本当のカール・バルトへ、そして本当のイエス・キリストの教会と教会教義学へ向かって

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−5)−2

『教会教義学 神論T/1 ~の認識』「五章 ~の認識 二十六節 ~の認識可能性」「一 ~の用意」(その5−5)−2(203−231頁)

 

「一 神の用意」(その5−5)−2

 

 さて、「われわれはもう一度」、「聖書の中で宇宙の中での人間」は、「その自己理解の中で〔現に〕あるすべてのことを通し貫いて、神のみ心に適う人間の存在、換言すれば彼自身の現在を通し貫いていて彼の将来としてのイエス・キリスト」を、すなわち~の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」(「律法の成就」・完了としての「神の最高の義」そのものであるイエス・キリスト)を、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのものであるイエス・キリストを、「指し示されている」と「答えることができる」――「人間の人間的存在がわれわれの人間的存在である限りは、われわれは一切の人間的存在の終極として、老衰・病院・戦場・墓場・腐敗ないし塵灰以外には、何も眼前に見ないのであるが、しかし それと同時に、人間的存在がイエス・キリストの人間的存在である限りは、われわれがそれと同様に確実に、否、それよりもはるかに確実に、甦りと永遠の生命以外の何ものも眼前にみないということ――これが神の恩寵である」・「『私がいま肉にあって生きているのは、私を愛し、私のために御自身をささげられた神の御子の 信じる信仰によって、生きているのである。(これを言葉通り理解すれば、<私は決して神の子に対する私の信仰に由って生きるのではなく、神の子が信じ給うことに由って生きるのだ>ということである)』(ガラテヤ二・一九以下)。(中略)自分が聖徒の交わりの中に居る……罪の赦しを受けた(中略)肉の甦りと永久の生命を目指しているということ――そのことを彼は信じてはいる。しかしそのことは、現実ではない。……部分的にも現実ではない。そのことが現実であるのは、ただ、われわれのために人として生まれ・われわれのために死に・われわれのために甦り給う主イエス・キリストが、彼にとってもその主であり、その避け所でありその城であり、その神であるということにおいてのみである」(『福音と律法』)。イエス・キリストにおける啓示の真理は、「それとしての宇宙の中での人間自身にとって超越している真理」、「その超越性全体の中で」、「~からして人間にとって内在的となった真理」、すなわち神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事とその出来事の中での主観的側面である聖霊の注ぎによる信仰の出来事(人間的主観に実現された神の恵みの出来事、啓示認識・啓示信仰)が指し示される。「全く不信仰で罪に穢れた」「われわれ」人間は、神に敵対し神に服従しない「われわれ」人間は、「肉であって、それゆえ神ではなく、そのままでは神に接するための器官や能力」を一切持ってはいないから、啓示の真理、神の言葉は、「神ご自身がわれわれ人間に対して自己啓示され」たことに基づいて、すなわち「神ご自身」が「神」と「われわれ人間」とを架橋されたことに基づいて、それゆえに神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて、その隠蔽性と顕現性において、すなわち終末論的限界の下で、「われわれのところに来」るのである。「聖書の中で宇宙の中での人間」は、「彼自身の意志する働きと活動と共に、その不正があばかれ(≪裁き≫)、……それと共に……彼に対して、彼に関して、働きを発揮する義」(≪恵み≫)の「意志せずして任命された代表者および宣教者となる」、「彼は(≪起源的な「まことの証人」、~の言葉の起源的な第一の形態である単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるまことの神にしてまことの人間イエス・キリストから≫)独立した証人としては資格を剥奪され(≪独立した証人としては決して存在し・思惟し語り・実践することはできず≫)、まさにそのようにしてこそ、(≪イエス・キリストにのみ感謝をもって信頼し固執する、すなわち~の側の真実としてのみある主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」・「神の最高の義」そのものであるイエス・キリストをのみ信じるところの≫)独立していないまことの証人として資格を与えられる」、換言すれば~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、キリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを為す「代表者および宣教者となる」。「聖書的証人たち」は、「ただ全くそれを証ししてゆくことだけを……目指し、それ故に……それの確認」が、彼らが「宇宙の中での人間から期待することができる唯一のものであり」、「またそれの確認」を、彼らは「全く明確に宇宙の中での人間から期待している」ところの「証言に対して資格を与えられる」。「聖書的証人たち」が、「聖書の中で宇宙の中での人間」を「指し示す指示は、終末論的な指し示しである」。「聖書的証人たち」は、「常に、恵の契約のことを言おうとしているのである」、彼らは、常に主としてのイエス・キリストのこと、すなわち「常に、……その方に相対して、宇宙の中での人間はもはや自分に固有な何の権利も持ち出すことができず、その方に相対して、……天上のもの、地上のもの、地下のものすべてがひざをかがめているのを見、その方に相対して、……(「不本意ながら、」「自発的に、」)その方の栄光を証ししてゆく可能性以外のほかの可能性を承認しないところの主としてのイエス・キリストのことを言おうとしているのである」。この「自発的な証言」は、~の言葉の第二の形態――すなわちその人間性と共に神性を賦与され装備された「甦りの証人」である「聖書的証人たち自身の機能であり、また(≪具体的には聖書的啓示証言に信頼し固執して、それに聞き教えられることを通して教える~の言葉の第三の形態に属する全く人間的な≫)教会の機能である」。彼ら「甦りの証人」は、「既に来た方」――イエス・キリストは、「またこれから来たり給う方」――再臨のイエス・キリストであることを語り、「宣べ伝える」のである。「なぜならば、彼ら」は、「イエス・キリストの甦りが出来事となって起こることを通して、彼らなりの仕方で、客観的に別な人間となったからである」、「更新」されたからである。このように、「われわれ」人間の更新を可能とするのは、「今日に至るまで罪人の手に渡され・十字架につけられ・死んで甦られ給うた」イエス・キリストにある「復活の力」だけなのである。「その際、……その結果……どのようになるか、信仰かあるいは不信仰か、……救いかあるいは滅びか、そのいずれが彼の受け取る分となるかということは、……聖書的証人たちにとって本来的な、主要な問題である」が、「イエス・キリストの力を問う予備的問題」に対する「答え」、すなわち「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった(≪単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~と、その第二の存在の仕方であるイエス・キリストの国となった≫)。主は世々限りなく支配なされるであろう(黙示録一一・一五)」(新共同訳聖書「この世の国は、我らの主と、そのメシアのものとなった。主は世々限りなく統治される」)という「予備的答えを、聖書的証人たち」は、「聖書の中で宇宙の中での人間を指し示すことによって、指し示す」のである。聖書(聖書的啓示証言)およびその聖書を原理・規準・法廷としてそれに聞き教えられることを通して教える教会(その客観的な信仰告白と教義)において単一性・神性・永遠性を本質とする神は、旧約聖書におけるヤハウェ、新約聖書における神(テオス)あるいは主(キュリオス)自身であり、その存在の仕方は、イエス・キリストの父、子としてのイエス・キリスト自身、父と子の霊である聖霊であり、このような三位一体の神として自己啓示する。したがって、三位一体論は、「神論の決定的に重要な構成要素」であり、「啓示の認識原理」なのである。そして、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である「十字架のイエス・キリストこそが、神に選ばれたお方」である。人間は、「そのままでは恵みを受け取る状態にはない」し、また自分でそのような状態にすることもできないから、もし人がその恵みを受け取り得たとすれば、そのこと自体が神のその都度の自由な恵の決断による客観的な啓示の出来事と聖霊の注ぎによる信仰の出来事に基づいて与えられた恵み(人間的主観に実現された神の恵み)なのである。このように、「私たちの召命・義認・聖化」は、わたしたち人間の理性や悟性や想像や意志等において、私たち人間的契機の直接性において「私たち自身の中に生起」するのではなく、徹頭徹尾全面的に、「イエス・キリストの御業」として、「私たちのため」に、「私たち自身の中に生起」するのである。このように恵みの選びを認識する場合、私たちに要求する洞察は「イエス・キリストを信ずる信仰の二重の洞察」――すなわちパウロの「神はすべての人をあわれむために、すべての人を不従順の中に閉じ込めたのである」という二重の洞察は、福音の内容そのものである主格的属格としての「イエス・キリストの信仰」(「イエス・キリストが信ずる信仰」、「神の最高の義」そのもの)と、すべての人間に対する神の命令・要求・要請、キリストの福音を内容とする福音の形式としての律法である「イエス・キリストを信ずる信仰」(バルトは「を」に強調点を付している――イエス・キリストに<のみ>感謝をもって信頼し固執すること)において明らかとなる。ここでは、「放棄される危険の全くない選ばれた者とか、選ばれる約束も一切ないほど放棄された者が存在するという考えは、はっきりと排除」されている。したがってこれは、イエス・キリストにあるときにおける「威嚇」である。しかし、私たちは、「イエス・キリストが信ずる信仰」による「神の最高の義」そのものよって、この威嚇は、止揚され克服された威嚇であり、イエス・キリストにおいて与えられた「約束」によって、それゆえにイエス・キリストに<のみ>感謝をもって信頼し固執するによって、この「威嚇から解放」されている。したがって、バルトは、『証人としてのキリスト者』で、「心を頑固にし福音を認めない人間」や「異教徒」に対して、「恵みから語り、恵みについて語るという以外のこと」をなすことはできないのであって、私たちがそうした人々に呼びかけることができるのは、「私がその人をその中に置くことによってではなく」、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方であるイエス・キリストがすでにその人をその中に(≪神の側の真実としてのみある、完了・成就された個体的自己としての全人間・全世界・全人類の究極的包括的総体的永遠的な救済・平和そのもののであるイエス・キリストの中に≫)置いてい給うことによってである」から、私たちは「キリストにあるものとしての人間のために、努力し得るにすぎない」、と述べたのである。したがって、あの「神の言葉の三形態」の関係と構造・秩序性における起源的な第一の形態のイエス・キリスト(客観的な「啓示の実在」そのもの)、具体的にはその第二の形態の聖書的啓示証言(客観的な啓示の「概念の実在」)に感謝をもって信頼し固執することによる、換言すれば神の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、それに聞き教えられることを通して教える「神への愛」と「~への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」――すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために為すキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えは、「もろもろの誡命中の誡命、われわれの浄化・聖化・更新の原理、教会が<教会自身>と<世>に対して語らねばならぬ一切事中の唯一のこと」なのである。
 「われわれ」は、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった(≪単一性・神性・永遠性を本質とする三位一体の~と、その第二の存在の仕方であるイエス・キリストの国となった≫)。主は世々限りなく支配なされるであろう(黙示録一一・一五)」という観点の下で、「宇宙の中での人間自身が指し示されている……また宇宙発生論と人類発生論を提供している……その限り一箇の世界観を語っている」、「人間的な自己理解と世界理解」を報告しているところの、「部分的」には「イスラエル的に形成され」、「一般的には、近東の、特にバビロニアの創造神話の影響を受けつつ形成されている」「創造物語が何を意味しているかを明らかにする……」。ここで、旧約聖書の創造物語において、「人は、宇宙の中での人間が神と直接結ばれていることについての(≪自然神学の<段階>における≫)直接的な証人から」、「神と人間の間の(神の啓示の中に基礎づけられた)現実の関係」が、「独立的でない(≪<非>自然神学の<段階>における間接的媒介的な≫)証人へと」、すなわち神の「主権的な仕方」における関係へと「変えられている」ということに「注意せよ」。「バビロニア神話」に「範例的な」「神々と世界との区別が明らかに相対的な、(≪それゆえに≫)ひっくり返すことのできるものである」「世界内的な弁証法」とは違って、旧約聖書は、「神自身でないすべてのものに対して、実に第一行目から」、神は、「主権的な仕方で、……まず第一に、世界に対して働きかけ給う方として、……(≪「聖書の主題」である神と人間との無限の質的差異の下で≫)立ち給う」。言い換えれば、旧約聖書においては、神と人間(その個・現存性と類・歴史性の生誕から死まで)との無限の質的差異が認識され自覚されているのである。「あのところで流出と進化について語られているところ、……ここでは非存在から(神自身でないものの)存在へと移り行く分岐点としての~の言葉だけが問題」である。「神とイスラエルの間の契約は、明らかに既にその歴史的な基礎づけ以前に、世界の創造そのものの中で、世界の創造そのものと共に、神の安息日に向かっている秩序として、(昼と夜の交代の中で)神の民の生活をととのえてゆく秩序から成り立っている」。第二に、神が「主権的な仕方で」「造られた世界は、神の目と判断の中でよい世界」、「良しとされた」世界であるということである。「良しとされた」ということは、「神によって、……その造られた存在と具体的な姿の中で、恵をもって取り上げられた」ということである。したがって、その「造られた世界」は、神と人間との無限の質的差異の下で、「神がその造られた世界の中で為し給うことに対し奉仕することができ、奉仕しなければならない」。このような訳で、神は、「この世界を造り、引き続いて保持することを……真剣な意味で、また決定的に、悔い給うということはあり得ない(創世記八・二一以下、九・八以下)」。「造られた世界は、それをよしと見給うあの神の判決に基づいて、神的な約束の確実さというヨリ大キナコトが推論されるべきヨリ小サイコトである」。「既に……(≪創世記1・27において≫)神は『自分のかたちに』人間を、……『全被造物の目』として……神ご自身を映し出すという定めをもって造り給うた」と報告されているが、「創世記二・五−二十五は、……その主な興味を人間に向け」ている。前者における人間の現実存在は、その現にあるがままの現実的な人間存在における人間を「超越している出来事の光の中におかれている」それであるが、後者における人間の現実存在も、その現にあるがままの現実的な人間存在における「人間的な被造物性そのものの<彼岸>についての言明として理解され」ている。人間が、「神がご自分の命の息をその鼻に吹き入れられること……を通してだけ、『生きた者となる時』(二・七)」、「特定の、分けられた、明らかに世の砂漠のただ中での一種のオアシスとして考えられたエデンの園が与えられている時」、「一七節で、人間に禁じられている……善悪を区別する可能性」を、それゆえに善悪を「選ぶ可能性」を、「自分でつかもうとする」ことが「本来的な」「罪…であると述べられている時」、換言すれば神だけでなく人間の自主性・自己主張・自己義認の欲求もということが不信仰・無神性・真実の罪「であると述べられている時」(『福音と律法』)、「したがって、既に楽園において、まさに楽園においてこそ」、神の「恵に逆らう」人間の「抗争が本来的な罪として述べられている時」、「そのことは何を意味しているのであろうか」、「また最後に、一八節以下に出てくる女の創造についての顕著な物語は何を意味しているのであろうか」。この女の創造物語は、「神から見て、すべての被造物を治めつつ」「ひとり」でいて、すなわちまさに自然の一部、宇宙の一部としての人間、個体自己としての全人間は身体と精神を介して全自然(自己身体、他者身体、外界としての自然――天然自然および人間化された自然としての人間的自然)との普遍的で実践的な相互規定的な対象的活動、類的な活動と生活を為していて、「しかもひとりでいるのはよくない男」、「神の創造のみ力によって、その同じ神によって男に加えられた致命的な傷から生じて来るところの助け手」、男から区別された性としての女であるが、それと同時に、男から区別された「助け手」としての女、「その助け手の中で、自分の肉、自分のからだの肢体、を愛し、養い、いたわる以外のことをすることができないところの男として理解されるべきではないであろうか」。「それで人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである(創世記二・二四)」(新共同訳聖書「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」)。パウロは、「この言葉」を「エペソ五・三一」で引用し、「三二節」で、「この奥義は大きい。それは、キリスト(≪教会の主・頭としての、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方、神の言葉、啓示・和解≫)と教会(≪性の位相とは違う第三の形態に属する全く人間的な共同体≫)とをさしている」(新共同訳聖書では「この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」)、と語っている。パウロは、「創世記二・一八以下」を、このように解釈したしたのである。パウロは、創造物語を、「疑いもなく具体的に宇宙の中での人間」、「宇宙発生論と人類発生論」を「指し示すことによって」、「同時に、原則的に」、「それがまたそのようなものであることによって」、「そのような宇宙の中での人間を遙かに越え」たところの、「啓示と和解の約束、この世界を『よい』世界として、換言すれば啓示の舞台として定められ、啓示の舞台であるのに適した世界として特徴づけるもの」というふうに読んだのである、理解したのである。「創造物語は、本来そのすべての個々の特色において……神の啓示はこのよい場所、換言すれば神の啓示のために定められ、適した場所の中で、もう一度、特別なもの」、すなわち「神の啓示は、自由な恵であり、イエス・キリストと呼ばれるであろうということをあらかじめ明らかにしている」のである。「まさにそのようにしてこそ、創造物語は、今やまた純粋な、まことの創造物語、真理に適った宇宙発生論と人類発生論であり、それは、まさに宇宙の中での人間そのものに関して語られなければならない最後的なことと本来的なことを語っている」のである。『教会教義学 ~の言葉T/1・2』に即して言えば、「創造が無からの創造であるように、和解は死人の甦り」である・「われわれは創造主なる神に生命を負うているように、和解主なる神に永遠の生命を負うている」・この対自的であって対他的、他在であって自在、全き神の自由において創造は、「契約の外的根拠」として、イエス・キリストが始原であり中心であり終極である「恵みの契約の歴史のための場所設定」である・また「恵みの契約の歴史」は、「創造の内的根拠」として、創造の目標であるその契約の歴史の始原であり、中心であり、終極であるイエス・キリストご自身である・それは、父なる神と子なる神と「父と子より出ずる御霊」(聖霊)なる神という三位一体の神の自己啓示、すなわちその神の自己認識・自己理解・自己規定である。イエス・キリストが、教会と世に対して、聖書およびその聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した教会の宣教を通して「同時的となる時と所」、「『神われらと共に』が神ご自身によってわれわれに語られるところ」においては、「われわれは、神の支配のもとに入る」ことを、それゆえに「世、歴史、社会を、その中でキリストが生まれ、死に、甦られたところの世、歴史、社会」として、すなわち「自然の光の中でではなく、恵みの光の中で、それ自身で閉じられ、かくまわれた世俗性は存在せず、ただ神の言葉、福音、神の要求、判定(≪裁き≫)、祝福によって問いに付され、ただ暫時的にだけ、ただ限界の中でだけ、それ自身の法則性とそれ自身の神々に委ねられた世俗性があるだけである」ということを認識し承認し確認するのである。したがって、単一性・神性・永遠性を本質とする~の第二の存在の仕方である、啓示・和解、客観的な「啓示の実在」そのもの、起源的な第一の形態である~の言葉、イエス・キリストにおける「『神われらと共に』という言葉」、「キリスト教使信の中心」は、第二の形態の聖書的啓示証言に信頼し固執し連帯した第三の形態に属する全く人間的な教会共同性・教団共同性のような「狭い共同体」から、「その事実をまだ知らぬ」「すべての他の人々」、「広い共同体」に向かっての運動において、その現にあるがままの現実的な人間存在における不信・非知・非キリスト者、個体的自己としての全人間・全世界・全人類に対して完全に開かれているのである、それゆえに教会(その全成員)は、すべての人々がキリストの福音を現実的に所有することができるために、~の言葉に対する他律的な服従と自律的な服従との同在性において、あの「神への愛」と「~への愛」を根拠とした「神の讃美」としての「隣人愛」を、「ヒトツノ、聖ナル、公同ノ教会」を、換言すれば教会自身と世に対してキリストの福音の告白・証し・宣べ伝えを、志向し目指して行くことが必要となるのである。
 因みに、橋本大三郎は、「言語が世界を分節し、現実世界をいまあるようなものにしている、とソシュールも言っている。これはソシュールの大きな貢献であり、言語論的転回と言われるものです」、と述べている(『永遠の吉本隆明』)。丸山圭三郎も同じようなことを述べている。ソシュール言語学のもっとも重要な核心は、「事物の秩序」は、人間が言語行為によって築きあげたもの、すなわち「事物の世界」とは、言葉の世界、概念の世界である、それゆえに客観的な事物の秩序(実在の秩序)を、言葉(記号)によって名称化したものではないのであって、「事物の世界」とは、言語によって抽象された世界、言語を介したある抽象の水準、ある抽象の度合、ある意味づけや物語性を持った世界であり、そのような仕方で、言語は「歴史的、社会的な価値関係」の網の目として存在している、と述べている。吉本は、次のように述べている――人間が言語によって世界を分節化する以前から、人間にとって客観的世界としての自然は存在していた。人間は自然の一部である、それゆえに人類史も自然史の一部である。人間にとっての客観的な対象的世界は、自然としての自己身体であり、自然としての他者身体であり、外界としての自然である。個体的自己としての全人間は、労働や言語や性・夫婦・家族の領域において、身体と精神を介して、全自然との普遍的で実践的な相互規定的な対象的活動を行い、例えば天然自然の中に非有機的身体としての人間的自然を生み出し、住居を立てるための石や樹木の加工の繰り返しの中で、住居という物質的な生産物と同時に、言語を介して住居の観念や自然としての樹木を区別して命名する観念や高度な家の建て方の技術等も獲得していった。また例えば、生殖活動において一対の男女が子を分割し家族や親族集団を構成していく繰り返しの中で、男・女、親(父・母)、子や家族や世代等の観念も獲得していった。「文字(絵文字は別として)をもたなかった時代の古代人が、文字(たとえば万葉仮名)をつかって言語を記そうとするようになったのは、……語音をとどめ、保存しようとするよりも、言語の<意味>を表記しようとすることにあった。表音的なカナ文字(万葉仮名)とはいえども、いったん表記されたうえは、音字ではなく、言語の<意味>の表記である。言語は<意味>と<音>から成っているから、カナ文字は、当然の指向性として<表意>文字をくりこまざるをえない。このように文字の本質は音につかえるのではなく、言語そのものにつかえてかわるものであり、いいかえれば表音から表意へというのは言語表記の必然的なほうこうである」(『言語にとって美とはなにか』)。意識とは現実の意識(意識された現実)であるというとき、自己に対象的になった人間的意識(対自的意識、言語の自己表出)を意味しているのであり、外化された現実の意識というとき、対他的となった実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)を意味している。自己意識における対自的意識と対他的意識、内在的な言語の自己表出と指示表出の構造である現実的意識の外化である言語<表現>は、「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識(≪実践的意識≫)の外化である」。このようにして人間は、自己を客体化し、他者の対象とり、社会的関係に入る。このとき<表現>された言語は、全人間の享受の対象となり、「交通の手段」となる。実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)は確かに「他の人々にとって存在するとともに、そのことによってはじめて私自身にとってもまた実際に存在するところの現実の意識」、すなわちコミュニケーションによる相互理解に根拠を与える意識である。しかし他方で人間には、他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識(対自的意識、言語の自己表出)があることも確かなことである。しかし、コミュニケーション論のほとんどが、実践的意識(対他的意識、言語の指示表出)と「現実的人間との関係の意識、いわば対他的意識の外化」としての<表現>された言語に偏向しているものとしてある。このときコミュニケーション論者は、コミュニケーションの中枢にある言語の部分を全体として錯誤しているのである。すなわち、彼らは、他者からはどうしても窺い知ることのできない人間的意識(対自的意識、言語の自己表出)に対して無自覚なのである。もっと重要な事柄は、言語は「他人との交通の欲望及び必要から発生」したものではない、ということである。それは第二義的なことである、ということである。言語は、第一義的には、「自分自身との交通の欲望及び必要から発生した」ものである。ここに、言語の価値としての自己表出の本質がある。吉本はこの自己表出について、狩猟人が海岸に迷い出てはじめて広大な青い海をみた例を挙げながら論じている――「人間の意識が現実的反射の段階にあったとしたら、海が視覚に反映したときある叫びを<う>なら<う>と発するはずである。また、さわりの段階にあるとすれば、海が視覚に映ったとき意識はあるさわりをおぼえ<う>なら<う>と有節音を発するだろう。このとき<う>という有節音は海を器官が視覚的に反映したことにたいする反射的な指示音声であるが、この指示音声のなかに意識のさわりがこめられることになる。また狩猟人が自己表出のできる意識を獲取しているとすれば<海>という有節音は自己表出として発せられて、眼前の海を直接的にではなく象徴的(記号的)に指示することになる。このとき、<海>という有節音は言語としての条件を完全にそなえることになる。こういう言語の最小の条件をもったとき、有節音はそれを発したものにとって、自己をふくみながら自己にたいする存在となりそのことによって他にたいする存在となる。反対に、他のための存在であることによって自己にたいする存在となり、それは自己自体をはらむといってもよい。なぜならば、他のための存在という面で言語の本質が拡張されることによって交通の手段、生活のための語り言葉や記号論理は発達してきたし、自己にたいする存在という面で言語の本質を拡張したとき言語の芸術(文学)が発生したからである。このいずれのばあいも言語が本質としてはたらくかぎり即自をも対他をも対自をもふくんでいる(『言語にとって美とはなにか』)。この例のように、天然自然の海を海として分節化(対象化)するためには、すなわち海を眼前にして、「う」から「うみ」に至るところの世界の分節化のためには、人類史の長い時間を必要としたのである。言い換えれば、人間が観念の世界と、その自体的構造とその自己増殖過程が必要であったのである。その過程で言語は発生してくる。そして言語が発生するやいなや、世界は加速度的に分節化されていった。「自己表出のできる意識を獲取」すれば、<海>という有節音は自己表出としての水準を有し、海を眼前にしていなくても海という概念は、その概念<像>をも同時に備えていることになる。そして現在、言葉が新しく生み出される場所は、「言葉を使うのを専門にしている人たちのところ」であり、「典型的」には「都会のにぎやかな街頭」で言葉を自由自在に交わす若い人たちのところである(『こころから言葉へ』)。ところで、言語学は一般的に、その文法的規範と概念との構造が「表現された言語」であると規定する。この「表現された言語」が、「現象学でいう本質直観」に対応している。この表現された結果としての言語学においては、沈黙は何も言わないこと、<非>有意味性でしかない。その言語学は、「表現された言語というものは、それを発した人間(≪その内在的な心的構造、心的規範と心的概念≫)ときりはなすことはできない」ということを見ない。すなわち、「それをきりはなすことができない問題が、文学自体のもんだいになる」ということに自覚的でない。それは、根本的な誤謬である。なぜならば、言語は表出過程(自己表出と指示表出の構造としてある心的過程)と表現との構造としてあり、言語を発語し表現した場合、必ず<心的>概念と<心的>規範との構造としてある表出過程(心的過程)に反作用を惹き起こすことになるからである。この言語表現論からは沈黙は、心的過程、内在的な意識内部においては、言いたいことが一杯あってもその言いたいことを言葉として外へ出せない鬱積状態・心的亀裂状態にあることを意味している。言い換えれば、内面の鬱積状態・亀裂状態としての沈黙は、心的概念と心的規範の構造としての心的領域において、発語することを思いとどまってしまうことによる「反作用」を意味している。したがって、沈黙は<非>有意味性ではなくて、「沈黙それ自体が言語的な意味(≪有意味性≫)をもつ」のである。したがってまた、もし「陳腐」に聞こえる言葉や概念があれば、それらは死語化しているからであり、表現されたその言葉の時間性と空間性が、自然時空に解体しているからである(『幻想としての人間』)。このような訳で、もしも、自然神学の<段階>で停滞と循環を繰り返すだけの共同宗教としてのキリスト教の、党派性、党派的多元主義に基づいた、ある教派、ある学派、ある思想傾向、ある時流や時勢、ある社会的あるいは政治的言説や運動に加担する、ごまんといる大学の神学者・大学の学者・牧師・キリスト教的著述家の、「陳腐」に聞こえる信仰・神学・教会の宣教(説教)の言葉や概念があるとすれば、それは、まさしくその言葉や概念が、すでに自然時空に解体しているからである。