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カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述4)

カール・バルト『カール・バルト著作集8』「知解を求める信仰 アンセルムスの神の存在の証明」吉永正義訳、新教出版社、1983年に基づく

 

カール・バルトの著作に即したカール・バルトについてのノート(論述4)

 

 「本質からして、(≪あの「啓示と信仰の出来事」に基づいて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識、すなわち啓示認識・啓示信仰に依拠した≫)信仰は、知解を求める信仰である」。したがって、「知解スル(intelligere)」ことは、終末論的限界(Tコリント13・8以下)の下における信仰自身の「必然的」な「渇望」である。したがってまた、われわれは、「まさに信仰の確信を持ちつつ、信仰ノ根拠(fidei ratio)を渇望しなければならない」。言い換えれば、われわれは、三位一体の唯一の啓示の類比であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉(イエス・キリスト自身)、すなわち「啓示の実在」そのもの、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言、すなわちその最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」を、われわれの思惟と語りにおける原理・規準・法廷・審判者・支配者として、絶えず繰り返しそれに聞き教えられることを通して教えるという仕方で、純粋なキリストにあっての神・純粋なキリストの福音を尋ね求める「神への愛」と、そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」(純粋なキリストの福音を内容とする福音の形式としての律法、神の命令・要求・要請、すべての人々が現実的に純粋なキリストの福音を所有することができるために為す純粋なキリストの福音の告白・証し・宣べ伝え)という連環において「神への愛」を渇望しなければならない。「アンセルムスの主観的なcredo〔ワレ信ズ〕」は、あのキリスト教に固有な類としての「教会の客観的なCredo(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義≫)を、換言すれば人間的な言葉で定式的に表現された諸命題の総和(≪教会の<客観的>な信仰告白および教義の時間性、歴史性≫)を、……関係点として持っている」。言い換えれば、アンセルムスのそれは、あの「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した、それ故に主観性を包括し止揚した客観性を持っているから、教会の客観的なCredo(教会の<客観的>な信仰告白および教義)を信じる信仰自身が、「既に知解スルこと」となるのである。この時、「キリストの言葉」は、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における「『キリストを宣べ伝える者たちの言葉』と同一であるといった具合に、そしてそのこと中で」、「(信仰が信じる)『正しいこと』である」。神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会における「キリスト教の宣教の、この人間的な言葉(≪あの「神の言葉の三形態」、すなわちキリスト教に固有な類・歴史性の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した教会の客観的な信仰告白および教義、Credo≫)に対する関係の中で、信ジル(≪主観的なcredoワレ信ズ≫)ことは、知解スルことの前提である」。言い換えれば、恣意的独善的な自然神学段階あるいは自然的な信仰・神学・教会の宣教の段階を包括し止揚し克服するための前提である。

 

 「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した「教会の客観的なCredo」を信じる「信仰自身」(「credere des Credo〔クレドーを信ジルコト〕としての信仰自身」)が、「既に……知解することである」。したがって、この主観的な「credo〔ワレ信ズ〕」と「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した「教会の客観的なCredo」、すなわちそのような教会の<客観的>な信仰告白および教義の間の「関係からして、……キリスト者は、信ジルことから知解スルことに向かって立ち上がることができるのか」、換言すれば教会の一つの機能としての「神学が可能であるのかが、結果として生じてくる」、あの純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」――そのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連環において「神への愛」を志向し目指すという課題が生じてくる。もしそうでないならば、人間的理性や人間的欲求やによって対象化された組織・制度・建造物としての教会は存在することができるとしても、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づて終末論的限界の下で与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、その世代的・世紀的総和としてのキリスト教に固有な類、そのキリスト教に固有な類の時間性(歴史性)に信頼し固執し連帯したイエス・キリストをのみ主・頭とするイエス・キリストの教会(生きた共同体)は存在することはできない(「私ガ語ルコトヲ、私ガ理解スルヨウニ助ケテクダサイ」)――「ドストエフスキーの書いた(≪『カラマアゾフの兄弟』の≫)あの大審問官は、神と人間に対して、疑いもなく善意をいだいていたのであるが、彼が神と人間に仕えようと願ったのは、ただ彼の善意(≪彼の人間的理性や人間的欲求やによって対象化された「存在者レベルでの神」の救い・平和の企て≫)によってに過ぎなかった。したがって、彼の奉仕は、最も洗練された支配行為に過ぎなかったのである。神と人間についての独断的な観念に基づく独断的に考え出された救い(≪・平和≫)の計画と救い(≪・平和≫)の方法が支配するところ、そのようなところでは、その意図がたとえどのように心から善いものであり、敬虔なものであっても、神に対しても人間に対しても、真に奉仕が行われることはないであろう。またそのようなところには、教会は存在しないのである。そのような救い(≪・平和≫)の計画と救い(≪・平和≫)の方法の独断性が、神に余りに僅かしか信頼せず、人間に余りに多く信頼するという点に現われるということは、疑いない」(『啓示・教会・神学』)。神の言葉の第三の形態に属する全く人間的な教会の全成員の「信仰は、キリスト教の宣教を聞くこととして」――すなわちキリスト教に固有な類・歴史性の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯した教会の<客観的>な信仰告白および教義を聞くこととして、「ソノモノヲ意味シテイル言葉を」――すなわち純粋なキリストにあっての神、純粋なキリストの福音を、「知解ノウチニ」「論理的――文法的に表現された意味関連性」を、「知識として知ることである」。しかし、この場合、信仰は、「この〔知識として〕知ることを、……不信仰と共通に持っている」(下記の【注】を参照)。「知解ノウチニアルコト以外の何かが……まさに不信仰である」が、換言すれば「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯しないことが「不信仰である」が、「この〔知識として〕知ること」は、この不信仰としての側面を持っている。したがって、あの「神への愛」と「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関における「信仰は、どうしても、この知ることを超えて」、すなわち「知解ノウチニアルコト(≪「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯していること、またその第二の形態の啓示の「概念の実在」に信頼し固執し連帯した第三の形態に属する教会の<客観的>な信仰告白および教義に信頼し固執し連帯していること≫)に、事柄(≪起源的な第一の形態の神の言葉、啓示者である父なる神の子としての啓示・和解、「啓示の実在」そのもの≫)ノウチニアルコトヲ知解スルコトが付け加わっ」た「宣べ伝えられたことを真理として肯定すること」、「宣べ伝えられたことの本来的な、主要な創始者であり、ご自身真理を、ただ真理だけを、宣べ伝えることができるキリスト(≪「失われない単一性」・神性・永遠性を本質とする三位一体の神の「失われない差異性」における第二の存在の仕方、啓示者である父なる神の子としての啓示・和解、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの、「まさに顕ワサレタ神こそが隠サレタ神である」まことの神にしてまことの人間≫)の故の肯定である」――「コノ同ジ神・人ガ新シイ契約ノ基礎ヲ築キ、旧イ契約ヲ確認シテイルノデスカラ、神・人ガ真実ヲ語ッテイルト告白シナケレバナラズ、誰モ聖書ニ含マレテイルコトガ真理デアルコトヲ、一ツトシテ否定出来マセン」、「マタ私ハキリストノオ言葉ガ正シク、ソノ行為ガ理性的ニナサレテイルコトヲ疑イマセン」。何故ならば、このことは、啓示自身が持っている啓示に固有な証明能力、キリストの霊である聖霊の証しの力、起源的な第一の形態の神の言葉自身の出来事の自己運動、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて与えられる信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)、その信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の類、その信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)の類の時間性、三位一体の唯一の啓示の類比としての神の言葉の実在の出来事であるそれ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性それ自身の客観的な存在が証ししている。このような訳で、「神ノ意志ハ、決シテ非理性的デハナイ。したがって、信仰が知解ヲ求メル時に、既に起こった知ることと同じように既に起こった肯定の間の中間の道程を(≪起源的な第一の形態の神の言葉、すなわち「啓示の実在」そのものを、具体的にはその第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言、すなわちその最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」を、自らの思惟と語りの原理・規準・法廷・審判者・支配者として、あの純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求める「神への愛」とそのような「神への愛」を根拠とした「神の賛美」としての「隣人愛」という連関における「神への愛」を志向し目指して≫)進み行くことが問題であり得るだけである」――「神ガコノヨウニ存在シテイルコトヲ理解シテイル者ハ、神ガ存在シナイト考エルコトハ出来ナイノデアル」。このような「私ガ絶対的信仰ヲヨセル神的権威以外ニハ」、「特定の命題を理性ニカナッタ仕方デ教エル方法」はないのである。第三の形態の神の言葉である教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)を包摂した「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性について認識し自覚していたアンセルムスは、「神的権威そのものの中で、(≪あの純粋なキリストにあっての神・キリストの福音を尋ね求めることができる、「神への愛」を志向し目指して行くことができる≫)十分な理由を見出した」のである。ここにおいては、「知解スルコト」、教会の一つの機能としての「神学は可能な課題である」。

 

 このアンセルムスは、「キリストが人間となり給うこと、 キリストの贖罪死の必然性」を「理解シヨウ、理性的に論証シヨウとした」――このことを、「人は合理主義だと批判した」。しかし、アンセルムスは、自然神学的な段階における「教義学的な合理主義を明確に否定している」。すなわち、アンセルムスは、神学を「一般的真理」としてではなく、起源的な第一の形態の神の言葉、「啓示の実在」そのもの――この「啓示から得られた認識」、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言、すなわちその最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」、それに信頼し固執し連帯した教会の<客観的>な信仰告白および教義(Credo)としてのイエス・キリストの「実在から」啓示認識の可能性について考えたのである。言い換えれば、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性に信頼し固執し連帯するところで、啓示認識の可能性を考えたのである。したがって、自然神学の段階で停滞し「ヘーゲルの強力な痕跡」を持ったシュライエルマッハー等々とは全く異なっているのである。ここに、バルトと同じように、神学における<思想家>としての貌を持ったアンセルムスを見出すことができるのである。

 

【注】バルトは、『教会教義学 神の言葉』で、「単なる知識」と「認識」とを厳密に区別して、次のように述べている――「全く特定の領域」で、「ある特定の状況において」、「ある特定の人間」が、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、「神の言葉」を聞き、認識し、信仰し、語る責任ある証人となる場合、すなわち啓示の出来事と信仰の出来事に基づいてインマヌエルの出来事が惹き起された場合、その「出来事」、「確証」は、「単なる知識」ではなく、その啓示に徹頭徹尾感謝をもって信頼し固執する信仰の認識としての神「認識」、啓示認識・啓示信仰である。その時初めて、神の言葉は、われわれ人間に対して「実在」となり、またわれわれ人間も人間的にそれを「実在として理解」することができるのである。したがって、人間学的な「単なる知識」に過ぎないある理念、ある概念の実体化、「最高存在」、「最モ完全ナ存在」としての啓示<概念>は、すなわち自然神学の段階にある混淆・混合・折衷神学における啓示<概念>は、それ自身が聖霊の業であり啓示の主観的可能性としての「神の言葉の三形態」(キリスト教に固有な類・歴史性)の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態の神の言葉に徹頭徹尾感謝をもって信頼し固執した第二の形態の神の言葉である聖書的啓示証言、その最初の直接的な第一の啓示の「概念の実在」に信頼し固執したそれではないのである。神の言葉は、「人間の現実存在の内部」、われわれ人間の感覚や知識を内容とする経験普遍、人間的理性や人間的欲求やによって対象化された啓示内容、人間学的な哲学原理・認識論・世界観の中にはないのである。何故ならば、「神に敵対し神に服従しないわれわれ人間は、肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力を一切持ってはいない」からである。したがって、神の言葉は、あくまでも、神のその都度の自由な恵みの決断による「啓示と信仰の出来事」に基づいて、その隠蔽と顕現において、「われわれのところに来」るのである。この神の隠蔽性・神の秘義性は、われわれ人間のその啓示認識が、常に、神の不把握性の下に立たされているということ、終末論的限界の下に立たされているということを意味している。したがって、神の言葉が「人間によって信じられる……出来事」、信仰の認識としての神認識(啓示認識・啓示信仰)が与えられる出来事、人間的主観に実現される神の恵みの出来事――この「信仰の出来事」は、徹頭徹尾われわれ「人間自身の業」ではなく、「神の言葉自身の業」――すなわち「啓示の出来事」と「聖霊の注出」(「聖霊の注ぎ」)においてのみ可能となるのである。このように、「言葉を与える主」は、同時に、「信仰を与える主」である。したがって、聖書の中で証しされている教会の宣教の課題である啓示、イエス・キリストの誕生・死と復活の出来事の宣べ伝えを目指すことのない「単なる知識」としての形而上学的な教義学(自然神学の段階にある神学あるいは人間学的神学、混淆・混合・折衷神学)は、「それがどんなに考え深い才知豊かな、また首尾一貫した仕方のものであっても、その教義学は教義学としては非学問的」なのである。