている人間である」。いずれにしても、キリストにあっての神の啓示にとって、人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者レベルでの神への信仰」(偶像崇拝、例えば自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教、近代の宗教的形態である人間にとって一部に過ぎない科学を全体化し絶対化する科学主義等々)としての宗教は、「無力な抵抗」、「困窮状態における傲慢」、「愚かな空想に過ぎない」企てである。したがって、キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき宗教は、「自然的および超自然的な、歴史的および無時間的な、ある種の必然性、潜在能力、秩序がもっている事実的な優越性と支配について人間が経験したことによって」、「偶像を精神的感覚的に対象化したいという要求」から、不可視的な「霊的な偶像を、それから精神的な偶像」を、また可視的な「偶像をつくろうとする企てである」、「神の思想と神の像を造り出そうとする企てである」。この企ては、人間自身の「力」による人間の「支配と管理」を目指す宗教、すなわち人間が「自分自身を義とし、聖化しようとする人間の暗い衝動としての宗教そのものである」。キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき宗教を求める彼らは、「それぞれに、その固有な宗教としての、教義学、礼拝儀式、生活秩序を持っている」。

 

 「そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる(ルカ一〇・二八)ということ」を、「人が自分の業をなしつつ律法を果たすことによって自分を義とし自分で自分を聖化しなければならないというように理解したイスラエル」は、「律法を誇りとしながら、自らは律法に違反して、神を侮っている(ローマ二・二三)」、そうした「あなたがたは、御使いたちよって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった(使徒行伝七・二−五三)」「パリサイ的なイスラエル」であって、「まことのイスラエルではない」。何故ならば、そこにおいては、われわれは、「『むさぼるな』と命じる律法と直面して、われわれの中に『むさぼり』」の罪(ローマ七・七)を生じさせてしまう」からである。このようになる根拠は、われわれ人間が、義認の唯一の根拠である「イエス・キリストが信ずる信仰による神の義」を、すなわちイエス・キリストが「律法の成就」・「律法の完成」・「律法の終わりとなられた方であることを聞かず承認せず」、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己表現・自己義認の欲求もという神との共労・共働・協働・協力を求め続けるところにある。その時、宗教的人間は、「神の要求」を、人間的な「自分自身の要求に、自分で満足させ得る要求に変えて」、「神的な『汝は斯くなすであろう』を変じて」、「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げてしまうのである、ちょうど言葉と行為を二元論的に対立させて、言葉(あの総体的構造に基づいた純粋な教えとしてのキリストの福音の言葉)だけでなく行為を、現実的な社会における社会的実践(行為)を、観念の共同性を本質とする政治的実践(行為)をという「人間的な余りに人間的な『汝は斯くなすべし』」をつくり上げてしまうのである。その時、宗教的人間は、イエス・キリストにおける福音を内容とする福音の形式としての律法を、福音と律法を二元論的に対立させ、それ故にキリストの福音から独立させた律法を、「自然法」や「抽象的な理性」や「民族法」や「大規模な世界改良の偉大な計画」や「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行うこと」や「大衆や時代の傾向と手をたずさえて行くある種の正義」という形に転倒させてしまうのである。何故ならば、彼らは、自分の義を求めて、「神の義に従わなかったからである(ローマ一〇・二−三)」。第三の形態の神の言葉に属する全く人間的な教会におけるバルトが、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉であるパウロの言葉に連帯しながら「キリストは、信じるすべての者を義とする律法の終わりである(ローマ一〇・四)」と言う時、イエス・キリストにおいては福音と律法は二元論的に対立してはおらず、律法は、福音を内容とする福音の形式であり、それ故に律法は、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すなわち、その連関と循環において、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのもの」であるから、ただイエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固着せよという神の命令・要求・要請のことであるし、それ故にすべての人々があの総体的構造に基づいた純粋な教えとしてのキリストの福音を現実的に所有することができるために、キリストの福音を告白し・証し・宣べ伝えよという神の命令・要求・要請のことなのである。何故ならば、この福音を内容とする福音の形式としての律法がなければ、われわれ人間は、現実的にキリストの福音を所有することができないからである。この意味で、律法は、本来的には神の側からやってくる「心にしるされた」「いのちの御霊の法則」(ローマ八・二、エレミヤ三一・三三)・「生命に導くべきもの」・「神の恩寵を証しするもの」であり、「不義はゆるされ、もはやその罪はおぼえられない」(エレミヤ三一・三四、ローマ四・六)という事実において、福音を内容とする福音の形式なのである。

 

 「まさにこのイスラエルを証しすること(≪「神の裁きの啓示」・律法≫)、したがって来るべきイエス・キリストを証しすること(≪待望としての「神の恵みの啓示」・福音≫)が、旧約聖書の意味」であるから、「それ故に旧約聖書(≪「神の裁きの啓示」・律法と待望としての「神の恵みの啓示」・福音との全体性としてのそれ≫)は、業による宗教の文書ではなく、新約聖書とともに」、「すべての業による宗教に、それとともに宗教そのものに言い逆らい抗する啓示の文書なのである」。バルトは、ルターの「福音と律法」理解について、次のように述べている――ルターは「旧約および新約聖書の注釈家として、しばしば抽象的、図式的に、……パウロ自身のパウロ主義とはいえないパウロ主義……にしたがって、律法と福音を、命令と約束の言葉を、全体として(≪二元論的に≫)区別し」律法→福音という順序で論じた(このルターに対して、バルトは前述したように二元論的に対立させた仕方で論じておらず、福音→律法という順序で、区別を包括した単一性において律法を、福音を内容とする福音の形式として論じている)が、「同時にまた」、「ローマ書の序文の結論のところ」においては、「旧約と新約聖書をその起源的、最後的な単一性の中で」、すなわち「キリスト教と福音の教え全体を要約し、旧約聖書全体への導入を準備しようとしているかのよう」に論じている。ルターは、「中世末期の人間の行為義認論にプロテストはした」が、その自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教としてのキリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき「宗教」を、根本的包括的に原理的に揚棄できなかった「宗教改革者」(エーバハルト・ブッシュ『カール・バルトの生涯』)だった。

 

 さて、新約聖書も、旧約聖書と同様に、律法は、「神の民と神の子供たちの新しい生活が従うべき秩序、命令、指示」、神の命令・要請・要求、イエス・キリストの福音への召喚、「恩寵への召喚」である。第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身を起源とする第二の形態の神の言葉である聖書およびその聖書を自らの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者とした第三の形態の神の言葉である教会の宣教において、福音が「告知」・「証し」・「宣教」される時、「私は私のものではなく、私の真実なる救い主イエス・キリストのものだ」、徹頭徹尾イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固着せよという福音の形式としての律法が建てられる。何故ならば、この福音の形式としての律法がなければ、われわれ人間は、現実的に福音を所有することはできないからである。したがって、新約聖書における福音を内容とする福音の形式としての律法は、われわれ人間に対して「部分的にだけでも自己義認と自己聖化の能力を与え、要求することにあるのではない」。すなわち、新約聖書も、「ひとつの宗教書ではない」。新約聖書は、「イエス・キリストについての証言であり」、「徹頭徹尾人を義とし、聖化する神の恵みの宣べ伝え(≪あの総体的構造に基づく「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」という連関と循環におけるキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法≫)にある」のであって、そしてそのことによって「すべての宗教の中にある不信仰の仮面を、はぐことにある」のである、「宗教の揚棄」にあるのである。新約聖書における、われわれ人間に対する神の「単純な要求」・「包括的な命令」・律法は、徹頭徹尾神の側の真実としてある、「律法の成就」・「律法の完成」・「律法の終わり」である主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信ずる信仰)による「神の義、神の子の義、神自身の義」、成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)に基づいて「人間を支配し給う」「イエス・キリストの支配」を、「このイエス・キリストを信ずべしという単純な要求にある」のである。このイエス・キリストを「律法の目標」としない限り、「律法の目標」は、人間的な「自然法」や「抽象的な理性」や「民族法」や「その時代の人間中の様々な敗残者に対して、熱心に博愛的配慮……教育的配慮を行うこと」や「大規模な世界改良の偉大な計画」や「大衆や時代の傾向と手をたずさえて行くある種の正義」等々へ転倒されていくのである。

 

 「新約聖書の使信を信じる信仰」は、主格的属格として理解されたギリシャ語原典「イエス・キリストの信仰」(イエス・キリストが信じる信仰)による「律法の成就」・「律法の完成」・「律法の終り」、「神の義、神の子の義、神自身の義」、成就・完了された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済(平和)そのものである(あの総体的構造に基づいた、この認識と承認と確認が重要な問題である)イエス・キリストを信じる信仰における「人間の義認と聖化」であり、そこでの「人間の新しい生」を生きることである。直接性ではなく、この媒介性が重要な問題である。したがって、「新約聖書の意味での信仰」は、「人間的自己規定の除去ではないが、人間的自己規定の揚棄を意味しており、人間的自己規定を(≪あの総体的構造に基づいて≫)神的なあらかじめの規定の秩序の中に編み入れることを意味している」。このことは、「キリストのみ業と聖霊の賜物」ということを意味している、換言すればあの総体的構造における「啓示と信仰の出来事」の「賜物」ということを意味している。したがって、キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき宗教ではなく、あの総体的構造に基づいてキリストにあっての神の啓示に根拠づけられたキリスト教に固有なキリスト教宗教における人間は、神と人間との無限の質差異を固守するという<方式>の下において、徹頭徹尾、「主体」・「主辞」となることはできないのである、このことを認識し承認し確認しているのである。このように、「啓示は宗教を不信仰として特徴づける」のである。

 

 神の側の真実としてある、「ただイエス・キリストにあっての神の啓示だけ」が、その啓示によって揚棄されるべき「宗教を揚棄する」のであるが、それ故にそれだけが、今まで見てきたように、「宗教を偶像礼拝および業による義として特徴づけ」・「宗教を不信仰としてその仮面をはぐ」のである、「宗教を揚棄する」ことができるのである。したがって、「ただイエス・キリストにあっての神の啓示だけ」が、われわれに対して、「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ところの「世界内在的な意味での宗教を問題化する観点を与える」のである。したがって、そのところでだけ、われわれは、学業的知識の水準においてではなく、神学における思想の問題として、「シュライエルマッハー以外の他の(≪多くの≫)人々の所で」、「人間の自己運動を神のそれと取り違えるという混淆」、「神の自由を認識していない」という「ヘーゲルの強力な痕跡に遭遇する」(『ヘーゲル』)と言うことができる、「神と人間を同一視する神学(中略)『人間の中なる神について』の議論が根絶されない限り、フォイエルバッハを批判する理由は、われわれにはない」(『ルートヴィッジ・フォイエルバッハ』)と言うことができる。クラッパート『バルト=ボンヘッファーの線で』(寺園喜基編)で、クラッパートは、次のような報告を行っている――すなわち、パンネンベルクは、「他の諸宗教をフォイエルバッハ流に説明し、キリスト教は例外だとするようなやり口の(バルトの)戦術」は、「結局のところキリスト教神学(≪「人間学の後追い知識」としての自然神学≫)それ自身を台無しにしてしまう」、「無神論的宗教批判との対決は、人間論のレベルと哲学的論証(≪すなわち人間論と人間学の後追い知識としての自然神学≫)によってなされなければならない」と述べている、パンネンベルクは、バルトの戦術が、「他の諸宗教をフォイエルバッハ流に説明し、キリスト教は例外だとするようなやり口」にあると述べているが、今回の『教会教義学 神の言葉U/2 第2章 神の啓示<下> 聖霊の注ぎ』「十七節 宗教の揚棄としての神の啓示――一 神学の中での宗教の問題」だけを念頭に置いても、バルトは、「キリスト教は例外だ」などということを一言も述べていないことは明らかのことである、それ故に悪意に満ちた批判であることは明らかである、バルトは、まさに人間論や人間学の後追い知識人に過ぎない形而上学的神学者のパンネンベルクを含めて全キリスト教にも内在している宗教は、すなわち人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された「存在者レベルでの神」、「存在者レベルでの神への信仰」は、キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべきことを論じているのである。バルトは、キリストにあっての神の啓示に信頼し固執するという立場において、キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき全キリスト教にも内在している宗教、諸宗教を、包括し止揚しようとしているのである。しかし、悪質なバルト批判をなしたパンネンベルクは、「思想は物質ではなく外化された観念であるということを、……理解しなかった」、すなわち、「観念の運動は観念によってしか埋葬されず、甲の観念は、乙の観念がそれを(≪客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に≫)包括し、止揚することによってしか」、乙の観念がそれを否定的に媒介することによってしか、「亡びない」ということを理解しなかった(吉本隆明『カール・マルクス』)。したがって、この悪質なバルト批判をしたパンネンベルクは、またその悪質なバルト批判を正しいとして(そのバルト批判について誤謬・曲解と考えたのであれば、報告しないし、報告するとしてもバルトの著作に基づいてパンネンベルクに対して反批判を展開するという仕方でするであろうから)わざわざ報告しているクラッパートは、またそのクラッパートに心酔している寺園喜基は、バルトを批判するためにパンネンベルクを引用していると考えられるのであり、彼らは、「『今日まさにこのマールブルクでは、無理やり模造された敬虔さと結びついて、弁証法の見せかけがとくに肥大している』が、それよりは『むしろ無神論という安っぽい非難を受け入れた方がよい』、『いわゆる(≪人間的理性や人間的欲求やによって恣意的独断的に対象化され客体化された≫)存在者レベルでの神への信仰(≪キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき「宗教」≫)は、結局のところ神を見失うこと』」になると客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に「揶揄」・批判したハイデッガーの、その「揶揄」・批判の対象そのものであると言えるし、それ故に彼らは、まさにキリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき宗教そのもの中で停滞と循環を繰り返しているだけであるということも知ることができるのである。

 

 さて、キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき宗教としての「偶像礼拝と業による義を目指す宗教そのものの生命活動の中での一要素である批判的な方向転換を持つ相対的に新しい、宗教の道」は、「神秘主義と無神論の二つの道にある」のだが、それらもただあの「世俗性」の中で停滞と循環を繰り返すそれでしかないものである。彼らにとっては、「真理と確実さは現にあり、それに基づいて到達されるものであり、到達することができるという点で、……(≪人間自身である≫)自分を信頼しているのである」。彼らは、「もっと金持ちになりたいと願って、……自分の資産の一部を、有利と思われる企業に投資する資産家なのである」。こうした「宗教的生活」は、その「宗教的本質として、その限り人間の本来的な、宗教的所有として、敬虔な魂の中に既に宿っていたことの単なる表面化、表現、表示(≪人間的理性や人間的欲求やによって対象化され客体化された「存在者」、「存在者レベルでの神」、偶像としてのそれ≫)、したがって繰り返しでしかないものである」。

 

 キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき「人間的な実在と人間的な可能性における宗教」は、「徹頭徹尾……自然と気候……血と土壌(≪風土的自然環境≫)を通して、経済的、文化的、政治的諸関係(≪「歴史的諸関係」≫)……を通して」、こうした「自分に(≪不可避的に≫)課せられた存在様式の諸規定とそれに対決している精神的風土を通して条件づけられている」のである。例えば、ヘーゲルが言うように自然から完全に対象的になり得ていない「精神と自然との直接的な統一の段階」を生きる、農耕を経済的基盤とした人類史のアジア的段階においては、宗教も自然を内面の原理とするのである。その典型は、「草木・……・山河・大地・大海皆是れ……仏なり」・草木国土悉皆仏性・「草木国土悉皆成仏」・山川草木悉皆仏性を説いた天台本覚論に見ることができる。この人類史のアジア的段階における自然原理は、観念を本質としているから、いつでも復古することができる、いつでも反動的に復古することができるのである。このことは、身近な日本のキリスト教界を見ればすぐに分かることである。この人類史のアジア的段階における日本的なナショナルなもの(滅私奉公的な存在様式)とヘーゲル弁証法を介して土俗的神学を構成しようとした北森嘉蔵、日本的な権威としての天皇と権力としての国家に基づいた国家主義を主張した佐藤優、国家主義的立場に基づいてA級戦犯も合祀されている靖国参拝推進論を主張した、バルトをトータルに理解しようとしないで、バルトの自然神学論を高校倫理資料集レベルで誤謬し曲解して書き、第三の形態の神の言葉に属するバルトを第二の形態の神の言葉である使徒と誤解し誤謬し曲解して『使徒的人間――カール・バルト』を書いた富岡幸一郎等を見ればすぐに分かることである。したがって、バルトは、「このように宗教がその変わりうる性質を持った宗教的人間に束縛されているということはすべての宗教が持つ弱さである」と述べたのである。

 

 このようなキリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき「宗教の自己矛盾と不可能性」が、「それとして明かになってくる……批判的な方向転換」となるためには、すなわちそれが客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的な方向転換として「真剣な意味で自分自身の不信仰があばかれ咎め立てられる」ためには、換言すれば「まことの宗教への方向転換となる」ためには、イエス・キリストにおける神の自己啓示を、あの総体的構造に基づいて「既に信じていなければならないであろう。また、彼が信じるためには、神の啓示が彼に出会っていなければならないであろう」。その時、キリストにあっての啓示によって揚棄されるべき「人間的実在と人間的可能性」における「宗教的な教義学……律法を人間が(「形造」り)成就してゆこうとすること、宗教的な道徳と禁欲的実践そのものが……、疑わしい、不可能なものとなるということ……が起こり得るのである」、「原理的に、……これまでの宗教から別な宗教……へと逃避することを妨げるということが起こり得るのである」、「あるいは新しい宗教へと逃避することを妨げるということが起こり得るのである」。

 

 さて、「相対的に新しい、宗教の道の一つである神秘主義」――すなわち、「目と口を閉じることとはらい清めることという二重の意味を持っている」、「受動的にも能動的にも……人間をより高い状態へとはらいきよめることのできる……控え目な態度」のそれは、「偶像崇拝や教義否定には無関心である」から、宗教の「批判的な方向転換」を、「表現された宗教の体系全体としての伝承」を、「彼なりの仕方で誠実に愛し」、「自我と神との同一性を目指す、保守的な形態である」(キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき保守的な宗教的形態である)。したがって、バルトは、「ヨハン・シェフレルが、自我と神を全面的に互いの中に入り込ませつつ解消させ、消滅させた後で、急にまた『たとえ汝がどれほど賢明であろうと、知恵を汝に帰するな。神にあってカトリックの信者のほかに、誰ひとり賢明なものはない』と歌うことができた」と述べている。

 

 また、「神秘主義」に対して「無神論」は、「無思慮な、子供っぽい、宗教の批判的な方向転換」の宗教的形態である。何故ならば、無神論は、第一には、キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき宗教の客観的な正当性と妥当性とをもった根本的包括的な原理的な批判を行ったフォイエルバッハやマルクスやハイデッガーが問題なのではなく、「まず第一に、(≪神と人間との無限の質的差異を固守するという<方式>の下におけるキリストにあっての神としての神の≫)否定が問題」であるからである。第二には、無神論は、神秘主義と同じように、「認識と対象が……一つであるところの形態のない、業のない(≪「教義学と倫理」を持たない≫)内面世界の中での宗教的実在」(「人間的な実在と人間的な可能性」における宗教)が問題であるからである。バルトは、この例として、人類史のアジア的段階における「中国における老子道教の道とインドにおける「梵ト我ト一体デアルコト」――ヘーゲルは、『法哲学講義』で、「人間もおのれを空しくすればブラフマンの境地に達することができ、そこでは有限な人間とブラフマン(宇宙の原理)の区別がなく、梵我一如となってあらゆる個別が消滅する。(中略)意識が対象なき意識になっている」と述べている――とを挙げ、また西欧的段階におけるヘーゲルの「絶対精神の即自対自等を挙げている」。その時、無神論は、「神の存在と神的な律法の有効妥当性の否定となって現われる」。しかし、この無神論における「絶対的な否定は、相対的な肯定によって成り立っているから」――すなわち、神だけでなく人間も、人間の自主性・自己主張・自己表現・自己義認の欲求もというように、両者の混淆・共労・協働・共働・協力を目指すそれであるから、逆に言えばそれは、無神性・不信仰・真実の罪を目指すそれであるから、常に、自然神学あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教となって現われる。無神論は、そのような「無思慮さ全体から成り立っている」のである。ヘーゲルにおいては、哲学は「本質的にキリスト教の正統的教義と一致する」。この時、「キリスト教のもろもろの根本真理」は、その「哲学によって維持され保管されることになる」。したがって、無神論は、「自然、歴史、文化、人間の動物的ないし理性的な現実存在、あれこれの道徳あるいは不道徳の実在性を否定しない」し、それ故にそれらの世俗的なものを「権威……力とする世俗主義」に立脚するのである。ある者は、人間にとって部分でしかない感覚を全体化し絶対化し大脳科学や情報科学や情報技術を<宗教>とする、ある者は、人間にとって部分でしかない理性を全体化し絶対化し理性<主義>を<宗教>とする、ある者は、人間にとって部分でしかない経済を全体化し絶対化して<経済決定論>を<宗教>とする、現実的な市民社会よりも規模の小さい観念の共同性を本質とする国家を第一義性・価値性として絶対化して<宗教>とする等々。このように、無神論は、それらの「世俗的な権威と力と有効妥当性から……出発する」。

 

 神秘主義と無神論における宗教に対する批判的な方向転換は、宗教の「弱さおよび……必然性」が、「非必然性」――すなわち「相対的な意味での必然性でしかないことを暴露する(≪キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき≫)宗教的な領域のものであった」。したがって、「神秘主義と無神論は……、あまりにもひどく宗教の現実存在と結びついたものでしかなかった」。神秘主義と無神論は、「形態のない、業のない内面の中で、空想の中で、実際に救いと祝福にあずかり、自分自身のもとで救いと祝福にあずかり、そのようにして自分自身同時に、内面と外面の対立の彼岸において現実の世にあって救いと祝福にあずかっている」。キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき宗教は、「世界の中にあり、(≪フォイエルバッハが『キリスト教の本質』で批判していたように≫)人間である能力……人間の固有な能力」、「神々を考え出し、形成し」、人間「自身を義とし聖化する能力である」(バルトは、『ルートヴィッヒ・フォイエルバッハ』で、客観的な正当性と妥当性とをもって根本的包括的に原理的に、「…天と地・神と人間を転倒する可能性を意味しており、終末論的限界を忘れる可能性を意味している」ルター的受肉説、キリスト論、聖餐論を批判している)。そこでは、「偶像が造られ、……偽りが語れ、殺人、盗み、(≪様々な神々との≫)姦淫がなされている」。「偉大なる『神の友』」論者(神秘主義者)と「偉大なる『神否定論者』」(無神論者)は、「結局皆、少なくとも宗教に対する一種の寛容さにまで到達するのであり」、それ故にそれらは、キリストにあっての神の啓示によって揚棄されるべき宗教を「全面的に否定し去ることはできない」、とバルト述べている。言い換えれば、神秘主義も無神論も、「神の支配の下」で、「恵みの光の中」で、「三位相互内在性」における「失われない単一性」・神性・永遠性を内在的本質とする三位一体の神の、その「外に向かって」の外在的な「失われない差異性」における第二の存在の仕方であるイエス・キリストにおける神の自己啓示により、自分自身の「不信仰、偶像礼拝、業による義が裁かれると同時に」、そうした「自分自身を裁かなければならない」のである。このような訳で、バルトは、神学における思想の問題としての「宗教の揚棄」は、「神秘主義や無神論」における様々な「書物の中には書かれていない」のであって、「別な書物の中に」――すなわち、第一の形態の神の言葉であるイエス・キリスト自身(「啓示ないし和解の実在」そのもの)を起源とする第二の形態の神の言葉である「聖書の中に書かれている」(その最初の直接的な第一の「啓示のないし和解」の「概念の実在」、すなわち預言者および使徒たちのイエス・キリストについての「言葉、証言、宣教、説教」である聖書の中に書かれている)、とバルトは述べている。